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16.I’m with you
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十一月の、ある休日の朝、リックの腹の上に、突然その物体は、乗っかって来た。
そう、まさしく、どん、と、乗っかって来た。
リックが薄目を開けて、頭をもたげると、レティシアお手製の、青い薔薇模様のワンピースを着て、髪に青いリボンをつけた、一歳半になるジョセフィンが、母親そっくりのヘーゼルの瞳で、じいっ、とリックを見つめていた。
「ジョー・・・」
「とーたん、おっき」
ジョーは、回らない口で、そう告げた。
「ジョー、頼む、寝かせてくれ」
「だめ、とーたん、おっき、おっき」
ジョーは、リックの腹の上で、その小さな身体を、ゆさゆさと揺らし始めた。
「ああ、ジョー、やっぱり、ここにいたのね。本当に、すばしっこいこと。メアリ、大丈夫、ジョーは、寝室にいたわ」
階段を上がって来たレティシアは、寝室にようやくその姿をみつけて、階下で、見当たらなくなったジョーを、あたふたと捜す家政婦メアリに、そう声をかけた。
結婚から丸四年と数カ月が過ぎ、三十歳になったレティシアは、妻としての落ち着きを備えつつ、一人娘ジョーの母親として充実した日々を送っていた。
「さあ、ジョー、下に降りましょう。お父さんは昨日遅くまでお仕事だったから、もう少し休ませてあげましょうね」
と、レティシアは、ジョーを抱き上げた。
途端に、ジョーはぐずり始めた。
「いや、ジョー、いや」
ジョーは、顔をぐしゃぐしゃにして、泣き始めた。
「さあ、ジョー、下で絵本を読みましょうか」
「ジョー、いや、いや、いやあ、とーたん、とーたん」
こうなると、手を付けられなくなるのは、いつものことだった。
レティシアの腕の中で、ジョーは、泣き叫び始めた。
「・・・いい、レティシア。俺も、下へ降りる」
「でも、リック、昨夜は遅かったでしょう。お休みの日ぐらい、ゆっくり眠った方がいいわ」
「ジョーのせいで、もうすっかり眼が覚めた」
ジョーは、もぞもぞと身体を動かして、レティシアの腕の中から抜け出ると、ベッドに起き上がったリックに、ちょこんと、寄りかかって来た。
「じゃあ、私、先に下に降りて、メアリと朝食の支度をしています」
と、レティシアは、ジョーをリックに託して、寝室を離れた。
「とーたん、とーたん」
と、ジョーは何度も繰り返しながら、リックの口元へその小さな手を伸ばして、指で、リックの唇に触れようとする。
その指は、ふっくらとして、生暖かかった。
まったく。
リックは、そう思いながら、その小さな指に噛みつくふりをした。
ジョーは、リックが遊んでくれると知って、あふふと、声を上げて笑うと、何度も、何度も、飽きもせず、リックの唇に触れようとしてくる。
さっきまで、大泣きして、まだ、その瞳には、涙が浮かんでいるのに、真剣にリックの唇と格闘していた。
リックが、もう一度、そのふくよかな指にかみつくふりをすると、ジョーは満面の笑みできゃっ、きゃっ、と声を上げた。
リックは、知らなかった。
子供がこれほど、聞き分けがなく、やっかいで、不可解な存在であると言うことを。
ジョーは、リックの唇をこじ開けようと、とうとう、その小さな指を差し込んできた。
まったく、やっかいな奴め。
リックは、ジョーの攻撃をかわすと、ぎゅっと抱きしめて、幼子の甘い匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。
リックは、知らなかった。
我が子がこんなにも愛おしく、かけがえのない存在であることを。
結婚三年を迎えようとする五月に生まれた待望の女の子、ジョセフィン・スペンサーは、母親譲りのヘーゼルの瞳と、ダークブロンドの美しい髪をしていた。
雪のように白い肌と、薔薇色の頬の持ち主は、それだけで、大人たちの心を掴んだ。
マクファーレンの家に、女の子が生まれたことがなかったこともあって、珍しさとその愛らしさに、大人たちは、みな沸き立った。
