Lucia(ルシア)変容者たち

おまつり

文字の大きさ
1 / 10

第一章 ロウと蓮の出会い

しおりを挟む

 都会の喧騒は、この路地の奥までは届かない。
 ​きらびやかなネオンの光も、最新の流行を追う人々の波も、ここだけは避けて通るようだった。カフェ「リベラ」。その看板はひっそりとしていて、ガラス窓は常に曇り、まるで現実に開いた心の休憩所ではないかのように、人知れず存在している。
 ​現代に生きる人々は、スマートフォンを片手に、すぐに答えの見つかる世界で疲弊している。だが、恋の悩みだけは、検索窓を叩いても出てこない。失恋の熱、片思いの切なさ、すり減っていく関係への焦燥。そうした曖昧で、しかし確かな痛みを抱えた人々が、最終的に辿り着く場所がここだった。

 ​そして、カウンターの奥には、店主であり、唯一の恋愛カウンセラーであるマスター・ルシアがいる。
​ 今夜、ルシアは「ロウ」の姿をとっていた。
 ​身長180センチ前後。涼しげな切れ長の目は、客の言葉の裏にある本音を静かに見抜く。その声は低く、穏やかで、女性客にとっては包容力と絶対的な安心感を象徴していた。カウンターに置かれた分厚い本の上で、時折、ロウの指が動く。その手の動きは驚くほど美しく、それだけで相手の緊張を解く魔力を持っているようだった。

​「彼はね、あなたに『依存』しているのではなく、『安心』を求めているんです。その違いを理解してあげれば、あなたの心も少し軽くなる」
 ​客は三十代半ばの女性で、付き合って五年目にして初めて彼氏の愛に疑問を持ち始めたという。ロウは、女性の言葉の端々から、彼女が本当に必要としているものは、彼氏の愛の再確認ではなく、自己の存在意義の肯定だと即座に見抜いていた。ロウにとって、それはもはや定式化されたパターンの一つだった。

 ​ロウは「恋愛マスター」として完璧だった。豊富な知識と、人並外れた観察力、そして何よりも、求められれば誰に対しても手を差し伸べる“許容力”を持っていた。しかし、その瞳の奥には、常にどこか冷めた光が宿っている。それは、対象を分析する研究者の視線に近かった。

「ロウさん……。今夜、どうですか」
​ 客の女性は、目の前のコーヒーカップに目線を注ぎながら、小さな声でロウに問いかけた。そして、都内の有名シティホテルの部屋番号だけが記されたカードキーを、そっとカウンターの隅に滑らせた。
​「いいですけど、彼氏は?」
 ロウは平静な声で尋ねた。
​「彼氏のことは一旦忘れます。噂に聞いたんです……ロウさんは、応じてくれるって」
 ​彼女の目は伏せられたままだったが、その唇の端には、諦めと期待が混じり合った、微かな緊張が浮かんでいた。ロウはそのカードキーを受け取り、仕立ての良いスーツの胸ポケットにしまった。
 そこにあるのは、期待でも高揚でもなく、ただ「また一つ、いつも通りの仕事が増えた」というだけの感覚だった。
​「わかりました。……20時でいいですか」
 
​「抱いてほしい」「側にいてほしい」と求められれば、彼は断らない。だが、それは愛ではない。相手の満たされない想い、愛を求め合う社会的な行動を“理解し、癒やす”行為として受け止めているに過ぎない。性欲は薄く、感情の介在しない肉体的な触れ合いは、ロウにとってただのデータ収集であり、常に客観的な分析の対象だった。
​ ロウ自身、この孤独を知っていた。人々の愛を分析し、語り、解決に導くことができる。だが、それはあくまで外部からの観察であり、彼自身の心臓が熱を帯びることは決してない。
 ​彼は、自分が「愛を語れても、愛せない」という空虚を抱えていることを、誰よりも深く自覚していた。
​ロウはカップを拭く手を止め、窓の外、雨粒が滲む都会の光を見つめた。
 
 ​雨足が強くなってきた頃、「リベラ」の古い木製の扉が開き、ビニール傘を片手に男性が一人、店内に足を踏み入れた。
​「こんばんは。事前に連絡しておりました瀧本です」
​瀧本、と名乗ったその男性は、店員に案内され、ロウとテーブルを挟んで向かいの席に座った。彼は黒髪短髪で、清涼感のある好青年だったが、どこか落ち着かない様子だった。リクルートスーツのような真っ黒なスーツを着ているせいか、その初々しさが際立つ。肩やスーツ、靴は雨に濡れており、緊張と焦りが透けて見えた。彼はきっと 25歳前後だろう。

