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第5話 何も起きない地獄
しおりを挟むあの三日間から、何も起きなかった。少なくとも、表向きには。
六月二十二日(日)――「正しい恋愛」のデート
悠斗とのデートは、いつも通りだった。日曜の昼、駅前で待ち合わせて、映画を観て、カフェに入る。将来の話をすれば、彼は目を輝かせて体育教師の夢を語った。
「詩乃は来年の教育実習の電話した?俺は母校の中学に電話したんだ」
「まだ……。でも、私も母校の小学校へ電話しようと思う」
「うん。詩乃は小学校だよね。すごく向いてると思う」
そう言われるたびに、胸の奥が少しだけ締め付けられる。詩乃はそれでも、笑って頷いた。
「電話したら、電話に出たのが俺が中三のときの担任の先生だったんだ。色々話し込んじゃった。教育実習では保健体育の授業だけでなく、学活や道徳の授業もやらせてもらえるみたい」
悠斗はコーヒーを飲みながら、笑顔で話していた。その混じり気のない笑顔に、詩乃は逆に羨ましさすら覚える。
「道徳……」
詩乃は先週の「道徳教授法」での悠斗の模擬授業を思い出した。いじめが起きているクラスという設定で、悠斗が「いじめはいけない」と語っている。理想的で、表面的な授業。詩乃はそれを冷めた目で見ていたが、教授は悠斗の模擬授業を「いじめの本質がよく分かっている」と褒めていた。詩乃は「本当か?」と耳を疑ったが、周りの学生たちも「堂上くんの授業が一番良かった」と褒めている。
あの異空間のような教室が、悠斗の全てのようだった。教授から褒められ、仲間たちからは信頼され、大学内で長く付き合っている彼女もいる人気者。悠斗は「正しい恋愛」だけでなく、「正しい大学生活」を送っているようで、眩しかった。
詩乃は俯き、アイスティーを口に含んだ。悠斗がそっと手を握る。悠斗の手は、相変わらず優しかった。でも、私の手は汚れている。他の三人の男と関係を持ったことで。悠斗は知らない。この手が、誰に触れられたかを。
「詩乃、どうしたの?手、冷たいよ」
悠斗が心配そうに顔を覗き込む。
「ううん、何でもない」
私は笑顔を作った。また、嘘をついた。
六月二十五日(水)――遠い世界
共通教養「言語学」の講義で、健を見かけた。教室の後方で、中国人留学生たちが、固まって座っている。健も、その中にいた。
中国語が、軽やかに飛び交っていた。
「李和杨,你们有喜欢的人吗?」
(李と楊は、好きな人いる?)
王が、冗談めかして言っている。
「在呢。一直在苏州等着我回国呢」
(いるよ。ずっと蘇州で俺の帰国を待ってる)
楊が胸を張る。
「李呢?」(李は?)
王が、健の肩を叩く。
健は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく笑った。
「……在呢」(……いるよ。)
「是什么人?是这个大学的人吗?还是在中国?」
(どんな人?この大学の人?それとも中国に?)
「……这个大学的人」(この大学の人)
「我特别好奇,等会儿在留学生宿舍告诉我!」
(すごく気になるから、あとで留学生寮で教えてくれ!)
笑い声が弾ける。健も、照れたように笑っていた。
詩乃は、その横顔を見ていた。健は、こちらに気づかない。
「……いいなぁ」
思わず、そう呟いていた。誰にも聞こえない声で。
何を話しているかは分からないが、とても楽しそう。中国語で言い合って、楽しそうに笑っている。
あの夜、私を抱いた時の健。
朝、「ごめんなさい」と謝った時の健。
それと、今目の前で笑っている健。どれが本当の健なんだろう。
いや、全部本当なんだ。健には健の世界があって、私はその一部じゃない。
あの夜は、ただの「事故」だったのかもしれない。
健が留学生と話している。それが、ひどく遠い世界の出来事のように思えた。
六月二十八日(土)――静かな不機嫌
あの夜から、誠司からの連絡はたまにあった。
『今日の夜、空いてる?車なら出すよ』
『それともこの間のホテルで待ち合わせでもいい』
全てが「次の密会」の誘いで、詩乃は断りつづけていた。
この日は、アルバイト先『キッズジャングル』に誠司がエリアマネージャーとして来ていた。店長と話をしながら、誠司は詩乃に気付くと目をそらした。詩乃の前では露骨に機嫌が悪かった。
詩乃が休憩に入ろうとスタッフルームへ向かっていると、誠司が最近入った新人アルバイトの女の子に声をかけようとするのが見えた。
