島を出る日

おまつり

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第五章 運命からの一時的な解放

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 美月と樹は、フロントで追加料金を払い、ツインルームではなくダブルベッドの部屋に入った。
 ​カードキーを差し込み、部屋の照明がついた瞬間、美月の心臓は飛び跳ねた。視界に入ったのは、中央に鎮座する大きなダブルベッド。この状況が、前章で交わした二人の意識と告白を、一気に現実のものへと引き戻した。
 ​美月は、喉の奥がカラカラに乾いているのを感じた。年上として、何か気の利いた言葉を言わなければ、この重すぎる空気を変えなければと思うのに、言葉が出てこない。都会の喧騒の中で得たはずの大胆さは、今、極度の緊張によって、どこかへ消え失せていた。
 ​樹は、そんな美月の様子を、じっと見つめていた。その瞳には、熱意と、それに抗おうとする理性が混在している。
 ​やがて、樹は重い息を一つ吐き、椅子に腰掛けた。
​「大丈夫です。先生が嫌なことは、何もしないようにします」
​ その言葉は、彼がどれほど真面目で、どれほど葛藤しているかを物語っていた。彼は、美月を女として強く求めながらも、その意思に反して、あくまで紳士であろうとしている。樹の緊張した、少し俯いた横顔を見て、美月は、彼の不器用な優しさと、島での抑圧された生活に対する切なさを改めて感じた。
 ​美月は、樹のその優しさに甘えるのではなく、彼の中の枷を解いてあげたいと思った。
​「樹さんから先にどうぞ」
 ​交代で風呂に入り、美月がバスルームから出ると、樹はベッドの端に腰掛けていた。美月がベッドに入り、シーツの冷たさが肌に触れる。
 ​美月が「おやすみなさい」と言って電気のスイッチを押すと、部屋は一気に暗くなった。残ったのは、枕元のライトがぼんやりと照らす、薄いオレンジ色の光だけ。その微かな光が、二人の顔の輪郭を曖昧にし、空間をさらに密室にした。

​「……触れて、こないんですね」
 その言葉が出た瞬間、美月は驚いた。自分でも予期しない声だった。
 
(私、本当にいいのかな。また傷つくかもしれないのに)
 
 でも、樹の優しい眼差しを見ると、不安よりも信頼が勝った。この言葉は、樹に対する誘いであり、同時に、樹の抑圧を解放してあげたいという願いでもあった。
 ​樹は、一瞬息を呑んだ。
 「……触れて、いいんですか?」
​ 彼の声は震えていた。美月は、その緊張が、彼にとってどれほど大きな一歩なのかを理解し、そっと答えた。
​「うん」
​ 美月は、自分の声が、自分自身のものではないように感じた。
 ​樹は、美月の返事を聞くと、そっと美月の頬に触れた。樹の手が震えている。美月はそれに気づき、彼の手をそっと包んだ。
「緊張してる?」
「...…はい。こんなの、初めてで」
 その正直さが、美月の心をさらに温かくした。
​「……理性が効かないかもしれない」
​ 彼の言葉は、彼自身の限界の宣言だった。美月は、その警告を受け入れ、目を閉じた。
​「いいよ……」
 ​その一言が、二人の間に張られていた見えない糸を断ち切った。

 ​樹の唇が、美月の唇をそっと塞いだ。最初は、お互いの緊張を確かめ合うように優しく、触れるだけのキスだった。美月は、彼の唇から、彼の抱えていた不安と、それ以上の情熱を感じ取った。
 ​次第に、キスは深く、熱を帯びたものに変わっていく。樹は美月を求め、美月も樹の逞しい体を求めた。
​二人は、誰にも邪魔されない都会の密室で、お互いの運命から解放された。美月は、「金とキャリア」という冷たい打算から、樹は「後継ぎ」という重い鎖から。二人の影は、枕元ライトの光の中で一つになり、甘い吐息と、シーツの擦れる音だけが、部屋を満たした。
​「島民のおせっかいが、本物の恋に変わっちゃったなんて……」
 ​樹は、美月の髪を撫でながら、そう呟いた。美月は、その皮肉を、甘い声で笑い飛ばした。
​「私たちは、島民に感謝しなきゃね」
 ​あの狭い世間の重圧が、皮肉にも二人の距離を一気に縮めるきっかけとなった。

​ 翌朝、美月は、体中の節々が心地よく痛むのを感じながら、薄っすらと目を覚ました。昨夜の出来事が一気に蘇り、美月は顔を赤らめる。
​ 隣のベッドには、樹の姿はなかった。美月は、一瞬の寂しさと不安を覚えたが、バスルームから、水が流れる音と、樹の低い声が聞こえてきた。
​「早く行かないと、テーマパーク、混みますよ」
 ​美月は、その言葉に、昨夜の情熱とは違う、日常的な彼の一面を感じた。そして、この関係が、一夜限りのものではないことを確信した。
​「……遅くてもいいんじゃない」
 ​美月は、ベッドから起き上がり、バスルームのドアを開け、洗いかけの樹の背中に、そっと抱きついた。
​ 樹は驚いた様子もなく、鏡越しに微笑んだ。
​ 樹は美月の手を握り、振り返って深くキスを交わし、再び二人でベッドへと戻った。朝の光が差し込む中、彼らは、テーマパークの混雑よりも、今、目の前にある確かなぬくもりを選んだ。

 ​昼頃、二人は待ち望んでいたテーマパークに着いた。アトラクションを楽しみ、美月は樹の素直な驚きや喜びの表情を見つめるのが、何よりも楽しかった。お土産を選び、手を繋いでゲートを出る頃には、二人はもう、誰もが認める恋人同士だった。島では決して許されなかった自由と、公然とした愛情表現が、美月を満たした。
 ​その夜も、彼らは互いを求め合い、東京での最後の夜を過ごした。

 ​微笑島へ向かう船の上。美月は、本州の賑わいが遠ざかるにつれ、再びあの閉塞的な島へ戻ることに、微かな寂しさと、現実への不安を覚えた。しかし、隣には、手を握ってくれる樹がいる。
 ​樹は、美月の不安を察したように、真剣な顔で尋ねた。
​「島民に、何て説明しますか」
​ 美月は、握られた手をぎゅっと握り返した。
「付き合ってるのは、内緒にしたい。恥ずかしいし、三日間も一緒にいれば、察する人は察するでしょ」
 ​美月の頭には、島民たちのあの口さがない「嫁候補」という言葉が蘇っていた。自分たちの純粋な関係を、島の古い価値観で穢されたくなかった。
 ​樹も、同意した。
「それもそうですね。まずは、一緒にテーマパークに行っただけ、でいきましょう」
 ​二人の間には、この秘密を共有する共犯者のような、強い絆が生まれた。
 ​美月は、この秘密が、自分たちの「逃避行」の証拠だと感じ、心の中で大切に温めた。しかし、この甘い秘密が、狭い世間という舞台で、これから大きな波乱を呼ぶことを、二人はまだ知る由もなかった。
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