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第二章 リアへの変化
しおりを挟む雨が上がり、黒い地面が濡れた光を反射する夜21時。ロウは、都内のシティホテルから出てきた。ジャケットのポケットに入れたカードキーの冷たい感触が、今しがた終えた出来事の空虚さを象徴しているようだった。
つい先ほどまで、彼は客である女性の「抱いてほしい」という要求に応えていた。それは、ロウにとっては分析と許容の儀式であり、感情のない行為だった。しかし、最後の瞬間、女性は嗚咽を漏らした。彼氏でもない、ただの男に抱かれることの虚しさを、彼女はそこで実感してしまったのだろう。そちらから誘っておきながら、最後に泣かれると、ロウの良心がわずかに痛む。それは愛ではなく、観察者としての責任が刺激される痛みだった。
これで彼女の「満たされない」というデータが更新された。しかし、彼女の根本の虚無は埋まらない。
ロウは心の中で結論づけ、冷たい雨上がりの夜道を歩いた。
帰り道、ロウは駅前の本屋に立ち寄った。新刊コーナーを眺め、装丁のシンプルさに目を惹かれた一冊の恋愛小説を手に取った。今夜はこれでも読んで寝るか、という無機質な思考。ロウにとって、恋愛小説を読むことは、恋愛カウンセラーとしての「学習」だった。恋愛経験がない彼は、小説や漫画から、人間の感情の揺れ動き、関係の複雑さ、そして愛の「形式」を学んでいた。
しかし、それとは別に、小説を読むのには決定的な理由があった。
家へ帰り、シャワーを浴びて寝る準備を済ませ、ロウはベッドの上でさっき買ってきた恋愛小説を広げた。物語は、純粋な片思いの痛みと、初恋のときめきを丁寧に描いていた。
物語の中の主人公が、勇気を出して意中の相手に触れるシーン。ロウはその純度の高い感情の描写を、冷静に、しかし深く味わっていた。
その瞬間――
ロウの身体を、静かで、しかし抗いようのない変化の波が襲った。
180 センチあった男の身体が、意識の残像を残しつつ、まるで水のように形を変えていく。視界は一気に下がり、体は羽のように軽くなった。黒髪のロングが、肩にふわりと落ちる。
「リア」。
それは、ルシアの女の姿だった。
リアは長い髪をゆっくりと手でとかしながら、この現象が起きるたびに感じる恐ろしいほどの静寂を噛みしめる。誰もが「ロウ」ではなく「リア」が今まで生きてきたと認識する。周囲の人々の記憶も、世界の設定も、すべてがこの新しい「私」に合わせて書き換えられるのだ。恋愛小説のような、純度の高い恋の感情に触れることが、この世界の定義を反転させるスイッチになる。
今、世界の設定から「ロウ」が消え、「リア」が現れた。この世界で、その変化を唯一継続した現実として覚えているのは、ルシア本人のような性別変容者だけ。この一貫した意識が、彼女の存在を、この世界の法則の外に置いている。
リアは窓の外の暗闇を見つめ、思った。
自分はいつまで、この「偽りの連続」の中にいるのだろうか。
***********
ルシアは、女として生まれ育った。しかし16歳の誕生日、初めてその変化は起きた。朝目覚めると、鏡の中には見知らぬ男が立っていた。両親も弟も、自分が男として生きてきたかのように振る舞う。 16年間生きてきた女の自分が消えていることに、ルシアは言葉を失うほどのショックを受けた。
学校へ行くと、友人関係も、教師の呼び名も、すべてが変わっていた。女友達との親密な関係はなくなり、話したこともなかった男子が親友として側にいた。ルシアは、家族や友人の反応から、自分が「女であった世界」はなくなり、「男であった世界」に変わってしまったのだと悟った。
その恐怖と違和感に苛まれながらしばらく男の姿のままだったが、ある日なんとなく読んだ少女漫画で、変化が起きた。恋愛描写を見て、ふと自分の心に“ときめき”が生まれた瞬間、ルシアは男の姿から女の姿に変わったのだ。
