島を出る日

おまつり

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第一章 便利さから不便へ

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 ​東京――あの洗練された街並みや、指先一つで何でも手に入る利便性が、三枝美月さえぐさ みつきの記憶の中で、急速に白黒の古びた写真へと変わっていった。
 ​船が微笑島ほほえみじまの小さな港に接岸したのは、島全体が寂しい茜色に染まる夕暮れ時だった。潮風は都会の空気とは比べ物にならないほど生臭く、粘っこい湿気を肌に残していく。
「嘘でしょう……」
 ​美月は甲板で、思わず心の声が漏れるのを抑えられなかった。へき地手当という甘い報酬に目がくらみ、キャリアの「穴埋め」として選んだこの離島は、想像を遥かに超えるド田舎だった。岸壁から見える集落は、わずか数十軒の家屋が肩を寄せ合うように並んでいるだけで、生活の気配というよりは、時が止まったような静寂に支配されている。

 まるで、時代に取り残された箱庭だわ。本当に私は、これからここで暮らすの?

 ​スマートにまとめたはずの荷物が鉛のように重く感じられる。便利さへの渇望と、この島で二年間に縛られることへの絶望感が、胃の奥で冷たい塊となって広がった。
 ​

 公民館では美月の歓迎祭が開かれ、​熱気に満ちていた。テーブルには、美月が都会では目にしないような荒々しい盛り付けの海鮮丼や、強烈な匂いを放つ島酒が並んでいる。美月は、乾いた笑顔を張り付けながら、差し出される酒を遠慮がちに口にした。

 ​そして、古老たちの挨拶が始まった。
「都会の人はわがままじゃけぇ。島の掟は、何よりも守りなよ」
「女教師は、ここに嫁に来たようなもんじゃ。若い娘はそれなりに役目がある」
 ​旧態依然とした価値観が、酒の勢いと相まって、美月の心を容赦なく殴りつける。二年前に彼氏の浮気で破綻した恋愛の傷跡が、まるで「女としての価値」を問われているようで、ズキズキと痛みだした。

 ​美月はグラスの向こうで笑う島民たちから、息苦しさを感じて逃れるように、会場の隅へと避難した。
 ​その時だった。
「これ、どうぞ」
 ​低い、けれど妙に落ち着いた声がした。振り返ると、歓迎の喧騒から少し距離を取るように立っている、一人の青年がいた。水田樹みずた たつる。どこか垢抜けないTシャツ姿だが、均整の取れた顔立ちと、農作業で鍛えられたであろう逞しい体躯が目を引く。彼は、冷えた缶ジュースを美月に差し出した。
「ありがとうございます……」
 ​美月の声は、自分で思うよりずっと安堵を含んでいた。この高齢者ばかりの空間で、ようやく見つけた「同世代」という小さな灯りだった。
 ​樹は少し照れたように視線を外し、低い声で続けた。
「ジジババの言うこと、真に受けなくていいですよ。みんな口は悪いけど、根は悪くないんで。島は、すぐ慣れます」
 ​その「大丈夫」というような優しいトーンに、美月の張り詰めていた心が、わずかに緩むのを感じた。
 ​
 しかし、そのささやかな交流は、すぐに古老たちの餌食となった。
「おお、樹! やっと来たか、都会の嫁候補じゃ!」
「美月先生、樹はな、この島の将来を背負う、長男の後継ぎじゃ。ええ男じゃろう?」
 ​古老たちの下卑た笑い声と、ニヤニヤとした視線が、美月と樹に突き刺さる。美月は急に顔が熱くなるのを感じた。都会の論理ではありえない、デリカシーのない言葉の暴力だった。
 ​
 樹の顔が、急激に紅潮した。
「違いますよ、そんな! やめてください、ジジイ! 先生は先生で、俺はただ……」
 ​彼は、まるで自分自身を否定するかのような強い口調で、美月との関係を強く、そして即座に否定した。
 ​その瞬間に、会場の空気が凍ったように感じられた。美月は、胸の奥がチクリと痛んだ。彼にとって、自分は「ただの教師」という線を引かなければならない、面倒な存在なのだろう。そして、その「否定」は、美月がこの島で「女性」としてではなく、「よそ者」としてしか見られていないことを、決定的に突きつけた気がした。
 ​
 ​職員寮に戻ると、美月の頭の中は歓迎会の残像と、樹の強い否定の言葉に支配されていた。築五十年は下らないだろう建物は、カビ臭く、都会の生活とはかけ離れた陰鬱な空気を纏っている。
 ​窓を開けても、見えるのは真っ暗な海だけ。漆黒の闇が、美月の心を容赦なく押し潰す。
 ​スマートフォンを取り出す。アンテナは、貧弱な一本。

(まさか……)
 ​SNSのタイムラインは読み込み不能。YouTubeの動画は、延々とローディングマークを回し続ける。パソコンを開き、友人にメールを送ろうとするが、これも失敗に終わった。
 ​デジタルデトックスなどという生易しいものではない。これは、外界との強制的な切断だ。
 ​美月は身震いした。都会で生きてきた自分にとって、インターネットは、人間関係の維持であり、情報源であり、そして何より精神の安定剤だった。それが奪われた瞬間、美月は自分が、文字通り「孤島」に投げ込まれたことを実感した。

 ​ベッドに横たわり、天井を見つめる。若者が島を出ていく理由が、この身に染みて理解できた。
 ​歓迎会で、高齢者ばかりの中で、樹だけが同世代のように感じられた。彼はなぜ、こんなド田舎に留まっているのだろう。低い声でジュースを差し出してくれた彼の優しさと、その直後に発した、自分自身を守るための突き放すような否定の言葉。

