島を出る日

おまつり

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第二章 島の掟

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 ​一カ月が過ぎた。

 ​美月は、島での生活に驚くほど順応し始めていた。朝は木造校舎の匂いで目覚め、夜はテレビの砂嵐を見つめる。スマホの電波が弱いことに、苛立ちよりも諦めが先に立つようになっていた。この島は、彼女の都会的な鎧をゆっくりと剥がし取っていく。

 ​そんな折、微笑島に大型の台風が接近した。
 ​美月の職員寮は、築五十年という歴史を証明するかのように、凄まじい風圧で窓枠がガタガタと悲鳴を上げる。恐怖に駆られた美月は、慌てて指定された避難場所、公民館へと向かった。

 ​公民館には、すでに高齢の島民たちが集まっていた。美月は、到着するや否や休む間もなく雑務に追われた。お茶を淹れる、配給された食事を運ぶ、毛布を畳む。彼女は自分でも気づかないうちに、テキパキと動いていた。
 ​古老たちは、美月が動くのを当然のように見つめ、そして指図を飛ばす。
​「あんた、都会っ子のくせによく働くもんじゃ」
「美月先生、その毛布、あそこの部屋に持って行きなさい」
​ 褒めているようでいて、それはあくまで「都会のよそ者」が島のルールに従い、役割を果たすことへの評価だ。美月は、内心の不満を押し殺し、笑顔で「はい」と答える。給料の良いヘキ地手当の対価として、この役割を受け入れるしかないと、自分に言い聞かせた。

 しばらくして、樹が現れた。彼は農作業で泥がついたままの作業着を脱ぐ暇もなかったのだろう、疲労を滲ませながらも、美月を見つけると無言で手伝いを始めた。重い水の入ったポリタンクを運び、配膳を手際よくこなす。彼の動きには無駄がなく、美月は彼がただの農家の息子ではなく、この島を支える働き手であることを改めて認識した。
 
​ しかし、その協力はすぐに遮られた。
​「樹!」
 古老の一人が、鋭く声を上げた。
「お前は何をしておる! そういう雑用は女の仕事じゃ。お前は後継ぎじゃろう。大事な体なんだから、座って休んどれ!」
 ​樹の動きが、ぴたりと止まった。
 ​美月は、その光景を見て息を呑んだ。樹の顔から表情が消え、彼は無言で頭を下げ、隅の席へと戻っていく。彼の横顔に浮かんだのは、怒りや反発ではなく、深い諦めと、どうしようもない悔しさだった。

​(彼は、座っていたいわけじゃない。本当は、手伝いたいんだ……)
 
​ 美月は、あの歓迎会での強い否定の言葉が、彼自身の意志ではなく、島という巨大な運命から彼を守るためのものだったのだと理解した。彼の悔しさが、美月の胸にチクリと刺さる。美月は、彼の代わりに彼を支配する運命に憤りを感じ、ますます雑務に集中することで、その感情を振り払おうとした。

 ​深夜。風雨の音が公民館の壁を叩きつける中、多くの島民は雑魚寝していた。
 ​美月は目が冴えて眠れない。湿気と、高齢者たちのいびき、そして何よりも、樹の「悔しそうな横顔」が頭から離れなかった。
 
​(都会にいたら、今頃どうしていたかな?)
 
 ​間違いなく、スマホを開き、SNSで友人の華やかな生活を眺め、この悲惨な状況から精神的に逃避しようとしていただろう。しかし、今日は一度もスマホに触れていない。島の時間が、彼女の依存心を削ぎ落とし、強制的に現実に向き合わせようとしている。
 ​美月は、息苦しさに耐えかね、公民館の玄関先の、少し風雨がしのげる場所に座り込んだ。
 ​そこへ、背後から気配がした。
​「眠れませんか、先生」
 ​樹だった。彼は美月の隣に、静かに腰を下ろした。
​美月は、彼の低い声に、張り詰めていた心がすっと軽くなるのを感じた。なぜだろう、この島に来てから初めて、誰かと対等に話せる気がした。
​「はい。ガタガタうるさくて……樹さんは、大丈夫ですか」
​「俺は、慣れてるんで。ただ、今日はお疲れ様でした」
​「いえ……樹さんこそ。座っているの、辛そうでしたね」
 ​美月は、思わず本音を漏らした。樹は、数秒間、風雨の音だけを聞いていた。
​「……気にしないでください。俺は、そういう運命なんで」
​ その言葉には、抗えない重力のような諦念が込められていた。美月は、どう返すこともできず、ただ樹と同じように風の音を聞いた。大した会話でもないのに、まるで都会のカフェで親友と話している時よりも、心が通じ合っているように感じた。
 ​張り詰めていた緊張が溶け、ふと強烈な眠気が美月を襲った。抗う力が残っていなかった。
​「……すみません」
 ​美月は、そう呟いたきり、意識が途切れ、樹の肩に、そっと頭を預けてしまった。
 ​樹は、全身が凍り付いたように固まった。彼の人生で、女性の温もりをこれほど近くに感じたのは初めてだった。石鹸と潮の匂いが混ざった、美月のやわらかい髪が頬に触れる。
 
​(どうすればいい、動けない……!)
 
