お腹の子は誰の子ども? 詩乃の四つの人生

おまつり

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第3話 六月八日(日)― 渇望と背徳

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 朝、目が覚めると怜はもういなかった。怜からのメッセージが「ありがとう」とだけ来ていた。
 午前中はレポートのまとめで時間を費やした。教育学概論は奥が深い。詩乃は理想の教師像を追求していた。子どもたちに寄り添い、信頼される先生になること──それが彼女の夢だった。

 午後はアルバイトだ。駅前の商業ビル三階にある有料遊び場『キッズジャングル』で、詩乃は週三回働いていた。ボールプールや巨大迷路、長い滑り台があるこの施設は、週末には多くの家族で賑わった。
「おかえりなさい、藤原さん」
 制服に着替え、フロアに出ると、先輩スタッフが声をかけてくれた。詩乃は担当エリアの滑り台周辺に立ち、子どもたちの安全を見守る役割だった。
「おねーさん、みてて! すべるよ!」
 四歳くらいの男の子が、大きな声で宣言してから滑り台を滑り降りる。詩乃はその笑顔に自然と微笑みを返した。
「すごいね! もう一回やろうか?」
 子どもの純粋な喜びに触れると、心が洗われるような気がした。これが教師になる醍醐味なのだろう、と詩乃は思う。子どもたちの成長に関わり、その一瞬一瞬を共有できること。
 
「藤原さん、熱心だね」
 穏やかな声が背後から聞こえた。振り向くと、エリアマネージャーの川島誠司が立っていた。四十七歳の誠司は、妻子持ちの穏やかな中年男性で、スタッフからは「良い上司」として慕われていた。
「川島さん、こんにちは」
「藤原さん、最近子どもたちとの接し方がすごく上手くなったよ。将来、きっと良い先生になるよ」
 誠司の褒め言葉に、詩乃は胸が温かくなった。彼はこれまで何度か詩乃を飲みに誘い、教育論や人生談義を交わしてくれた。悠斗や怜にはない「大人の余裕」と「包容力」が、詩乃をひそかに引きつけていた。
「ありがとうございます。でもまだまだです」
「謙虚なところもいいね。ところで、今日の閉店後、少し時間ある?」
 誠司の目が一瞬、鋭く光ったような気がした。でも次の瞬間には、いつもの温和な表情に戻っていた。
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、閉店後に話をしよう。従業員出入口で待ってるから」
 そう言うと誠司は、他のスタッフのところへ歩いていった。

 午後六時、閉店の時間になった。子どもたちの名残惜しそうな声を聞きながら、詩乃は片付けを済ませ、従業員出入口に向かった。
 誠司はスーツ姿で、スマホを見ながら待っていた。
「お疲れ様。じゃあ、行こうか」
「はい……飲みに行くんですか?」
 詩乃が尋ねると、誠司は意味深な微笑みを浮かべた。
「まあ、そういうことだね」
 二人はエレベーターで地下駐車場へ降りた。誠司の車は、白いミニバンだった。
 車が走り出し、詩乃は窓の外を流れる街明かりの光をぼんやり眺めた。誠司が運転しながら、友人から聞いたという教育現場の裏話などを語り始めた。校長と保護者の板挟みになる苦労、問題児童との向き合い方……どれも大学の講義では聞けない生の声だった。

「藤原さんは、本当に教師に向いてるよ。子どもの目を見て話すことができる。それは天性の才能だ」
「そんな……川島さんがそう言ってくれると、すごく嬉しいです」
 車はしばらく走り、やがてネオンの光が多く集まる繁華街の近くに差しかかった。詩乃はここは飲み屋街だろうと思っていた。
 
