お腹の子は誰の子ども? 詩乃の四つの人生

おまつり

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前日譚 幼なじみという名の避難所

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 藤原詩乃にとって、西岡怜は「境界線」のない存在だった。
 家の向かいに住み、親同士も飲みに行く仲。幼い頃から中学まで、学年は一つ違いながら、二人の間にあったのは常に緩やかな空気――それが、どこにも行かない安堵感だった。

 境界線がない。
 だから、何も守らなくていい。

 それが決定的に変わったのは、高校二年の冬。
 大学受験という漠然とした坂道が見え始め、周りが急に「大人」になり始めた頃だ。詩乃は自分の部屋で参考書を開きながら、ふと「このままでいいのか」という、形のない不安に押しつぶされそうになった。

 ちょうどその時、怜が遊びに来ていた。
「なんか暗いね、詩乃」
 怜はコーラの缶を傾けながら、ふと言った。
「ねぇ、私って怜にはどう見えている?」
 詩乃がそう聞くと、怜はしばらく考え込む素振りをした。
「真面目な……優等生?大学だって教育学部に行くんじゃないの?」
「真面目……本当にそうなのかな」
「え?だって、詩乃は俺と違って勉強頑張ってるだろ。友達だって多いし、詩乃の家は結構裕福だし、母さんが、あんな素敵な娘さん持てて羨ましいって言ってた」
 怜はコーラを最後の一滴まで飲み干していた。
「私なんか……真面目でも素敵でもないよ」
「え?詩乃……どうしたの?」
 
 その言葉が、最後の糸を切ったのかもしれない。
詩乃は怜に近づき、重ねた唇は、ひどく熱くて、どこか安っぽく感じた。けど、それでいい。安っぽさなら、自分にぴったりだった。

「いい子」の仮面を脱ぎ捨てる。
 それがこんなにも簡単だなんて、詩乃は知らなかった。罪悪感よりも先に、解放感が押し寄せてきた。

「詩乃……」
 怜はそう呟きながら、詩乃を受け入れた。怜の手が震えているのを、詩乃は見逃さなかった。
「私なんか……いい子じゃない」
「……うん。彼氏でもないのに、俺にこんな事するなんて、いい子じゃないよ」
「じゃあ、やめる……?」
 詩乃のその言葉に、怜は目を見開いた。怜の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「……やめない」
 怜はそう耳元で囁き、壊れ物にでも触れるように、詩乃を抱いた。
  
 行為の後、ベッドの上で乱れた呼吸を整えながら、詩乃はぼんやり考えた。その考えは「いい子」の詩乃が出した答えだった。怜とは恋人同士ではないが、身体の関係を持った。それはつまり、私は彼と交際すべき、と。
「……私たち、付き合う?」
 まだ動悸が早い胸を押さえながら、詩乃が小さく尋ねた。
 怜はしばらく天井を見つめ、それから困ったように笑って首を振った。
「いや、なんか違うだろ。詩乃は、もっとちゃんと大切にされるべきだし……俺も、そういう重いの無理だし」
 その言葉は、拒絶ではなかった。
 むしろ、怜なりの「居心地の良さ」の提案だった。
 恋人になれば責任が生まれ、やがて終わりが来る。でも、名前のない関係なら、いつでも逃げ込める。終わりを前提としない、ずるい安心感。
 それは全く「いい子」ではなかった。それがかえって、詩乃には心地よく感じた。

 詩乃は、その名前のない関係を受け入れた。
 いや、むしろ積極的に活用し始めた。

 高校三年の時、受験勉強で行き詰まったり、うまくいかないことがあると詩乃は怜を呼び出し、行為に及んだ。行為をすることで現実から逃げていた。
 また、親の期待で心が押しつぶされそうになったり、周囲から、大学に入り卒業後はきちんと働くような「正しい未来」の話をされ、反吐が出そうになった時などにも、詩乃は逃げるように怜と関係を持った。

