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第一章 ロウと蓮の出会い
しおりを挟む都会の喧騒は、この路地の奥までは届かない。
きらびやかなネオンの光も、最新の流行を追う人々の波も、ここだけは避けて通るようだった。カフェ「リベラ」。その看板はひっそりとしていて、ガラス窓は常に曇り、まるで現実に開いた心の休憩所ではないかのように、人知れず存在している。
現代に生きる人々は、スマートフォンを片手に、すぐに答えの見つかる世界で疲弊している。だが、恋の悩みだけは、検索窓を叩いても出てこない。失恋の熱、片思いの切なさ、すり減っていく関係への焦燥。そうした曖昧で、しかし確かな痛みを抱えた人々が、最終的に辿り着く場所がここだった。
そして、カウンターの奥には、店主であり、唯一の恋愛カウンセラーであるマスター・ルシアがいる。
今夜、ルシアは「ロウ」の姿をとっていた。
身長180センチ前後。涼しげな切れ長の目は、客の言葉の裏にある本音を静かに見抜く。その声は低く、穏やかで、女性客にとっては包容力と絶対的な安心感を象徴していた。カウンターに置かれた分厚い本の上で、時折、ロウの指が動く。その手の動きは驚くほど美しく、それだけで相手の緊張を解く魔力を持っているようだった。
「彼はね、あなたに『依存』しているのではなく、『安心』を求めているんです。その違いを理解してあげれば、あなたの心も少し軽くなる」
客は三十代半ばの女性で、付き合って五年目にして初めて彼氏の愛に疑問を持ち始めたという。ロウは、女性の言葉の端々から、彼女が本当に必要としているものは、彼氏の愛の再確認ではなく、自己の存在意義の肯定だと即座に見抜いていた。ロウにとって、それはもはや定式化されたパターンの一つだった。
ロウは「恋愛マスター」として完璧だった。豊富な知識と、人並外れた観察力、そして何よりも、求められれば誰に対しても手を差し伸べる“許容力”を持っていた。しかし、その瞳の奥には、常にどこか冷めた光が宿っている。それは、対象を分析する研究者の視線に近かった。
「ロウさん……。今夜、どうですか」
客の女性は、目の前のコーヒーカップに目線を注ぎながら、小さな声でロウに問いかけた。そして、都内の有名シティホテルの部屋番号だけが記されたカードキーを、そっとカウンターの隅に滑らせた。
「いいですけど、彼氏は?」
ロウは平静な声で尋ねた。
「彼氏のことは一旦忘れます。噂に聞いたんです……ロウさんは、応じてくれるって」
彼女の目は伏せられたままだったが、その唇の端には、諦めと期待が混じり合った、微かな緊張が浮かんでいた。ロウはそのカードキーを受け取り、仕立ての良いスーツの胸ポケットにしまった。
そこにあるのは、期待でも高揚でもなく、ただ「また一つ、いつも通りの仕事が増えた」というだけの感覚だった。
「わかりました。……20時でいいですか」
「抱いてほしい」「側にいてほしい」と求められれば、彼は断らない。だが、それは愛ではない。相手の満たされない想い、愛を求め合う社会的な行動を“理解し、癒やす”行為として受け止めているに過ぎない。性欲は薄く、感情の介在しない肉体的な触れ合いは、ロウにとってただのデータ収集であり、常に客観的な分析の対象だった。
ロウ自身、この孤独を知っていた。人々の愛を分析し、語り、解決に導くことができる。だが、それはあくまで外部からの観察であり、彼自身の心臓が熱を帯びることは決してない。
彼は、自分が「愛を語れても、愛せない」という空虚を抱えていることを、誰よりも深く自覚していた。
ロウはカップを拭く手を止め、窓の外、雨粒が滲む都会の光を見つめた。
雨足が強くなってきた頃、「リベラ」の古い木製の扉が開き、ビニール傘を片手に男性が一人、店内に足を踏み入れた。