そして、ジョーは、大人たちの心だけでなく、フランクとケイティの四人の息子たち、八歳のアンディ、デイヴ、じきに六歳を迎えようとしていたギル、ウォルトの心をも、鷲掴みにした。
彼らは、ジョーが生まれたことで、自分より年下の女の子というものを、初めて意識し、守ってやるべき存在というものを、はっきりと認識した。
ジョーは、生まれながらにして、四人の小さな紳士を手に入れたのだった。
が、ジョーのその性格は、見た目とはずいぶん違ったものだった。
ジョーは、好奇心旺盛で、気が強く、頑固で、癇癪持ちだった。
成長と共に、次第に個性がはっきりしてきて、歩くことができるようになると、眼が覚めている間は、片時も、じっとしているということがなかった。
せっせと、家の中を歩き回っては、興味を抱いたもの、例えば、時計、アイロン、ランプなどに触れ、どうかすると、口に入れようとするので、ジョーも、メアリも片時も眼を離すことが出来なかった。
そして、気に入らないことがあると、どう宥めすかそうと、聞き入れず、ひどい癇癪を起して、レティシアを困らせた。
けれども、レティシアは、この一筋縄ではいかない娘を、眼の中に入れても痛くないほどの可愛がりようで、ジョー、ジョー、と、毎日その小さな姿を追いかけては、細やかな世話を焼いていた。
ジョーが、ああもひどい癇癪持ちなのは、レティシアが甘やかせすぎているからではないのか、と思う時もあったが、リックも決してレティシアを非難はできなかった。
ジョーが、回らない口で、とーたん、とーたんと言いながら、抱っこを求めて、笑顔で腕を伸ばしてくると、言いようのない愛おしさで、胸がいっぱいになった。
ジョーが、大きくなって、何か悪さをしでかした時、俺は、ちゃんと、叱ってやることができるだろうか。
ジョーのことで、リックにとって、今、一番の心配事といえば、それだった。
リックは、正直、全く自信がなかった。
リックが身支度を済ませ、ジョーを抱いて、階下に降りると、ちょうどダイニングにリックの朝食の支度が整ったところだった。
「嬢ちゃまは、もう少し、じっとしていてくれないと、メアリは、棒のように痩せ細ります」
メアリは、リックの腕に抱かれたジョーの顔を見ると、さきほどジョーを散々探し回った件で、苦情を言った。
五十を過ぎた中年の、通いの家政婦メアリは、気のいい女だったが、誰が見てもふくよかすぎる体形で、メアリの発言を耳にしたリックは、本当に少しは痩せた方がいいんじゃないか、思わずそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
リックは、ダイニングの椅子に座ると、一口、ミルクを口にしてから、たっぷりとバターがのったトーストに、手を付けた。
それは、もちろん、ギャレット食料品店の、上質な小麦粉を使ったパンだった。
「昨夜は、随分遅かったわね」
傍らで、レティシアが、ジョーを抱き上げながら、リックに、そう声をかけて来た。
今しがた、リックに十分遊んでもらったせいか、レティシアの腕の中で、珍しくジョーは大人しかった。
「車輪の強度を上げようとしているんだけど、なかなかうまくいかない」
「それは、タリスからの、新しい路線で採用される蒸気機関車?」
「その通りだ。まあ、当分、あちこちで、新たな路線が生まれるだろう。一度、その速さを知ったら、もう馬車の時代には戻れない。おかげで大忙しだ」
「ありがたいことだけれど、あなたの身体が心配だわ」
「昔の忙しさとは、比べ物にならないな。初めて、蒸気機関車が走った時は、こんなものじゃなかった」
「懐かしいわ。もう四年前になるのね」
「そう、あの頃は、お前の届けてくれる昼飯が、励みになった」
「大げさだわ、リック」
「訂正する。今も励みになってる」
そのリックの言葉に、レティシアは、そっと微笑みで応えた。
結婚するまで、レティシアがホイットマン製造会社に届けた昼食は、今は、朝、家から持っていくようになっていた。
そして、セルマの遺言通り、ブリストンの東部に拓けた、新たな住宅地に、リックは、結婚を機に、結婚生活を送るにふさわしい家を買った。
五つの大きなベッドルームを備える、庭付き二階建て、煉瓦造りの一軒家は、親子三人暮らしには、十分な広さで、また、ブリストンの市街へも徒歩圏内の便利な立地だった。