 しかし誠司の車は、一つの建物の前で静かに停車した。
 詩乃が窓の外を見上げると、そこはネオンの光が優しく明滅するラブホテルの入り口だった。
「川島さん……?」
 声が震えた。脳の一部が「いけない」と叫んでいた。でも体は動かない。誠司がエンジンを切り、詩乃の方を見た。
「藤原さん……いや、詩乃ちゃん」
 彼の声が、これまでにない甘さを帯びていた。
「ここで、少し休まない? ゆっくり話がしたいんだ」
 詩乃の喉が渇いた。これは間違っている。しかし、もうどうでもいいじゃないか、という心の声がこだました。私は「いい子」ではない。
 詩乃は何も言わず、ただうなずくことしかできなかった。
 誠司が先に車を降り、詩乃のドアを開けた。彼の手が差し伸べられ、詩乃はそれにつかまるようにして車から出た。
 
 ホテルのロビーは薄暗く、他の客の姿は見えなかった。誠司がフロントで何か手続きを済ませると、二人はエレベーターで四階へ上がった。
 部屋のドアが閉まる音が、不自然に大きく響いた。
「疲れただろう? 座って」
 誠司がソファを勧めた。部屋は広く、ベッドは大きかった。詩乃はソファの端に腰掛け、手元を見つめた。

「詩乃ちゃん」

 突然、誠司が詩乃の隣に座り、彼女の手をそっと握った。
「君のことが、ずっと気になってたんだ。真面目で、優しくて……子どもたちへのまなざしが、本当に綺麗で」
 彼の言葉が耳元に溶け込む。詩乃は自分が震えているのに気づいた。でも、それは恐怖だけではない。慕っていた上司に「女」として見られるという、歪んだ優越感もそこにあった。
「川島さん、でも……奥さんが……」
「わかってる。それでも、君に会いたくなった」
 誠司の唇が、詩乃の首筋に触れた。その瞬間、詩乃の理性は霧散した。彼女は目を閉じ、誠司の背中に腕を回した。スーツの生地の感触が、この行為の「間違い」をさらに際立たせた。
「こんなことして……いいんですか」
「よくないね。……でも、詩乃ちゃんを愛しているんだ」
 詩乃は震えていた。それは、かろうじて残っていた詩乃の「いい子」としての面がそうさせているようだった。しかし、体は動かない。
 服が一枚、また一枚と床に落ちる。誠司の手は、悠斗や怜とは違う「大人の慣れた手つき」で詩乃の体を愛撫した。それは技術的には優れていたが、どこか事務的でもあった。

「詩乃ちゃん……綺麗だね」

 誠司が囁きながら、詩乃の体の上に覆い被さった。
 行為はそれほど長くは続かなかった。しかしその間、詩乃は頭の中を様々な感情が駆け巡るのを感じた。背徳感、優越感、そして自分がこんなにも簡単に堕落してしまうことへの自己嫌悪。

 終わった後、誠司はすぐにベッドから起き上がった。
「さて、そろそろ帰らないと」
 彼はまるで打ち合わせが終わったかのような淡々とした口調で言い、床に散らばった服を拾い始めた。
 詩乃は布団に包まり、誠司の動きを茫然と見つめていた。何もかもが虚無に飲み込まれていくような感覚だった。
「詩乃ちゃんはゆっくりしてていいよ。でも、休憩三時間コースだから、三時間経つ前に帰ってね。追加料金がかかると面倒だし」
 誠司はスーツのジャケットを着込み、ネクタイを締め直した。その姿は、数分前まで詩乃の体を抱いていた男とは別人のようだった。
「じゃあね。仕事でまた会おう」
 軽く手を挙げ、誠司は部屋を出ていった。ドアが閉まる音が、詩乃の心に空洞を穿った。

 部屋には、誠司の整髪剤の匂いと、性の匂いが混ざり合って漂っていた。詩乃はベッドから起き上がり、シャワー室へ向かった。熱い湯が体を流れるが、穢れた感覚は消えなかった。

 三時間。誠司が言ったように、詩乃は時間を気にしながら部屋を後にした。夜の街を歩きながら、彼女は自分のしたことを繰り返し思い返した。
 妻と子どもがいる男との不倫。しかも彼は「休憩三時間コース」と明言していた。詩乃はただの消費物でしかなかったのだ。
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