「はじめまして。瀧本です。このカフェの特集記事を書きたくて」
 ​瀧本はそう言って名刺を差し出した。
​『月刊カフェスタイル 編集部 瀧本蓮』
​ ロウは名刺を受け取り、そっと目を走らせた。『月刊カフェスタイル』――聞いたこともない雑誌だ。
​「私、このカフェ『リベラ』を特集したいと思ってます。ここは恋愛カウンセラーのロウさんがいると聞きまして。ロウさんの恋愛アドバイスは的確で素晴らしいとSNSで話題です」
​ 瀧本はカバンから最新号を取り出した。関東近郊のカフェが載っているが、その写真やレイアウトからは、雑誌社の新人編集が背負っている「売れなさそうな雑誌を何とかしなければ」という切羽詰まった匂いがした。
​「これ、読む人いるの?」
 ​ロウは思わず口にしてしまい、言い過ぎたかもしれないと、瀧本を見た。案の定、瀧本はなんとか作り笑いを浮かべているように見えた。その笑みは、社会人としての経験の浅さを物語っている。
​「まぁ、売り上げはあんまり……ですけど。でもこのカフェ『リベラ』の特集は売れると思います! ここ、SNSで話題なのに一回もメディア出演をしていないとかで」
 ​ロウは静かに首を振った。
「まぁ、そんなつもりないからね。恋愛カウンセラーも、カフェの仕事の片手間にやってるだけだし」
​「でもそれが的確で素晴らしいんですよね!」
 ​瀧本は、自分がロウからのアドバイスを受けたかのように熱弁する。彼が持つ情報は、SNSの表面的な評判だけ。ロウはすぐに彼の本質を見抜いた――この青年は、自分の仕事に自信がない。そして、その熱意の裏には、雑誌を売って自分を証明したいという焦燥がある。

​「そしたら、一回、あなたの恋愛相談にも乗りますか? なにかあります?」
​ ロウがそう淡々と尋ねると、瀧本はロウから目を逸らした。さっきまで仕事の話で輝いていた目が、一瞬にして光を失う。
​「……いえ、僕は恋愛相談などありません。恋愛したこと、ないんです」
​「ではそれが恋愛相談になりますね。どうして恋愛したことないんです?」
​ ロウは追い打ちをかけるように尋ねた。分析のため、情報が必要だった。瀧本は目のやり場に困ったのか、ずっと目の前のコーヒーカップを見つめている。彼の肩はますます縮こまっているように見えた。
​「……僕、モテないから。女性に相手にされたこと、ないし」
​「そうですか? あなたは誠実で真面目そうで、見た目もなかなかいい。あなたがアプローチすれば女性はすぐにあなたの虜ですよ」
 ​ロウは、彼の自己肯定感の低さこそが、恋愛経験のなさの根源だと見抜き、褒めてその気にさせようとした。しかし瀧本は頭を振る。
​「そんな……。ロウさんみたいにイケメンだったら自信もってアプローチできるかもしれないけど……」
 ​ロウは静かに分析を切り上げた。このタイプの人間は、表面的な称賛では動かない。彼を変えるには、彼の内面にある「自分は愛される資格がない」という固定観念を崩す必要がある。しかし、それは取材の範囲外だ。
​「わかりました。取材、受けますよ」
 ​ロウはそう言って、いつもの営業スマイルを浮かべた。その笑顔は、誰もが安心する完璧なマスターの顔だった。

 ​この青年、瀧本蓮との出会いが、ロウ――つまりルシアの人生を、そして彼女が定義する世界そのものを大きく変えるとは、まだ知る由もなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

冷たい王妃の生活

柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。 三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。 王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。 孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。 「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。 自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。 やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。 嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

私のことを愛していなかった貴方へ

矢野りと
恋愛
婚約者の心には愛する女性がいた。 でも貴族の婚姻とは家と家を繋ぐのが目的だからそれも仕方がないことだと承知して婚姻を結んだ。私だって彼を愛して婚姻を結んだ訳ではないのだから。 でも穏やかな結婚生活が私と彼の間に愛を芽生えさせ、いつしか永遠の愛を誓うようになる。 だがそんな幸せな生活は突然終わりを告げてしまう。 夫のかつての想い人が現れてから私は彼の本心を知ってしまい…。 *設定はゆるいです。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

処理中です...