桜の舞う時

唯川さくら

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檸檬

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伊吹が絵画に興味を持ったのは、ドラクロワの作品を見た事がきっかけだった。
人間の極限状態を描く事が多かったロマン主義の巨匠が描いた、【キオス島の虐殺】 ――― ギリシア独立戦争をテーマにして描かれたその作品は、明暗と陰影がはっきりとしていて、血なまぐさくて生々しくて残酷で、それでいてひどく美しかった。人間の残酷さを隠そうともしない、激しい本性を思わせる描き方と、補色を隣り合わせに用いて強調するような色使いが美しいと思った。
この絵が【絵画の虐殺】と言われるのは、おそらくそれが原因なのだろう。芸術でありながら陰惨を突きつけるような行為は、正統派な画家たちからは批判の的となった。
それでもドラクロワは自分が思った芸術を描いた。その姿勢が、幼い伊吹にとって大きな影響となったのは言うまでもない。
ドラクロワに憧れを抱いた自分はどこか無意識に、彼をなぞるように生きてきたのではないかと思う事がある。ドラクロワ本人は、とても物腰が柔らかく温厚な人物だったという。しかし、その裏側に隠された激しい気性を表すかのような絵画に、「花束の中に巧妙に隠された噴火口」と言われていたのだと以前聞いた。悲しみも怒りも全て心の内に押し込めてひた隠し、波風を立てないように世の中を渡る自分にそっくりだ。
初めて父親に買ってもらったドラクロワの画集は、このアトリエでは1番傷みが激しくて、頁が半分取れかかっている箇所もある。引き千切らないようにそっと、伊吹は頁をめくった。

【民衆を導く自由の女神】
見開きに描かれたその絵の中の女神に、ふと奈々の姿が重なる。
敵に倒された人々の中で光彩を浴びて、ひたすら立ち向かい突き進んでいる女性像。その姿は、実際の人間ではなく「自由」というものを擬人化させて描いたものだという。
「抑圧に屈する事なく戦え」と右手を高く突き上げたその瞳はぶれる事なく力強くて、周りにいる男たちに引けをとる事なく先導している。

『…よかった。』

随分見慣れたはずのその絵画を見て、伊吹はふと優美に笑みを浮かべた。
自分の血を引く孫娘が、この時代やあらゆるしがらみに縛られ続ける自分とは違う、自由な道を進む事に。
抑圧に抵抗する勇気を失わないでいてくれる事に。
そして、“正義”というものを見失わないでくれる事に、妙な安心感を覚えた。それと同時に、わずかに羨望が首をもたげて、ぐっとこらえるように瞳を閉じる。
自分はきっと、まだましな方なのだと思う。雪村という家柄がある以上、どこかで優遇されている部分は大いにあるはずだ。それでも、こんな風に堂々と正義を振りかざして突き進める事が、感情のままに声を上げる事が出来るのが心の底から羨ましいと思う。
もし、自分もそんな風に本音を言う事が出来たのなら、龍二に何て言葉をかけただろう?
「行かないで欲しい」と、素直に止めていただろうか。
「生きて自分の元に帰って来て欲しい」と、涙の1粒でも零しただろうか。
少なくとも、後ろ髪を引くからと何も言わずに送り出すなんていう事はしなかっただろう。もう2度と会う事などないと、分かっているなら尚更―――。

“僕は、この黄色い丘で待ってるよ。伊吹が来るまで、ずっとね…。”

もう遠い日になってしまった春の日、桜山でしたそんな約束。
妙に透明感のあるあの時の龍二の声がふと、耳元で聞こえた気がして、伊吹は切なく顔を歪ませた。
きっとお互い分かっていたのだと思う。もうこんな風に同じ時間を過ごす事などないと。それが分かっていながら、龍二も伊吹も嘆きあう事もせずに微笑み合った。美しい思い出だと言えば聞こえはいいが、裏を返せば素直に生きる事を禁じたこの時代の爪痕だ。
悲しみを押し込めると同時に愛しさまでも押し込めなければいけない。愛は哀と同義語になると知った。
今でも鮮明に思い出せる龍二の顔も声も仕草も、いつか記憶の彼方に埋もれて思い出せなくなるのだろうか?永遠に悲しむ事が出来ないまま、自分は未来の世を生きるのだろうか?伊吹にとって、それが1番恐ろしい事だった。
平成の世で奈々と出会う頃、どれだけ龍二の事を覚えていられるだろう。思い出す事は、許される事なのか…それさえも、今は分からない。もし許されるのなら、龍二が確かに同じ時を生きていたのだという事実をひっそりと記憶の片隅に置かせて欲しいと思う。それが例え癒えない傷になったとしても、心に刻んでおけるなら本望だ。


