お腹の子は誰の子ども? 詩乃の四つの人生

おまつり

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第4話 六月九日(月)― 混沌と忘却

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 月曜日の朝、詩乃は重い頭を抱えて目覚めた。土曜日の悠斗、怜、そして日曜日の誠司。三日間で三人の男との記憶が、脳内でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。それに合わせるように、体も疲れていた。度重なる情事が、詩乃の体を蝕んでいるようだった。
 大学の講義には出たが、教授の言葉はまったく頭に入ってこない。隣の席の友人が何度か話しかけてきたが、詩乃は適当に相槌を打つだけで精一杯だった。
「詩乃、疲れてる? 顔色悪いよ」
 昼休み、友人の中村美咲が心配そうに声をかけてきた。
「うん、ちょっと寝不足で」
「もしかして、堂上くんと遅くまで……?」
 美咲がからかうように笑う。詩乃は無理に笑みを浮かべた。
「違うよ。ただの寝不足」

 午後の講義が終わると、美咲が再び近づいてきた。
「ねえ、今日、留学生交流サークルの飲み会あるんだけど、来ない? たまには息抜きしよ」
 詩乃は一瞬躊躇した。でも、家に帰って一人でこれまでのことを考え続けるよりは、どこかで気を紛らわせた方がいいと思った。
「うん、行く」
「やった! 六時に大学正門前集合ね!」

 夕方、詩乃は少し厚化粧をして頬の血色を誤魔化し、集合場所に向かった。十人ほどの学生が既に集まっていて、その中には数人の留学生の姿も見えた。
「藤原さん、来てくれたんだ」
 サークルの代表格、三年の杉本が声をかけてきた。このサークルは「留学生交流」を名乗っているが、実態はただの飲み会サークルで、時には一夜限りの関係が生まれることもあると耳にしたことがある。

 居酒屋に移動し、大皿料理とビールが次々と運ばれてきた。詩乃は最初は控えめに飲んでいたが、次第にペースを上げていった。アルコールが喉を通るたびに、ここ数日の記憶が少しずつ薄れていくような気がした。特に昨日の川島誠司とのことは忘れてしまいたい。詩乃は会話もあまりせず、アルコールを口に含んでいた。
 
「藤原さん、飲みすぎ……ですか?」
 隣の席から、心配そうな声が聞こえた。振り向くと、少し面識のある中国人留学生、李健(リ・ジエン)が座っていた。彼は二十二歳、来日二年目で日本語はそれなりに話せた。
「大丈夫、平気」
 詩乃は笑って見せ、またビールのグラスを傾けた。だが実際には、既に視界が揺らぎ始めていた。
「……李くんは、どうして日本に来たの?」
 話題を振ることで、自分の意識を保とうとした。
「僕は日本の技術に興味があって。ロボット工学が気になります。将来は、日本と中国にかかわる仕事がしたいです」
 健の目は真剣で、言葉には確かな意志が感じられた。それに比べて、詩乃は自分の曖昧な生き方に嫌気が差した。
「すごいね……確かな目標があって」
「藤原さんは、教師になりたいんですよね。それは、立派な目標です」
「立派……か」
 詩乃は笑いそうになった。自分がここ数日でしてきたことを思えば、「立派」などという言葉はあまりにもふさわしくなかった。

 飲み会はさらに続き、詩乃のグラスは何度も満たされた。周囲の笑い声や騒ぎ声が、だんだん遠くに聞こえるようになってきた。
「藤原さん、本当に大丈夫ですか?」
 健の声が、霧の中から聞こえてくるようだった。詩乃はうなずこうとしたが、頭が重くてうまく動かなかった。
「ちょっと……休ませて」
 詩乃は目を閉じた。すると、一気に眠気が襲ってきた。彼女は無意識に、隣にいる健の肩にもたれかかった。

「おーい、李くん! 詩乃ちゃん酔っちゃったみたいだよ!」
 誰かの声が響いた。
「持ち帰っちゃえよ、李くん! このサークル、持ち帰りは自由だぜ!」
 別の声が続く。陽気な笑い声が周囲から上がった。
「お持ち帰り」──このサークルでは、女性をホテルや自宅に連れ込むことをそう呼んでいた。詩乃はぼんやりとその意味を理解したが、抵抗する気力はなかった。
「いや、そんなこと……」
 健の困惑した声が聞こえた。しかし、周囲の学生たちはさらに煽った。
「李くんが詩乃ちゃんをお持ち帰りです~!」
「おー! やったぜ!」

「藤原さん……僕はそんなつもりないですけど、ここから出ましょう」
 健はそう言って詩乃を背負い上げた。すると周りから拍手と笑い声が起こった。健は詩乃をおぶったまま、無言で出ていく。詩乃は健の背中で、ゆらゆらと揺られるのを感じた。

 外の冷たい空気が顔に当たった。詩乃が少し目を開けると、街灯の光が滲んで見えた。
「ごめんなさい、藤原さん……」
 健の声が震えているような気がした。彼はしばらく歩き、やがて大学の敷地内にある留学生寮の前に到着した。

