お腹の子は誰の子ども? 詩乃の四つの人生

おまつり

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第2話 六月七日(土)― 陽光と夜霧

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 午前中の講義が終わり、藤原詩乃は自宅のアパートで彼氏の堂上悠斗と昼食を取っていた。二人はソファに並んで座り、肘が軽く触れ合う距離で詩乃の作ったカレーライスを食べていた。教育学概論のレポートについての話がひと段落し、二人の間に穏やかな沈黙が流れる。
「来週の道徳の模擬授業、詩乃はどうするつもり?」
 悠斗は「道徳教授法」の話題を出した。来週、模擬授業をすることになっている。題材は何を選んでもよく、皆、実際に道徳の授業で扱いそうな題材を考えていた。
「俺はいじめの問題について取り上げようと思うんだ。やっぱりいじめはよくないからね」
 いじめとは無縁そうな悠斗が言うと、詩乃にとってはそれはまたいつもの理想論を掲げるだけになりそうだと感じた。
「……いじめのこと、実際に見たり聞いたりしたことあるの」
「ないよ。でもそれは調べるよ」
 ない、とあっけらかんと答えるその姿に、詩乃は何も言えなかった。悠斗は普通に友達に囲まれた幸せな人生を送ってきた。そんな人が理想論しかない授業をしたら、皆はどう思うんだろう。
「そうなんだ。……私は、どうしようかな」
 詩乃は話題を変えようとした。このまま悠斗の理想論を聞き続けていたら、自分の中の何かが壊れてしまいそうだった。
 悠斗は良い人だ。それは間違いない。でも、だからこそ、息が詰まる。

 詩乃は窓の日差しを眺めた。六月の柔らかい日差しは、詩乃には眩すぎた。それはまるで悠斗の理想論だけのまぶしさのようだった。
 
「悠斗、今日は何時からバイトなの」
 話題を変えようと、詩乃はテレビのニュースをぼんやり見ながら尋ねた。
「四時から九時まで。新しい子が入ってきたから、ちょっと指導も兼ねて」
 悠斗はサラダにフォークを刺しながら答えた。彼の声はいつも通り、体育教師志望らしい明るさを帯びている。悠斗は詩乃にとって「正しい恋愛」の象徴だった。キャンパスでは人気者で、サークルでも中心的な存在。彼と歩いていると、自分もどこか「普通の幸せ」に近づいているような気がした。
「また新人? 悠斗、もうすっかり先輩なんだね」
「まあね。でも教えるのって難しいよ。自分でやってる時は何でもないのに、人に伝えようとすると言葉が出てこなくてさ」
 悠斗は照れくさそうに頭をかく。その仕草が詩乃の心を温かくした。彼の全てが「まっすぐ」だった。迷いがなく、曖昧さがない。それが時として詩乃を息苦しくさせもしたが、同時にこの関係を「正しいもの」として肯定してくれる根拠にもなっていた。
 
 食器を洗い終え、二人は再びソファに戻った。午後の時間がゆっくりと流れていく。
「ねぇ、詩乃」
 突然、悠斗が詩乃の方に向き直った。彼の目は真剣で、その奥に揺らめく何かが詩乃の胸を締め付けた。
「うん?」

 次の瞬間、悠斗の腕が詩乃の肩を包み、軽やかに引き寄せられた。そして彼の唇が、詩乃の唇の上に優しく重なった。
 最初は柔らかい触れ合いだったが、次第に深みを増していく。悠斗の手が詩乃の背中を撫で、シャツの下に潜り込む。その指先は温かく、確かな意志を持って動く。
「詩乃、大好きだよ」
 彼の囁きが耳元に溶け込む。詩乃は目を閉じ、悠斗の体温に身を任せた。二人はソファからベッドへ移動した。悠斗と交わす行為は、いつも「未来」を感じさせた。来年の教育実習の話、教員採用試験の準備、卒業後の生活──全てが希望に満ち、輝いている。悠斗の肌から伝わる熱は、そうした明るい明日を約束するかのような確信に満ちていた。