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『お嬢様。失礼してもよろしいですか?』

アトリエの外からそう声がかかって、伊吹はハッと我に返ったかのように顔を上げた。赤く潤んだ瞳を拭って、慣れた様子で笑みを浮かべると、「どうぞ」と艶やかな声を返した。
静かに開けられた扉から冷え切った風が入り込んで、置いてあるスケッチブックの頁をはためかせる。凍える冬の香りの中現れたのは、この雪村の家で1番古くから勤めるミツだった。
いい知らせではないだろう…刹那、伊吹の直感がそう告げる。

『かけてちょうだい、ミツさん。』

日本舞踊を思わせるほど優美な立ち振る舞いで、伊吹は置いてある椅子にそっと手を向けた。動揺さえ滲ませない微笑みも完璧だ。
ミツは小さく頭を下げると、そのまま椅子に腰かけた。心なしか、少しだけ背中が小さくなった気がする。雪村の家に来た頃は伊吹ぐらいの年だった彼女の頭には、銀髪が目立つようになっていた。母親を亡くしてからずっと母親代わりだったミツのその姿に、今までかけてきた苦労を思う。

『旦那様の勤務先が、満州になったそうです。』

『…そう。いつ頃になるのかしら?』

『この冬が明けたらと。』

そのミツの言葉に、伊吹はただ小さく頷くだけだった。


【満州国】――――日本のおよそ2倍にもなる、中国東北部の広大な土地に1932年3月、清王朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀を執政に建国された、かけがえのない夢と希望の大地、それが満州国だ。

日本が満州に拠点を築いたきっかけは日清戦争である。
世界恐慌の影響を受けて不況となった小さな島国日本は、植民地を開拓する事で不足する資源を補おうとした。日清戦争で取得した台湾、日露戦争で取得した南樺太、日韓併合という形で植民地化を進めていた朝鮮…これらの植民地に加えようとしたのが、満州だった。
満州の気候は北海道と似ていて、日の出る時間が長く、大陸のため風の影響をほとんど受けない。そしてその大地は、肥料を使わなくても作物が短期で実る土地だと言われていた。加えて鉱物資源も豊富なこの満州さえ植民地として確立してしまえば、寒い大地の満州・温暖な日本・熱帯の南方列島の経済ブロックが完成され、世界各国の圧力にも耐えられるほどの強大な権力を手に入れられると考えられていた。

満州の一部、「関東州」の租借権はすでにソ連から譲り受け、満州を南北に分ける秘密協定を結んでいた。そしてその関東州こそ、ソ連への戦略基地としての最重要拠点であり、日本が満州進出を企てるための重要な役割を担っていた。その関東州の最も大きな都市であったのが、「大連」だ。
大連は元々、ソ連が太平洋進出のために建設した港湾都市であり、それをそのまま引き継いで拠点として建設を進めていた都市であった。やがて満州の玄関口となった大連港は、経済を担うためにも国力の誇示にも十分な設備を備えた東洋一の国際貿易港になった。
パリのような街並みに、最先端の技術が凝縮した生活、栄えた文化は当時、世界各国の人々が憧れを抱いて集まるほどだったという。
そんな大連に本社を置き、ソ連から受け継いだ鉄道権益を実際に運営したのが南満州鉄道、通称「満鉄」。満州の経済支配と資源開発をするため、満鉄は様々な事業を展開して幅広い分野を受け持つ巨大複合企業へと成長した。その影響力の大きさから、「満鉄コンツェルン」「満鉄王国」とまで称されるほどだった。