 寮の一室に入り、健は詩乃をベッドに寝かせた。彼は冷蔵庫から水を取り出し、グラスに注いだ。
「お水どうぞ……」
 健がグラスを差し出すと、詩乃は目を開け、彼の袖を掴んだ。
「行かないで……」
 その声は、詩乃自身でも驚くほどか細く、切実だった。孤独が、喉の奥からこみ上げてくるのを感じた。
 健はその声に動かされた。彼はグラスをサイドテーブルに置き、詩乃のそばに座った。詩乃の潤んだ目が、真っ直ぐに彼を見つめている。
「藤原さん……眠りますか」
「ううん。……行かないで」
 詩乃は、健の手を握った。なぜだかわからないが、この手を離したくなかった。一人になりたくなかった。
「……そんな目で見ないでください。本当に、お持ち帰りしたことに……」
「いいよ。……私なんて、穢れてるから」
 二日間で三人。いや、高校から数えればもっとだ。私の体は、もう「綺麗」ではない。だから、もう一人増えたところで、何が変わるというのだろう。
  
「藤原さん……」
 健は詩乃から手を離した。これはだめだ。よくない。だけど、目の前の詩乃を置いていくことはできなかった。

 健は詩乃に覆い被さった。詩乃はじっと健を見つめ、やがて目を閉じた。その瞬間、健の理性が「いけない」と叫んでいたが、もう遅かった。
 二人の唇が触れ合った。詩乃の甘い吐息が、健の残っていた理性を完全に打ち砕いた。唇の交わりはやがて深くなり、アルコールの味がした。
 健は優しく、それでいて震えながら詩乃の服を脱がしていく。詩乃は恥ずかしそうに顔を赤らめていたが、それがアルコールからなのかはわからない。
 やがて、健は中国語で何か囁き、その言葉が詩乃の肌に触れた。

「抱歉,我不知道这是否是正确的答案。但如果这正是你想要的」
(ごめんなさい、これが正しいかわからない。でももしこれがあなたの望むことなら) 

 詩乃にとってそれが何を言っているのかはわからない。でもそれがかえって心地よかった。「藤原詩乃」という名前から、ついに完全に逃げ出せたような気がした。彼の動きは怜の無軌道さとも、誠司の事務的さとも違った。そこには、責任感と罪悪感が入り混じった、複雑な熱があった。
 詩乃は、健のリズムに身を委ねた。自分という存在が、バラバラに分解されていくような感覚。国籍も言葉も越えた、純粋な肉体的な交わり。
 行為が終わり、二人は息を整えながらベッドに横たわった。健は天井を見つめ、苦渋に満ちた表情を浮かべていた。

「我这是做了什么啊……」
「なんて……言ってるの?」
 詩乃は健の汗ばんだ胸に顔を寄せながら、そう聞いた。
「僕は……なんてことを……って」
「そう……」
 詩乃は再び健の唇を求めた。ゆっくりとした、優しいキスが交わされる。
 二人は手を繋いだまま、疲れ切って眠りに落ちた。
 

六月十日(火)― 灰色の朝

 目が覚めた時、詩乃はまず見知らぬ天井を認識した。次に、ベッドの硬さ、枕の感触。そして、隣にいる人物の存在。
 ゆっくりと頭を動かすと、李健がベッドの端に座り、シャツのボタンを留め終わったところだった。彼の表情は暗く、目には深い後悔の色が浮かんでいた。
「……」
 詩乃は起き上がろうとしたが、頭に鈍い痛みが走った。二日酔いの症状だ。そして、昨夜の記憶が、少しずつ戻ってきた。

 飲み会。酒。周囲の煽り。そしてこの部屋で……

「藤原さん」
 健の声が、硬く震えていた。
「目が……覚めましたか」
 詩乃はうなずくことしかできなかった。彼女は布団をしっかり握りしめ、体を覆っていた。
「……すみません」
 健は深々と頭を下げた。
「昨夜の僕は、どうかしていました。あなたが酔っているのに、こんなことを……本当に申し訳ありません」
 彼の謝罪の言葉は、誠実で真摯だった。それだけに、詩乃はかえって胸が苦しくなった。彼に非があるのではない。全ては詩乃自身の選択の結果なのだ。
「私も……覚えていますから」
 声がかすれた。詩乃は自分の指先が震えているのに気づいた。それは寒さのためではなく、ここ三日間の全てが、今この瞬間に一気にのし掛かってきたからだ。

 土曜日:悠斗と怜。
 日曜日:誠司。
 月曜日:健。

 四人の男。四つの関係。それぞれが全く異なる意味を持ち、詩乃という人間を異なる方向へ引き裂いていく。

 詩乃は必死に平静を装った。彼女はベッドから起き上がり、床に落ちていた服を拾い集めた。

「着替えさせてください」
 詩乃は一人で急いで服を着た。鏡に映る自分の顔は、目尻に隈ができ、どこかみすぼらしかった。
「帰りますよね。送ります」
 健はそう言った。
「いいえ、大丈夫。一人で帰れますから」
 詩乃はなるべく冷静な声で答えた。彼女は寮を出ると、朝の光の中を歩き始めた。
 六月の朝日は、柔らかく温かいはずなのに、詩乃には冷たく鋭い光に感じられた。それはここ三日間の全てを照らし出し、彼女の選択の愚かさを明るみに出すようだった。
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