 ​彼の心臓は、台風の咆哮にも負けないほど、うるさく、激しく脈打った。彼は女性を知らない。純粋すぎるほどの動揺が全身を支配し、手を上げることも、美月を突き放すこともできない。
 ​彼は、自分の運命を呪うような諦念と、今触れている美月という都会の自由の温かさとの間で、激しい葛藤を覚えた。そして、動けないまま、ただじっと、その初めての温もりを味わい、夜明けを待つしかなかった。

 ​朝。風雨は嘘のように弱まり、薄い光が公民館の玄関先を照らし始めた。
 ​美月は、自分が樹の肩に深く寄りかかって眠っていたことに気づき、飛び起きた。
​「あ……ご、ごめんなさい!」
 ​顔が、火を噴くように熱くなる。昨夜の雑務での疲れと、夜の孤独感が、美月の理性を麻痺させていたのだ。
 ​美月は、まだ眠っている樹の顔をまじまじと見つめた。彼は、普段の仏頂面とは違い、少し幼さが残る寝顔だった。
 
​(綺麗な顔だな……)
 
 ​都会ならきっと、モデルか何かにスカウトされていただろう。そんな人間が、なぜこんなド田舎に閉じ込められているのだろうか。美月は、彼が背負う運命の重さを改めて感じた。
 ​やがて、樹がゆっくりと目を開けた。彼の瞳は、朝の光を浴びて少し潤んでいた。
 ​美月は、咄嗟に謝罪の言葉を探した。しかし、樹は立ち上がりながら、それよりも先に、美月を突き放す言葉を選んだ。
​「すみません、噂になると困るでしょう。俺は、後継ぎなんで。先生は、教師の立場がある」
 ​彼は、美月の目を一切見ようとしなかった。その言葉は、まるで美月の行動を咎めているようで、美月の心にズキンと響いた。
 
​(困る、って……私が、あなたの運命の邪魔になるから?)
 
 ​美月が「ごめんなさい」と口にしようとした瞬間、樹はさっさと公民館の中へと戻っていった。その背中は、美月を寄せ付けない、強固な壁のように見えた。
​美月は、慌てて後を追いかけるが、追いつくことはできない。心の中で、昨夜の温もりと、今突き放された冷たい言葉が激しくぶつかり、大きな動揺が広がった。

​ 美月が職員寮に戻ると、台風の爪痕は想像以上に深かった。屋根が一部吹き飛び、雨が入り込んで住める状態ではない。
​ 途方に暮れる美月に、養護教諭の蒼井幸子先生が声をかけてくれた。
​「あら、大変。美月ちゃん、うちに来なよ。しばらくはアタシの家でゆっくりしな」
​ 美月の避難先は、一時的に蒼井先生の家となった。
​そして、寮の修理問題が持ち上がった。この島で、屋根を修理できる若い男手は、圧倒的に少ない。校長や久保先生は高齢だ。
​ 結局、修理は島で一番若い働き手である水田樹に依頼されることとなった。
​ 美月は、複雑な心境でその知らせを聞いた。彼は自分を拒絶したばかりなのに、今度は、美月が住むべき家を、彼が作らなければならないのだ。
 ​修理期間中、美月は蒼井先生の家から、作業中の寮に顔を出すことが多くなった。樹は無口に、だが驚くほど手際よく作業を進めていく。重い木材を軽々と運び、屋根の上で金槌を振るう姿は、彼の運命を受け入れた「後継ぎ」としての誇りと、紛れもない「男らしさ」を感じさせた。
 ​美月は、彼に作業に必要な工具を渡したり、冷たいお茶を差し入れたりしながら、会話らしい会話はないものの、物理的な距離は確実に縮まっていった。
 
​(私は、あの優しい肩を、また感じられるだろうか……)
 
 ​樹の作業着の背中を、美月はじっと見つめる。彼は美月を拒絶したはずなのに、この修理作業という「島の掟」の中で、美月との接点が避けられない形で結ばれてしまった。美月は、彼の無口な手際の良さに、そして自分の心臓が彼の姿を見るたびに高鳴ることに気づき、少しずつ、抗いがたい形で彼に惹かれていくのを感じていた。
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