そこで初めて、ルシアは気づいた。
「わたしの世界は、恋に反応して性別を変える」
恋愛への興味、感情の動き、他人の恋を見る――そうした感情の刺激がスイッチになる。性別が変わるたびに、世界も記憶も周囲の認識も“書き換えられる”が、ルシアの意識だけが一貫して続いていた。この「ひとりだけ覚えている苦しさ」こそが、彼女を深い孤独に繋げた。
その後、ルシアは性別が不安定なことを隠すように、心理学と人間関係を学んだ。表面的には恋愛の達人としてふるまうが、本当は観察者でしかない。
誰かに恋をしたら、自分がどう変わるのか――その根源的な恐怖ゆえに、彼女は恋を避けてきたのだ。
************
翌日。「リア」の姿になったルシアは、化粧っ気のない顔にパーカーとジーンズというシンプルな装いで、カフェ『リベラ』へ出勤した。スタッフたちは、昨日まで「ロウ」であったことなど微塵も感じさせず、当たり前のように「リア」の姿のルシアを受け入れている。
「最近、彼氏がそっけないんです。連絡もくれなくて」
恋愛相談にやってきた女性が、リアに対してそう話した。二十代前半ほどの若い女子大生だった。リアは女性客に対しては、友達のように、あるいは姉のように接する。
「彼氏がそっけない? じゃあ連絡してみたら?」
「連絡して重い女だって思われたら嫌じゃないですか」
「そう? じゃあスマホ貸して。私がメッセージ送ろうか。どうせ彼は返事を待ってるだけでしょ」
リアの恋愛相談は、ロウの時にしていたような包容力のある受け答えとは真逆だ。知識と現実主義に基づいた的確で辛辣な指摘を、バサバサと投げつける。彼女は、相手に安心感を与えるのではなく、現実を突きつけることを是としていた。
昼下がり、スーツ姿の中年男性が、こそっとリアに話しかけてきた。
「リアちゃん、妻に浮気がバレそうなんだよ」
「……自業自得ですよね。浮気なんてしなきゃいいのに」
リアはため息をついた。平日の昼間からこんな場所にいる暇人なのだろうか。
「そんなこと言わないで相談に乗ってよ」
リアは仕方なくオッサンの話を話半分で聞いた。浮気する人間などろくでもないとわかっているからこそ、リアはあえて冷たい態度をとる。客に感情移入することは、彼女にとって危険なスイッチとなり得るからだ。
「リアちゃん……もしよかったらさ……僕とどう?」
おじさんが耳元で囁く。
リアはすぐに席を立ち、冷徹な視線を向けた。
「そういうの、求めてないんで」と断った。
リアがロウと決定的に違うのは、このような誘いには一切応じないことだった。ロウの時、「抱いてほしい」という要求は相手を分析するためのデータであり、許容できる契約だった。しかし、リアの姿で近づいてくる男性は、彼女自身が持つ「守られることへの怖さ」を刺激する。彼女は、リアの姿では誰にも触れさせなかった。
その時、『リベラ』の扉が開いた。
そこにいたのは、昨日取材でここを訪れた瀧本蓮だった。彼は雨の日と同じように、少し緊張した面持ちで店に入ってきた。
瀧本蓮は、カウンターでコーヒーを淹れているリアの姿を認め、眉間に微かな皺を寄せた。そして、違和感を隠そうともせず、まっすぐにリアに尋ねた。
「あれ?今日はロウさんお休みなんですか?」
その一言。
リアの背筋に、冷たい氷の柱が突き立てられたような感覚が走った。
ロウさん?なぜこの世界に、ロウという存在が残っているの?
瀧本蓮。彼だけが、世界の書き換えの影響を受けず、昨日「ロウ」に会ったことを明確な記憶として持っている。彼女の周りのすべてが変わったというのに、この青年だけが、前の世界の記憶を持っていたのだ。
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