「今日は、これから何か予定が?」
リックは、朝食を食べ終えて、メアリの注いだ、お茶に口をつけながら、レティシアに、そう尋ねた。
「今日は、もうすぐしたら、ブリストンのフェスティバルへ出かけようと思うの」
「フェスティバル?・・・ああ、そうか、今日は、ブリストンの秋のフェスティバルか」
「そうよ。今年も、ローズがアダムと、催しをしているから、教会広場に行ったあと、覗きに行こうと思って」
五年前に始まったギャレット食料品店の、秋のフェスティバルの催しは、あれから毎年続く、ローズの店の一大イベントとなっていた。
この五年で、例の上等な小麦粉を使った、素晴らしいパンの味は、ブリストンの市民に徐々に浸透し始めていた。
フェスティバルの今日は、その小麦粉を使って、ダファディルの料理長アダムが焼き上げたパンが、ギャレット食料品店で、振る舞われていて、店内の上等な品々も、特別割引で販売されるとあって、今日一日は、息つく暇もない、ローズと、ジミーに違いなかった。
「とーたん、とーたん」
お茶を飲み終えたリックに、ジョーは、早速腕を伸ばす。
「あなたも、一緒に行く?」
と、レティシアは、自分の腕から、近頃また重くなったジョーをリックに手渡しながら、そう尋ねた。
「俺?さあ、俺は、どうするかな。ブリストンのフェスティバルなんか、ガキの頃から見飽きているしな」
「とーたん、いっしょ、いっしょ。とーたん」
「よくわかっているのね、ジョー。リック、ジョーのお誘いを、断れるの?」
レティシアは、可笑しそうに笑った。
リックは、腕の中の、母親譲りの、けれども、母親とは違う、強気なヘーゼルの瞳を、見つめた。
「とーたん、いっしょ!」
薔薇色の、ふくよかな頬のジョーは、眉間にしわを寄せて、決めつけるように、言った。
俺は、とんでもない女に捕まった。
リックは、心底そう思った。
俺は、これからずっと、この小生意気な女に翻弄され続けるのか?
リックは、その勝気なヘーゼルの瞳を睨みつけてやった。
・・・まあ、いい。
それも、多分、悪くない。
リックは、ジョーの腹を、くすぐった。
ジョーは、きゃあっ、と、歓声を上げて、笑いだした。
「とーたん、ごめんなさい、かーたん、かーたん」
屈託なく笑い転げながら、レティシアに助けを求める、最高に愛らしい宝物を、リックはしばらく放さなかった。
そう、まさしく、どん、と、乗っかって来た。
リックが薄目を開けて、頭をもたげると、レティシアお手製の、青い薔薇模様のワンピースを着て、髪に青いリボンをつけた、一歳半になるジョセフィンが、母親そっくりのヘーゼルの瞳で、じいっ、とリックを見つめていた。
「ジョー・・・」
「とーたん、おっき」
ジョーは、回らない口で、そう告げた。
「ジョー、頼む、寝かせてくれ」
「だめ、とーたん、おっき、おっき」
ジョーは、リックの腹の上で、その小さな身体を、ゆさゆさと揺らし始めた。
「ああ、ジョー、やっぱり、ここにいたのね。本当に、すばしっこいこと。メアリ、大丈夫、ジョーは、寝室にいたわ」
階段を上がって来たレティシアは、寝室にようやくその姿をみつけて、階下で、見当たらなくなったジョーを、あたふたと捜す家政婦メアリに、そう声をかけた。
結婚から丸四年と数カ月が過ぎ、三十歳になったレティシアは、妻としての落ち着きを備えつつ、一人娘ジョーの母親として充実した日々を送っていた。
「さあ、ジョー、下に降りましょう。お父さんは昨日遅くまでお仕事だったから、もう少し休ませてあげましょうね」
と、レティシアは、ジョーを抱き上げた。
途端に、ジョーはぐずり始めた。
「いや、ジョー、いや」
ジョーは、顔をぐしゃぐしゃにして、泣き始めた。
「さあ、ジョー、下で絵本を読みましょうか」
「ジョー、いや、いや、いやあ、とーたん、とーたん」
こうなると、手を付けられなくなるのは、いつものことだった。
レティシアの腕の中で、ジョーは、泣き叫び始めた。
「・・・いい、レティシア。俺も、下へ降りる」
「でも、リック、昨夜は遅かったでしょう。お休みの日ぐらい、ゆっくり眠った方がいいわ」
「ジョーのせいで、もうすっかり眼が覚めた」
ジョーは、もぞもぞと身体を動かして、レティシアの腕の中から抜け出ると、ベッドに起き上がったリックに、ちょこんと、寄りかかって来た。