しかし、植民地化を反対する人々は、満鉄に対して鉄道妨害などのテロ行為を起こしていた。それを阻止し、治安の回復のために駐屯した部隊が、泣く子も黙ると言われた「関東軍」だ。
社会主義の脅威国であるソ連と隣接している満州にとって、軍事力は必要不可欠なものであった。そのため、当初テロ行為の取り締まりのために置かれた関東軍は徐々に強大な力を振るうようになった。そして、やがて来るであろうアメリカとの世界戦争に備えて満州を日本の領土とし、そこで日本の国力を養う必要があると考えていた関東軍は、その軍事力をもって満州全体を支配しようともくろみ始めたのだ。
1931年9月18日、奉天駅から北へ11キロの満鉄の線路が爆破されるという事件が起きた。後に【柳条湖事件】と呼ばれるこの事件は、奉天軍閥の首領である張作霖爆殺事件と同様、関東軍が行動を起こす口実にすぎなかった。関東軍はこれらの事件を中国人の仕業として、一気に軍事行動にでたのだ。
そうしてとうとう勃発したのが【満州事変】と呼ばれる武力紛争だった。
それでも関東軍は勢いを衰えさせる事もないまま、満鉄路線と日本人の安全確保を名目に満州全土を占領し始め、15年における日中戦争の発端となった。それは間違いなく中国への侵略行為だったはずなのに、日本は関東軍を止める事が出来なかった。それほどまでに、関東軍の力は強大だったのだ。

圧倒的な力を持つ関東軍に日本が手をこまねいていた1932年3月、ついに満州国建国が宣言された。国際世論の目をかいくぐり、自由に操れる政権の樹立をもくろんだ関東軍が白羽の矢を当てたのが、清王朝復活を夢見た最後の皇帝、愛新覚羅溥儀だった。形式的には有力者である地方軍閥がまとまって満州国を建国したようになっていたが、実態は関東軍による傀儡国家に過ぎなかった。
「政は道に本づき、道は天に本づく。新国家建設の旨は、一に以って順天安民を主と為す」という建国宣言の下で立ち上がった満州国の理念は《王道楽土》。自らは軍隊を持たず、慈愛の心で国を治めるという中国古来の政治哲学を謳ったが、それは単に関東軍にとって都合のいい哲学であり、実質的な軍事は関東軍が担った。国旗は、日本・漢・満州・蒙古・朝鮮の5民族を意味し、この5族が協力して作り上げる《五族協和》の理想国家だと国内外に宣言し、非難を浴びる事を避けようとした。しかしその思惑とは逆に、国際世論に逆らい続けた日本は、国際社会から孤立していく事となったのは否めない。
もちろんその声明は同じ日本人にも影響を及ぼし、皆が日本は満州の育ての親であり日本のものだと信じて疑わなかった。「満州の大地は、日本人の血であがなわれた」―――長きに渡って多くの日本人にこういった意識があったのも、そのためだろう。

こうして1つの国家を左右するほどの権力を持った関東軍は、満鉄を支配下にして経済にもその手を伸ばしていった。
しかし、持っていた土地を奪われ重労働を強いられていたのは、「苦力」と呼ばれた中国人たちだった。どれだけ過酷な環境に追いやられても、光が当たる事はなく、待遇は悪くなる一方。そんな生活とは裏腹に、関東軍の支配は日本人優先となり、それに反発した中国人は各地でゲリラ活動を起こすようになってしまった。
そんなゲリラ活動や、広がった土地の分の国境線の警備をするためにはまだまだ人手が足りない。そう考えた関東軍は、北海道や東北から青年たちを移民させ、やがては結婚相手としての女性も移民させた。中でも軍や満鉄の関係者は、街の一等地に与えられた広大な敷地と中国人の使用人、日本国内では出来ないような技術を用いて作られた建造物に囲まれ、優雅な生活を送っていた。
エキゾチックな観光地、ハルビン。
最新技術を網羅した首都、新京。
世界屈指の港湾都市、大連。
それらを全面に押し出し、日本国内にいるよりも裕福な生活が出来ると謳い続けた日本は、昭和11年広田内閣になると同時に、国策の1つに満州移民を導入した。これを、“満蒙開拓団”という。こうした大々的な中国侵略行為が元になり、日本は全面戦争に突入したのだ。
中国人の土地を安く買収し、日本人を移民させる…そうやって満州全土の日本人人口を増やそうとした背景には、満州を完全に掌握したいという関東軍の思惑もあったのだろう。そして“王道楽土”の謳い文句を信じ、五族協和の旗の下移民する人々は皆、そんな事など全く知らないまま満州の地を踏んだ。日本が泥沼の戦いに突き進んでいる事も、反日ゲリラと戦わせながら農業をやらされる事も、やがて国境を越えて参戦してくるソ連軍に虐殺される事も、人々は知る由もなかった。