「この島でネットなしでどう生きてるんだろう」

 ​美月は、樹の生活様式を理解したいという疑問と、彼が自分を否定したことへの微かな胸の痛みを抱え、眠れない夜を過ごした。窓の外の波音だけが、永遠に続くように響いていた。
 ​
 ​
 翌朝。木造校舎の軋む床を歩きながら、美月は自分に言い聞かせる。
「私は教師だ。金とキャリアのために来た。それ以外の感情は捨てるべきだ」
 ​緑川校長と、養護教諭の蒼井先生、同僚教師の久保先生は、美月を温かく迎えてくれたが、美月の心は晴れなかった。
 ​1年生から3年生までの美月のクラスは、たったの4名。その無邪気な瞳が、美月の心を映し出す。
 ​授業が始まる前の休み時間。子どもたちが、目をキラキラさせて美月のもとに集まってきた。
「先生、昨日樹兄ちゃんと話してたね!」
「樹兄ちゃん、先生と話してる時、顔が真っ赤だったよ!」
「付き合っちゃえ! 先生と樹兄ちゃんが結婚したら、島一の美男美女カップルだよ!」
 ​無邪気な囃し立ては、美月が昨日感じた胸の痛みを、まるで確認するかのように再び刺激した。
「もう、みんな。先生はみんなの先生だよ」
 ​美月は笑って誤魔化したが、内心は穏やかではなかった。この島の「狭さ」を、改めて突きつけられた気がした。昨日のたった数分の交流が、もう島全体に広がり、一つの物語として消費され始めている。この島では、自分の意志や感情よりも、島民が望む「役割」が優先されるのだと。
 ​美月は、水田樹の、あの強い否定の言葉の意味を、今、痛いほど理解した。

 ​
 ​その週の日曜日。
 ​水田樹は、朝から気が重かった。食卓では、両親と祖父母からの詰問が始まった。
「三枝先生と話してただろ? やっと都会の嫁候補が来たかもしれん!」
「アプローチせんかい! お前は後継ぎだ。俺たちが生きているうちに、子どもの顔が見たいんだ」
 ​樹の心臓は、まるで古びた機械のように重く軋んだ。「俺はただ、ジュースを渡しただけだろ!」とムキになって否定したが、聞く耳を持たない両親の期待と重圧が、樹の低い自己肯定感をさらに削り取っていく。

(この島に好きで来る女がいるわけがない。先生は、都会の人間だ……)

 ​逃げるようにトラクターに飛び乗り、畑へ向かう。広大な農場は、樹の運命そのものだった。ここから逃げ出したい。都会で、名前も知らない場所で、ただ一人で生きたい。しかし、それは許されない。自分が島を出れば、この農場は潰れ、両親は途方に暮れる。樹は、その運命の鎖を受け入れるしかなかった。
 ​
 昼前、島の古老の一人であるおばちゃんが、軽トラックで樹の元へやってきた。
​「樹、すまないけど、家の換気扇の修理を頼める?」
 ​樹は渋々、軽トラの助手席に乗り込んだ。しかし、軽トラが到着したのは、樹が嫌な予感をしていた場所だった。

 ​職員寮。
「修理? おばちゃん、換気扇は?」
 ​おばちゃんはニヤリと笑った。
「あら? 換気扇の調子が悪いの、三枝先生のお宅だったわね」
 ​樹の顔は青ざめた。完全に騙された。
「樹。先生は本を読んでるって言ってたよ。今日は二人で、海辺にでも行ってきなよ。たまには、後継ぎの役目を休んでさ」
 ​逃げられない。この島の狭さは、樹の意思など簡単に捻じ曲げてしまう。
 ​
 職員寮から出てきた美月は、樹の姿を見て、一瞬で顔が強張った。彼女は手に一冊の本を持っていた。
「樹さん……?」
「すみません、先生。完全に、島民のおせっかいです」
 ​樹は、美月の顔を見て、心の中で深く謝罪した。彼女の困惑と、ほんの少しの警戒心が、樹の心を締め付けた。
 ​気まずい沈黙の中、二人は海辺へと向かうしかなかった。波打ち際の音だけが、二人の間の重い空気をかき消していく。
「……あの、すみません。島民がおせっかいで。都会の先生に、こんな田舎の面倒な事情を押し付けて」
 ​樹は、心からそう言った。

​「あの……島民が嫁候補とかいっててすみません。彼氏、いるかもしれないのに」
 樹は、波をじっと見つめながら、低い声で尋ねた。
「……いません。いたら、こんなド田舎来ませんよね」
 ​美月は、自嘲気味にそう返した。都会での人間関係に疲弊し、金に走った自分の情けなさが、波音に吸い込まれていくようだった。
 ​そして、美月は、昨日から抱えていた、最も根源的な疑問を口にした。
「樹さんは、ネットなしで、どう過ごしているんですか?」
 ​樹は、少しだけ意外そうな顔をした後、穏やかな、この島でしか生きられない人間の声で答えた。
「俺は、本を読んでますよ。あとは、木材を削ったり、加工したり。……島じゃ、それで十分なんです」
 ​都会の刹那的な流行や、情報という波に揉まれて生きてきた美月には、その答えは衝撃的だった。「十分」。この島には、彼にとって「十分」なものがある。
 ​星空の話。農業の話。そして、都会では濁って見えない、この海の色の話。
 ​他愛のない会話は、西の空が燃えるような夕陽に変わるまで続いた。樹は、美月が都会の便利さという鎧を脱ぎ、この島の不便さを受け入れようとしているのを感じた。
 ​美月は、樹の諦念の中にある、静かで穏やかな「強さ」に、少しだけ触れた気がした。
 ​そして、二人の間に、島民の期待とは全く別の、孤立した者同士の、微かな共感が芽生え始めていた。
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