 怜も同じだった。怜は成績が良くなく、大学進学を諦めた。ゲームが好きで、その理由からなんとなくIT系の専門学校への進学を決めたら親に怒られた。親に叱られた夜、怜もまた逃げるように詩乃の部屋へ来た。詩乃と何度も行為に及び、現実を忘れるように互いを求め合った。

 二人の間には、情はあるが愛情はあまりなかった。怜がバレンタインデーにチョコをもらってきても、詩乃は嫉妬しなかった。むしろ「よかったね」と笑って言えた。
 また、詩乃が同級生に恋をしていた時、その恋バナを聞かされても、怜の心は動かなかった。「それで、その人に告白するの?」と怜は聞き返していた。
 それがかえって、二人の関係の空虚感を表していた。 

 東京の大学に入り、詩乃は教育学部で「理想の教師像」を追っていた。また、堂上悠斗という、爽やかでまっすぐな彼氏もできた。詩乃は悠斗と「正しい恋愛」を築き上げており、周囲から見れば、藤原詩乃は順風満帆な女子大生だった。

 しかし、心の奥底には、どうしても埋まらないぬかるみのような孤独が横たわっていた。

 大学一年の頃から付き合っている悠斗とは、表面的な会話が多かった。二年も付き合えば、それなりに打ち解け合い、何でも話せる仲になれるかと思っていたが、違った。悠斗は同じ教育学部で、体育の教師を目指している。そんな悠斗が話す「理想の教師像」はあまりにも理想的すぎて目眩がしそうだった。
 この前、詩乃が「でも実際の教育現場は大変らしいよ」と言っただけで、「否定的なこと言わないでよ」と不機嫌になった。
 若い男特有なのかわからないが、変なプライドがあり、何かを指摘するとすぐに機嫌を悪くする。
 詩乃は悠斗との付き合いで、それなりに疲れるようになっていた。

 悠斗との仲だけではない。「理想の教師像」を追求することへの疲れや、アルバイトで子供たちを見守ったあとの虚無感なども詩乃の心の中に棘として存在していた。正しい自分でいようとすればするほど、心は疲弊していくようだった。

 そんな疲弊を感じた時、詩乃は怜を呼んだ。
「今、いい?」
 メッセージを送れば、ほとんどの場合、怜は返事をくれた。怜に彼女がいる今も、それは変わらなかった。
 怜のアパートで、あるいは詩乃のアパートで、二人はあまり言葉を交わさずに身体を重ねた。そこには、悠斗との関係にあるような「築き上げるもの」という緊張も責任もなかった。ただ、あるがままの自分――繊細でも、感傷的でも、孤独でもある自分――を預けられる、温もりだけがあった。

 詩乃は知っていた。
 これは依存だ、と。

 怜もまた、彼女という逃げ場を必要としていた。親の反対を押し切って、IT系の専門学校へ入ったが、難しくて周りについていけない。地方からやってきたので、東京に友達は少ない。孤独や寂しさを埋めるために、怜は詩乃を必要としていた。

 詩乃と怜は、共依存の関係だった。

 それでも、やめられなかった。
「幼なじみ」という名の、罪悪感を薄めるラベルが貼られたこの関係は、彼女にとって、きらびやかな日常の裏側にある唯一の現実逃避の場だった。

 アルバイトで子どもたちの笑顔に囲まれる日も、悠斗と手を繋いでキャンパスを歩く日も、詩乃の心の片隅には常に怜がいた。彼は、彼女が「ちゃんとした人間」を演じることを許してくれる、静かな共犯者だった。

「これでいい」
 時々、怜の腕の中で、詩乃はそう呟いた。
 高校二年の時から数えると四年以上も経過している。最初の頃は、二人とも行為の後に罪悪感を口にした。でも今は、それすらなくなった。慣れたのか、諦めたのか、それとも最初から罪悪感など幻想だったのか。
 この境界線のない関係は、いつか崩れるかもしれない。けれど、今日だけは、このぬるま湯の中で息ができる。

 彼女は目を閉じ、明日からまた「藤原詩乃」を演じるための力を、この非日常の中からかき集めたのだった。
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