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第三章 都会行きのチケット
しおりを挟む 台風で壊れた職員寮の修理は、樹の驚くべき手際の良さで、あっという間に完了した。
「樹くん、本当に手際がいいから、早かったわね」
蒼井先生は、美月が荷物をまとめるのを手伝いながら、感心したように言った。美月は「そうですね、感謝しなきゃ」と返す。確かに、作業着姿で無口に働く樹の姿には、言いようのない逞しさがあり、美月は毎日、彼に惹かれていくのを自覚していた。
蒼井先生は、美月が引っ越す直前、カバンから白い封筒を取り出した。
「これよ。この間、同窓会のビンゴ大会で当てちゃったの。アタシのくじ運すごいでしょ?」
中には、東京の有名テーマパークのペアチケット。都会の、きらびやかな刺激の象徴だ。美月は、それを眺めるだけで、島生活で乾ききっていた心が、潤うような錯覚を覚えた。
「樹くんを誘って一緒に行きなよ。あの子はきっと、こんな場所に行ったことないはずだから」
蒼井先生の提案は、美月の心に刺さった。あの、ネットもない、単調な島での生活に縛られている樹を、一度解放してあげたい。そして何より、美月自身が都会の空気、刺激、そして自由に動ける空間を恋しく思っていた。
美月はチケットを握りしめたが、現実の壁にぶつかる。
「船は週に三日しかないし……仕事が……」
「大丈夫、大丈夫! 私が代わりに一から三年のクラスを見てあげる。この学校は緩いんだから、校長も許してくれるわよ」
実際、校長先生は「ぜひ行ってきなさい、若いうちに」と快諾してくれた。残る問題は、樹をどう誘うか、だった。
その日の仕事終わり。美月は意を決し、水田農場へと向かった。夕暮れ時、畑には土の匂いが充満していた。
樹がトラクターから降り、美月を見て驚いた顔をする。
「どうしました、先生。まだ修理箇所が……?」
美月は、緊張で少し声が上ずりながら、蒼井先生からもらったチケットを差し出した。
「これ、蒼井先生からもらったの。寮の修理、本当にありがとう。その、お礼に、どうかなって」
樹は、チケットをまじまじと見つめた。その目が、一瞬、美月が今まで見たことがないほど、好奇心と輝きに満ちたのを美月は見逃さなかった。
「これを……俺と?」
「ええ……。行こうよ、東京」
美月は、チケットという「都会からの招待状」が、彼の運命の鎖を一時的にでも解いてくれることを願った。
しかし、その輝きはすぐに、例の「諦め」の影に覆い隠された。
樹は、チケットを美月に押し戻した。
「ごめんなさい。俺は……仕事があるんで」
彼は、美月の目を一切見ず、再びトラクターのエンジンをかけようと向き直った。
美月は、その瞬間、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。それは、単なる誘いを断られた痛みではない。あの台風の夜に感じた、一瞬の温もりを否定された痛みだった。
(また、拒絶された。やっぱり私は、彼の「運命」の邪魔になる人間なんだ)
美月は、諦念と共に、その場を立ち去るしかなかった。
翌日、蒼井先生に樹を誘えたか聞かれた美月は、誘えなかったことを正直に話した。蒼井先生は少し考えるような仕草をして、「わかったよ」と言った。せっかくチケットをくれたのに、申し訳なかった。
翌週の月曜日。美月は、一人で港へと向かった。
(分かっていたことじゃない。彼はあの島から離れられない。私は、一人で都会の刺激を楽しめばいい)
そう自分に言い聞かせるが、美月の足取りは重かった。東京への高揚感よりも、樹に拒絶された孤独感の方が勝っていた。
船の出航が迫った頃、港にけたたましい音を立てて軽トラックが止まった。
見ると、運転席には、あの「おせっかいおばちゃん」。そして、助手席から半ば強引に引きずり出されたのは、農作業着姿の樹だった。
「三枝先生!蒼井先生から聞いたよ!それで、やっと樹くん捕まえたよ! 連れてっちゃって、連れてっちゃって!」