『満州のどのあたりになるのかしらね?私、ハルビンには1度行ってみたいと思っていたのよ。』

『高等法院がある場所になりますので、新京かハルビン、奉天あたりになるかと。』

『そう。父の力があれば、あの“あじあ号”にも乗れるんでしょうし、色々見て回るにはよさそうね。』

口元に優美な三日月を描きながら、伊吹はそう言った。微笑む面持ちとは裏腹に、瞳の奥は凍てつくほどの冷たさを含んでいた。心の奥底に驚くほどの冷徹さを併せ持つ伊吹の妖艶な美しさは、さながら冷たい花のようだ。

【東方のパリ】―――ハルビンを代表する街“キタイスカヤ”は、東アジアで1、2位を争うほど国際色豊かで異国情緒漂う街並みから、そう呼ばれ人気を博していた。
中国で最も北に位置する黒龍江省の省都、ハルビン。ソ連ともほど近いその街は、真冬になれば最低気温がマイナス30度にもなる事がある「氷の街」だ。
元は小さな漁村に過ぎなかったハルビンが栄えだしたのは、ソ連が露清合併のもとに東清鉄道を設立し、最初に建設を始めた頃。陸上交通が未発達だった当時の満州では、水上での輸送手段が中心であり、満州一の大河である松花江と東清鉄道が交わるハルビンが物流の中心として注目され始めた。それを機に、ハルビンは大都市へと変貌した。その賑わいは、東京の銀座や大阪の御堂筋を遥かに凌ぐとも言われ、上海のバンドや天津のビクトリアロードと肩を並べるほどであった。
ハルビンには中国人やソ連人だけでなく、欧米各国の人々が暮らしていた。そのため、トルコ寺院と称されたイスラム教のモスクやユダヤ協会、ウクライナ寺院、仏教寺院なども建てられ、より一層国際色豊かな街並みへとなった。
東清鉄道は満州をT字形に走り、シベリア鉄道からヨーロッパへも通じる事が出来る。T字の要となるハルビンは、ソ連やヨーロッパからの流れが交差する要衛の都市として、国際色豊かに発展していった。ハルビンの街はモスクワをモデルとして作られ、駅をはじめとしたすべての建築物が洋風建築で作られていった。多くの商業施設も作られ、商店には各国の商品が並び、飲食店ではヨーロッパの料理を食べる事も出来た。
そんなハルビンと港湾都市 大連を繋いでいた列車が、【あじあ号】と名付けられた、満鉄の栄華を象徴する列車だ。
あじあ号は、大連からハルビンまでの944キロを13時間半で疾走し、最高時速は130キロ。「陸の王者」とも言われた最新型の急行列車だ。定員292名、冷暖房完備、豪華な食堂車までも完備した最新鋭の列車はサービスも一級品で、誰もが憧れる優雅な生活の象徴として満州の大地を駆け抜けた。

長年ヨーロッパの美術に傾倒してきた伊吹が、そんな国際色豊かな街に憧れなかったと言えば嘘になる。高等法院の判事である父の立場から約束される優雅な生活も、嬉しくないわけではない。欧米文化を排除しようという動きが強くなる日本でがんじがらめに縛られ続けるより、開放的な満州に行く方がいいのは分かっている。画家の名前すら口に出来ないような閉鎖的な日本より、絵画の勉強ももっと堂々と出来るようになるだろう。
それでも、それを心から喜べない。
おそらく、奈々を連れて行く事は不可能だろう。それに、自分が満州へと行ってしまえば、龍二との約束を守れなくなる。

“…待っているわ。いつまででも。”

その言葉を聞いた龍二が浮かべた柔和な微笑みが脳裏に浮かんで、伊吹は思わず表情を曇らせた。龍二が帰ってくる事などないだろうと頭ではわかっているのに、それでもこの場所で待ち続けていたいと思う気持ちだけは誤魔化せない。でも、それも裕福な生活ゆえの贅沢なのだろうか?
そんな思いがせめぎ合って、時の流れが止まったかのような錯覚を起こす。続く言葉など見つかるわけもなく、途方に暮れたかのように立ち尽くしていた。
そんな伊吹の思いを知ってか知らずか、ミツはじっと見守るように伊吹を見つめた少し後で、ひと際小さな声で言葉を紡いだ。