 行為の後、詩乃は悠斗の胸に耳を押し当て、彼の鼓動を聞いた。安定したリズムが、すべてが整っていることを告げていた。
 
「そろそろ行かなきゃ」
 四時近くになり、悠斗は身支度を始めた。彼は洗面所で髪を整え、爽やかな笑顔を鏡に映して確認する。その一連の動作が、詩乃には何とも「完璧」に見えた。
「行ってくるね。また来週、学校で」
 玄関で軽くキスを交わし、悠斗は颯爽と出ていった。ドアが閉まる音が響き、アパートには突然の静寂が訪れた。

 詩乃は床に座り込み、膝を抱えた。彼との関係は、絵に描いたようなカップル像に近づこうとしているはずなのに、なぜか心の奥底にぽっかりと穴が開いたような感覚が残る。

 夜まで時間があった。詩乃はレポートを進めようと机に向かったが、なかなか集中できない。代わりにスマホを手に取り、怜のメッセージ画面を開いた。最後のメッセージは一週間前、彼女と喧嘩したという愚痴だった。詩乃は返信せずに画面を閉じた。

 夕食を軽く済ませ、シャワーを浴びてベッドに入ったのは十時過ぎだった。悠斗との行為の余韻がまだ肌に残っているような気がした。詩乃はシーツに顔を埋め、眠りに落ちようとした。

 その時、インターフォンが鳴った。

 一瞬、悠斗が何かを忘れたのかと思った。でも時間的に彼のバイトはまだ終わっていない。詩乃はベッドから起き上がり、インターホンのモニターに顔を寄せた。
 画面に映ったのは、雨に打たれたような顔をした西岡怜だった。
 詩乃は一瞬ためらった。そして、静かにインターホンのボタンを押した。
「どうしたの?」
 玄関のドアを開けると、怜は何も言わずに中へ入り込んだ。彼の髪は湿っていて、服にも夜露のようなものがついていた。
「彼女とさ、またもめて」
 怜はリビングの床に直接座り込み、顔を両手で覆った。その姿は、高校時代から変わらない幼さを感じさせた。
「何でいつも俺の言うこと聞かないんだろうって」
 愚痴は延々と続いた。IT系専門学校での課題の大変さ、彼女の束縛、将来への不安。怜の言葉はいつも自己中心的で、深みがなかった。それでも詩乃は黙って聞き続けた。なぜなら、この怜の前でだけ、彼女もまた「完璧な藤原詩乃」を演じる必要がなかったからだ。
「……もう、お前しかいないんだよ」
 怜が顔を上げ、詩乃を見つめた。その目は、紛れもなく依存で曇っていた。そしてそれは、詩乃自身の目にも映っているものと同じだった。
「そう」
 詩乃はただ一言返すと、怜のそばに座った。自然に、何のためらいもなく、二人の唇が重なった。高校二年の冬以来、この流れはあまりに慣れっこになっていた。
 怜の手が詩乃のパジャマのボタンを外す。詩乃は抵抗せず、むしろ自らパジャマを脱いだ。悠斗との行為の残り香が漂うシーツの上に、二人は横たわった。
「今日も、あいつと会ったんだろ?」
 怜が耳元で呟く。彼は悠斗の存在を承知の上で、この関係を続けていた。罪悪感の共有が、さらに深い共犯意識を生んでいた。
「うん」
「彼氏のはどんな感じ?」
 そう言って怜は詩乃の体に深く入ってきた。四年以上続けてきた関係は、お互いの体の反応を熟知していた。怜は詩乃の敏感なポイントを正確に刺激し、詩乃はそれに応えるように体を震わせた。
 悠斗との行為が「未来への希望」なら、怜とのそれは「現在からの逃避」だった。考えることを止め、ただ感覚に身を任せる。境界線のない関係は、あらゆる責任から解放してくれた。

 行為が終わり、二人は息を整えながら天井を見つめた。
「泊まっていく?」
「いや、彼女にバレたらまずいし、もう帰る」
 怜はベッドから起き上がり、服を着始めた。いつもの流れだ。彼女がいる怜は、朝までここにいられない。
「またね」
 玄関で軽く手を挙げ、怜は夜の闇に消えていった。
 詩乃はベッドに戻り、怜の残した体温がまだシーツに残っているのを感じた。
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