詩乃は、気づいたら一歩前に出ていた。
「エリアマネージャー、どうしましたか。私はその子の指導係なので、何かありましたら私にお願いします」
それだけで、場の空気が変わった。
誠司は一瞬だけ詩乃を見て、何も言わずに視線を逸らした。
スタッフルームで休憩していると、誠司が入ってきた。ほかに休憩中のスタッフはいないので、誠司と二人きりという空間に耐えきれず、詩乃は「お疲れ様です」と言ってスタッフルームから出ようとした。
「……詩乃ちゃん、俺のこと無視してるの?」
誠司はそう言って詩乃に近づいた。詩乃は咄嗟に後ずさりする。
「ごめんなさい。休憩時間終わるので」
詩乃はスタッフルームから出ていこうとドアノブに手をかけた。すると、誠司が詩乃の上着の裾を掴んだ。
「……もう一回しようよ。あの日の詩乃ちゃん、すごく可愛かったよ」
誠司が耳元で囁いた。詩乃は身震いした。詩乃は逃げるようにスタッフルームのドアを開けた。誠司の舌打ちが聞こえた気がした。
それ以来、二人はほとんど口をきかなかった。静かな不機嫌が、店内に薄く漂っていた。
七月一日(火)――身体が先に知る
怜の部屋で、それは起こった。いつもの流れ、いつもの距離。怜は詩乃をそっと押し倒した。
その時、急に胸の奥がぐらりと揺れた。視界が一瞬、白くなる。
「……ちょっと、待って」
詩乃は怜の肩を押して、身を起こした。喉の奥に、込み上げるものがある。
「どうした?」
「気持ち悪い……」
慌てて洗面所へ向かい、口をゆすぐ。吐くほどではない。ただ、確実におかしい。
戻ってくると、怜はベッドに腰掛けたまま、気の抜けた声で言った。
「最近さ、ずっとしてるけど……生理、来てる?」
その一言で、時間が止まった。
「……え」
脳内で、何かがゆっくりと転がる音がした。
生理。そういえば。最後に来たのは、いつだ。
「いや、別に責めてるとかじゃなくてさ。単に、気になっただけ」
怜はいつもの軽い調子で、悪気なく言った。
詩乃は、指先をぎゅっと握った。
「……最近、来てないかも」
声が、少しだけ震えた。
怜は一瞬、黙った。それから、冗談めかして笑う。
「まあ、遅れることもあるだろ。ストレスとか?」
「……うん」
そう答えながら、詩乃の心臓は、やけに大きな音を立てていた。
七月二日(水)――再会と不安
今週も、共通教養「言語学」の講義で健を見かけた。今日は健が詩乃に気づいたようで、詩乃の近くへやって来た。
「詩乃さん。……隣、いいですか」
「あぁ、えっと……」
今日は親友の美咲と一緒に講義を受ける予定だった。美咲はまだ来ておらず、美咲のために空けた席に健が座ろうとした。
「その席、友達が来るから……」
「あ、ごめんなさい」
健はそう言って立ち上がる。その時、詩乃のスマホにメッセージが来た。
『今日の講義、生理痛が酷いから休むね。ごめん!』
美咲からのメッセージだった。生理……。詩乃は、昨日から生理が来ないことに違和感を感じていた。そして、隣にいる健をじっと見つめる。
まさか……。
「詩乃さん?どうしましたか?」
健が不思議そうに首を傾げていた。
「……友達、来られなくなったって。隣どうぞ。一緒に受けよう」
詩乃がそう言うと、健は少し顔を赤らめて、隣に座った。
講義中、詩乃も健もあまり言葉を交わさずに講義に集中していた。いや、集中していたのは健だけだろう。詩乃の頭の中には生理が来ないことへの不安が渦巻いている。そして、異様な眠気が詩乃を襲っていた。昨日の夜、夜更かしをしたわけではない。それでも眠い。
「詩乃さん、眠いですか」
講義が終わった頃、机の上のものを片付けながら健が話しかけてきた。
「うん。ちょっと……」
「コーヒー飲みますか?」
健はそう言って、カバンの中から缶コーヒーを取り出した。いつも持ち歩いているのだろうか。
「……ありがとう」
詩乃はコーヒーを受け取るが、口にはしなかった。カバンにしまい、立ち上がる。
「健くん、またね」
詩乃はなんとか笑顔を作って、講義室をあとにした。
日常は、きちんと回っていた。デートも、バイトも、講義も、夜も。
ただ、詩乃の中でだけ、時間が静かに淀んでいた。
あの三日間が、沈殿物のように底に溜まり、動かない。そして、身体だけが知っている何か。
まだ、この時点では、彼女は知らなかった。この「何も起きない一ヶ月」が、すでに後戻りできない助走だったことを。
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