「じゃあ、私、先に下に降りて、メアリと朝食の支度をしています」
と、レティシアは、ジョーをリックに託して、寝室を離れた。
「とーたん、とーたん」
と、ジョーは何度も繰り返しながら、リックの口元へその小さな手を伸ばして、指で、リックの唇に触れようとする。
その指は、ふっくらとして、生暖かかった。
まったく。
リックは、そう思いながら、その小さな指に噛みつくふりをした。
ジョーは、リックが遊んでくれると知って、あふふと、声を上げて笑うと、何度も、何度も、飽きもせず、リックの唇に触れようとしてくる。
さっきまで、大泣きして、まだ、その瞳には、涙が浮かんでいるのに、真剣にリックの唇と格闘していた。
リックが、もう一度、そのふくよかな指にかみつくふりをすると、ジョーは満面の笑みできゃっ、きゃっ、と声を上げた。
リックは、知らなかった。
子供がこれほど、聞き分けがなく、やっかいで、不可解な存在であると言うことを。
ジョーは、リックの唇をこじ開けようと、とうとう、その小さな指を差し込んできた。
まったく、やっかいな奴め。
リックは、ジョーの攻撃をかわすと、ぎゅっと抱きしめて、幼子の甘い匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。
リックは、知らなかった。
我が子がこんなにも愛おしく、かけがえのない存在であることを。
結婚三年を迎えようとする五月に生まれた待望の女の子、ジョセフィン・スペンサーは、母親譲りのヘーゼルの瞳と、ダークブロンドの美しい髪をしていた。
雪のように白い肌と、薔薇色の頬の持ち主は、それだけで、大人たちの心を掴んだ。
マクファーレンの家に、女の子が生まれたことがなかったこともあって、珍しさとその愛らしさに、大人たちは、みな沸き立った。
そして、ジョーは、大人たちの心だけでなく、フランクとケイティの四人の息子たち、八歳のアンディ、デイヴ、じきに六歳を迎えようとしていたギル、ウォルトの心をも、鷲掴みにした。
彼らは、ジョーが生まれたことで、自分より年下の女の子というものを、初めて意識し、守ってやるべき存在というものを、はっきりと認識した。
ジョーは、生まれながらにして、四人の小さな紳士を手に入れたのだった。
が、ジョーのその性格は、見た目とはずいぶん違ったものだった。
ジョーは、好奇心旺盛で、気が強く、頑固で、癇癪持ちだった。
成長と共に、次第に個性がはっきりしてきて、歩くことができるようになると、眼が覚めている間は、片時も、じっとしているということがなかった。
せっせと、家の中を歩き回っては、興味を抱いたもの、例えば、時計、アイロン、ランプなどに触れ、どうかすると、口に入れようとするので、ジョーも、メアリも片時も眼を離すことが出来なかった。
そして、気に入らないことがあると、どう宥めすかそうと、聞き入れず、ひどい癇癪を起して、レティシアを困らせた。
けれども、レティシアは、この一筋縄ではいかない娘を、眼の中に入れても痛くないほどの可愛がりようで、ジョー、ジョー、と、毎日その小さな姿を追いかけては、細やかな世話を焼いていた。
ジョーが、ああもひどい癇癪持ちなのは、レティシアが甘やかせすぎているからではないのか、と思う時もあったが、リックも決してレティシアを非難はできなかった。
ジョーが、回らない口で、とーたん、とーたんと言いながら、抱っこを求めて、笑顔で腕を伸ばしてくると、言いようのない愛おしさで、胸がいっぱいになった。
ジョーが、大きくなって、何か悪さをしでかした時、俺は、ちゃんと、叱ってやることができるだろうか。
ジョーのことで、リックにとって、今、一番の心配事といえば、それだった。
リックは、正直、全く自信がなかった。
リックが身支度を済ませ、ジョーを抱いて、階下に降りると、ちょうどダイニングにリックの朝食の支度が整ったところだった。
「嬢ちゃまは、もう少し、じっとしていてくれないと、メアリは、棒のように痩せ細ります」
メアリは、リックの腕に抱かれたジョーの顔を見ると、さきほどジョーを散々探し回った件で、苦情を言った。