「こんばんは。事前に連絡しておりました瀧本です」
瀧本、と名乗ったその男性は、店員に案内され、ロウとテーブルを挟んで向かいの席に座った。彼は黒髪短髪で、清涼感のある好青年だったが、どこか落ち着かない様子だった。リクルートスーツのような真っ黒なスーツを着ているせいか、その初々しさが際立つ。肩やスーツ、靴は雨に濡れており、緊張と焦りが透けて見えた。彼はきっと 25歳前後だろう。
「はじめまして。瀧本です。このカフェの特集記事を書きたくて」
瀧本はそう言って名刺を差し出した。
『月刊カフェスタイル 編集部 瀧本蓮』
ロウは名刺を受け取り、そっと目を走らせた。『月刊カフェスタイル』――聞いたこともない雑誌だ。
「私、このカフェ『リベラ』を特集したいと思ってます。ここは恋愛カウンセラーのロウさんがいると聞きまして。ロウさんの恋愛アドバイスは的確で素晴らしいとSNSで話題です」
瀧本はカバンから最新号を取り出した。関東近郊のカフェが載っているが、その写真やレイアウトからは、雑誌社の新人編集が背負っている「売れなさそうな雑誌を何とかしなければ」という切羽詰まった匂いがした。
「これ、読む人いるの?」
ロウは思わず口にしてしまい、言い過ぎたかもしれないと、瀧本を見た。案の定、瀧本はなんとか作り笑いを浮かべているように見えた。その笑みは、社会人としての経験の浅さを物語っている。
「まぁ、売り上げはあんまり……ですけど。でもこのカフェ『リベラ』の特集は売れると思います! ここ、SNSで話題なのに一回もメディア出演をしていないとかで」
ロウは静かに首を振った。
「まぁ、そんなつもりないからね。恋愛カウンセラーも、カフェの仕事の片手間にやってるだけだし」
「でもそれが的確で素晴らしいんですよね!」
瀧本は、自分がロウからのアドバイスを受けたかのように熱弁する。彼が持つ情報は、SNSの表面的な評判だけ。ロウはすぐに彼の本質を見抜いた――この青年は、自分の仕事に自信がない。そして、その熱意の裏には、雑誌を売って自分を証明したいという焦燥がある。
「そしたら、一回、あなたの恋愛相談にも乗りますか? なにかあります?」
ロウがそう淡々と尋ねると、瀧本はロウから目を逸らした。さっきまで仕事の話で輝いていた目が、一瞬にして光を失う。
「……いえ、僕は恋愛相談などありません。恋愛したこと、ないんです」
「ではそれが恋愛相談になりますね。どうして恋愛したことないんです?」
ロウは追い打ちをかけるように尋ねた。分析のため、情報が必要だった。瀧本は目のやり場に困ったのか、ずっと目の前のコーヒーカップを見つめている。彼の肩はますます縮こまっているように見えた。
「……僕、モテないから。女性に相手にされたこと、ないし」
「そうですか? あなたは誠実で真面目そうで、見た目もなかなかいい。あなたがアプローチすれば女性はすぐにあなたの虜ですよ」
ロウは、彼の自己肯定感の低さこそが、恋愛経験のなさの根源だと見抜き、褒めてその気にさせようとした。しかし瀧本は頭を振る。
「そんな……。ロウさんみたいにイケメンだったら自信もってアプローチできるかもしれないけど……」
ロウは静かに分析を切り上げた。このタイプの人間は、表面的な称賛では動かない。彼を変えるには、彼の内面にある「自分は愛される資格がない」という固定観念を崩す必要がある。しかし、それは取材の範囲外だ。
「わかりました。取材、受けますよ」
ロウはそう言って、いつもの営業スマイルを浮かべた。その笑顔は、誰もが安心する完璧なマスターの顔だった。
この青年、瀧本蓮との出会いが、ロウ――つまりルシアの人生を、そして彼女が定義する世界そのものを大きく変えるとは、まだ知る由もなかった。
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