『新しいお屋敷は、街の一等地に建てられた日本人住宅だそうですが…中国人の使用人も用意していただけるそうです。』

『…ミツさんたちは一緒には行けないという事?』

『はい。おそらくは。』

『…それでも、“あの女”は、連れて行くんでしょう?』

伊吹の瞳に突然、極寒の流氷を思わせるほどの冷たさが宿った。冷たい花を抱えたまま、口元に妖しげな三日月を刻む姿は息を飲むほど美しく、そして言いしれない恐怖を覚える。
その姿はまるで絵画に描かれた、オデュッセウスに杯を差し出す魔女 キルケ―のようだ。

「父親は、家には帰ってこない」
かつて伊吹は、奈々や光にそう話した。でも、実はそれは大きな嘘だ。
階段を上り2階の奥にある、ひと際広い1部屋。およそ20畳ほどあるその部屋は、応接間と書斎が1つになっていて、間仕切り代わりの扉を隔てて寝室がある。
日本家屋らしいこの家の外観とは不釣り合いな、洋風な内装と装飾品。和と洋が奇妙に組み合わさった不協和音のような雰囲気が、伊吹はとても嫌いだった。その部屋が、父親が主に生活をしている部屋だ。仕事が終われば、必ずここに帰ってくる。“後妻”になるであろう女が住む、あの部屋に。

『ここのような離れがない家なら、さぞかし居心地も悪くなりそうね。』

凍り付きそうな言葉を吐き捨てて、伊吹は背にしていた棚の引き出しからぐしゃぐしゃになったタバコを取り出した。いつか、龍二がアトリエに置き忘れていった“わかば”だ。そこから1本タバコを取り出すと、マッチを擦って火をつける。煙をくゆらせながらどこか遠くを見つめるその姿は、見知っているはずの姿でもどこまでも妖艶でゾクリとする。

『ここの家は、どうするか聞いてる?』

『母屋は、宿舎として海軍に使ってもらう事にしたとの事です。このアトリエはおそらく、このままかと。』

『それはそうよね。私名義の建物なんだから、当然。』

冷徹な視線が空気を切り裂いた。毒々しい紅を思わせる低い声色と、棘を剥き出しにした言葉尻は、さながら砂漠に咲く1輪の薔薇のようだ。伊吹にまとわりつくような紫煙も、全てを内に秘めた伊吹の妖艶さを色濃くするには十分すぎる。
しばらく紫煙をくゆらせながら、伊吹は冷酷さが滲む視線を宙で遊ばせた。そして、水を張った筆洗に吸い殻を遊ばせるように浮かべると、そっと瞳を閉じてしばらく何か考えるそぶりを見せた。

『それならミツさんに1つ、お願いがあるわ。』

凍える夢から覚めるように開いた瞳には、いつものような温かさが戻ってきているようだった。
いつものように優美に唇に弧を描きながら、視線をミツに投げかける。

『私の代わりに、奈々ちゃんの事をお願い出来るかしら?このアトリエはずっと使ってもらって構わないし、必要なお金は私が送るわ。』

『分かりました。私で良ければ。』

『あら、ミツさんにしか頼めないわよ。…私の女神を、守る仕事なんて。』

そう言ってミツに微笑みかけるその表情は、一瞬幼い時の伊吹を思い出すほどに無邪気で、ミツはその姿にふと安堵が浮かんで目を細めた。どんな境遇に置かれても、そんな少女の一面を持ち続けてくれる事がミツにとって救いだった。

『破天荒な女神も、いたものですね。』

『“東洋のマタハリ”だとか“満州のジャンヌダルク”と呼ばれた川島芳子だって、破天荒な英雄だわ。…案外、女神はそういう姿なのかもしれないわよ。』

『それなら、お嬢様も例外ではありませんね。』

『そうかしら?』

そう言って目を合わせると、2人は曇天の隙間に見えた晴れ間のように破顔して笑いあった。

この戦争は、負けるのだと奈々は言った。
そうだとしたらこれから先、誰か他にも命を落とす可能性だってある。
悪化の一途をたどる運命は、奈々の小さな背中にどれだけのものを背負わせるのだろう?
でもきっと、どんなに歴史の重圧に押しつぶされそうになっても、傷だらけになったとしても、奈々はドラクロワの絵の女神のように真っすぐに前を見て突き進むだろう。
仲間の屍を越えなければならなくなっても、揺らがない志を貫いて堂々と右手を突き上げて先陣を切るだろう。その生き様こそが、女神を照らす光彩なのだ。
憧れの目で見続けた【民衆を導く自由の女神】は今、自分の血を引く実像を伴って絵画の中から飛び出して、確かにこの狂った時代を生きている。
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