五十を過ぎた中年の、通いの家政婦メアリは、気のいい女だったが、誰が見てもふくよかすぎる体形で、メアリの発言を耳にしたリックは、本当に少しは痩せた方がいいんじゃないか、思わずそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
リックは、ダイニングの椅子に座ると、一口、ミルクを口にしてから、たっぷりとバターがのったトーストに、手を付けた。
それは、もちろん、ギャレット食料品店の、上質な小麦粉を使ったパンだった。
「昨夜は、随分遅かったわね」
傍らで、レティシアが、ジョーを抱き上げながら、リックに、そう声をかけて来た。
今しがた、リックに十分遊んでもらったせいか、レティシアの腕の中で、珍しくジョーは大人しかった。
「車輪の強度を上げようとしているんだけど、なかなかうまくいかない」
「それは、タリスからの、新しい路線で採用される蒸気機関車?」
「その通りだ。まあ、当分、あちこちで、新たな路線が生まれるだろう。一度、その速さを知ったら、もう馬車の時代には戻れない。おかげで大忙しだ」
「ありがたいことだけれど、あなたの身体が心配だわ」
「昔の忙しさとは、比べ物にならないな。初めて、蒸気機関車が走った時は、こんなものじゃなかった」
「懐かしいわ。もう四年前になるのね」
「そう、あの頃は、お前の届けてくれる昼飯が、励みになった」
「大げさだわ、リック」
「訂正する。今も励みになってる」
そのリックの言葉に、レティシアは、そっと微笑みで応えた。
結婚するまで、レティシアがホイットマン製造会社に届けた昼食は、今は、朝、家から持っていくようになっていた。
そして、セルマの遺言通り、ブリストンの東部に拓けた、新たな住宅地に、リックは、結婚を機に、結婚生活を送るにふさわしい家を買った。
五つの大きなベッドルームを備える、庭付き二階建て、煉瓦造りの一軒家は、親子三人暮らしには、十分な広さで、また、ブリストンの市街へも徒歩圏内の便利な立地だった。
「今日は、これから何か予定が?」
リックは、朝食を食べ終えて、メアリの注いだ、お茶に口をつけながら、レティシアに、そう尋ねた。
「今日は、もうすぐしたら、ブリストンのフェスティバルへ出かけようと思うの」
「フェスティバル?・・・ああ、そうか、今日は、ブリストンの秋のフェスティバルか」
「そうよ。今年も、ローズがアダムと、催しをしているから、教会広場に行ったあと、覗きに行こうと思って」
五年前に始まったギャレット食料品店の、秋のフェスティバルの催しは、あれから毎年続く、ローズの店の一大イベントとなっていた。
この五年で、例の上等な小麦粉を使った、素晴らしいパンの味は、ブリストンの市民に徐々に浸透し始めていた。
フェスティバルの今日は、その小麦粉を使って、ダファディルの料理長アダムが焼き上げたパンが、ギャレット食料品店で、振る舞われていて、店内の上等な品々も、特別割引で販売されるとあって、今日一日は、息つく暇もない、ローズと、ジミーに違いなかった。
「とーたん、とーたん」
お茶を飲み終えたリックに、ジョーは、早速腕を伸ばす。
「あなたも、一緒に行く?」
と、レティシアは、自分の腕から、近頃また重くなったジョーをリックに手渡しながら、そう尋ねた。
「俺?さあ、俺は、どうするかな。ブリストンのフェスティバルなんか、ガキの頃から見飽きているしな」
「とーたん、いっしょ、いっしょ。とーたん」
「よくわかっているのね、ジョー。リック、ジョーのお誘いを、断れるの?」
レティシアは、可笑しそうに笑った。
リックは、腕の中の、母親譲りの、けれども、母親とは違う、強気なヘーゼルの瞳を、見つめた。
「とーたん、いっしょ!」
薔薇色の、ふくよかな頬のジョーは、眉間にしわを寄せて、決めつけるように、言った。
俺は、とんでもない女に捕まった。
リックは、心底そう思った。
俺は、これからずっと、この小生意気な女に翻弄され続けるのか?
リックは、その勝気なヘーゼルの瞳を睨みつけてやった。
・・・まあ、いい。
それも、多分、悪くない。
リックは、ジョーの腹を、くすぐった。
ジョーは、きゃあっ、と、歓声を上げて、笑いだした。
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