おばちゃんは、美月が拒絶されたことなど知らないとばかりに、樹の背中を強く押した。
樹は、美月を見て、複雑な表情を浮かべた。恥ずかしさ、諦め、そして、ほんのわずかな解放感。
「すみません、島民がうるさくて……」
彼は、いつものように頭を下げるが、その言葉には、美月を突き放すような強さはなかった。
美月は、胸の中に密かな喜びが広がっていくのを感じた。美月は、無言でチケットを樹に差し出し、樹はそれを受け取った。二人は、島民の視線を背中に受けながら、本州行きの船に乗り込んだ。
船が微笑島を離れ、二人は甲板の風が心地よい場所に並んで座った。最初は沈黙が支配したが、美月は意を決して口を開く。
「……来てくれて、ありがとう」
美月がそう言うと、樹は小さく頷いた後、話し始めた。それは、彼の内側に閉じ込めていた、外の世界への憧れを語る言葉だった。
「高校は、静岡の農業高校だったんです。寮生活で、島から初めて出た。野菜の品種改良とか、熱心に勉強してました。夜は、仲間と屋上から星を見て……」
美月は、樹の目が、星の話をするたびに、本当に輝いているのを見て取った。彼は「後継ぎ」という鎖に繋がれているが、その心は、広い世界と知識を求めているのだ。
美月も、彼に都会の生活を教える。
「私、前に働いていた東京の小学校じゃ、一クラスが三十五人もいたの。微笑島の四人クラスが、どれだけ新鮮か」
お互いの知らない世界、都会と田舎の極端な違い。その会話は、二人の間の壁を、少しずつ溶かしていった。樹の瞳は輝き、美月も自然に笑顔になった。彼といると、島での重圧や孤独を忘れられた。
船が本州の港に着いた頃、樹は、美月に確認するように尋ねた。
「今日は移動で、明日テーマパーク、明後日帰りの船ですよね」
「そうだけど?」
「この格好じゃ、東京は歩けませんから。服、買わなきゃ」
樹は、農作業着姿で東京を歩くという異物になることを拒んだ。それは、彼が「後継ぎの運命」から一時的に解放され、個人として都会を歩きたいという、強い願望の現れだった。
美月は頷き、彼を都心の商業施設へ連れて行った。
都会のメンズショップ。美月は、彼のすらりとした体躯と整った顔立ちを思い浮かべ、似合いそうな白のシンプルなシャツとチノパンを選んだ。
「これ、試着してみて」
樹が更衣室から出てきた瞬間、美月は息を呑んだ。作業着の野暮ったさが消え、彼の内側に秘められていた清潔感と、均整の取れたスタイルが、一気に解放された。
店員がすぐに駆け寄り、「お客様、お似合いですね! モデルさんですか?」と本心から褒めた。
樹は、慣れない褒め言葉に少し照れながらも、初めて都会の空気と服を身に纏った自分自身に、自信のようなものが湧き上がってくるのを感じていた。
美月は、「こんな素敵な人と、今から並んで歩くのか」という事実に、急に自分の服装や髪型が気になり始め、心の中で強く喜びが広がるのと同時に、どこか萎縮するような複雑な感情を覚えた。
夕方になり、美月は予約していたホテルにチェックインした。
「樹さん、私はここに泊まるけど……」
美月が尋ねると、樹は少し離れた場所を指差した。
「俺は、これから自分で探します」
彼は、美月との間に、無意識のうちに線を引こうとしているようだった。美月は、その自主性を尊重し、見送った。
部屋に入り、美月は、電波が満タンのスマホを手に取り、樹にメッセージを送った。
「ホテル探せた?」
「夕食まだですよね? 一緒にどうですか」
電波のいい都会だ。すぐに既読がついた。しかし、返信は来ない。
美月は、島ではスマホをあまり使わない樹の生活習慣を思い出し、不安と心配にかられた。テーマパークでの高揚感と、樹の新しい姿が頭の中を巡る。
(もしかして、都会の刺激に圧倒されて、私から離れてしまったんじゃないか……)
美月は窓辺に立ち、都会の煌めく夜景を見下ろした。孤独と、彼の新しい姿への期待が混ざり合い、美月は返信を待つしかなかった。この広い都会で、彼は今、どこにいるのだろうか。
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