22 / 83
7.女中の秘密
1
しおりを挟む
ハリーは、気さくに話しかけたり、他愛もない話で和ませてくれたりして、たちまち皆に溶け込んだ。
フィリップの話を親身に聞いてやったり、時には大人の視点から、適切な助言をしてやったりしていた。
そんなハリーに、フィリップたちの方も、すぐに親しみを持った。
驚いたことに、ハリーは昼食の時、アンヌと、とある高名な音楽家の演奏について、議論していた。
しかもその議論は、かなり詳細な点に及んでいて、アンヌにそういった教養があるのは不思議ではないとしても、ハリーのその見識の深さには、一同が感心した。
アンジェラやレティシアは、何かと冗談を言ってはふたりを笑わせて、楽しくさせてくれるハリーのことが、すぐ好きになった。
リックにとっても、ハリーの存在は大きかった。
リックは、昨日までに比べて、自分が幾分リラックスしていることに気づいた。
ひとりで、四人を守らなくてはならないという緊張が、少なからずあったのだと、気付かされた。
穏やかに話を聞き、時に必要なアドバイスを的確にしてくれる年長者の存在は、思った以上に、心強かった。
そして、もう一つ、リックとアンヌの間にも、微妙な変化が見られた。
それは、決して和解といえるものではなかったが、これまでの敵意、無視、軽蔑という険悪な関係から、互いに相容れないことを理解した上で、互いの立場を尊重するという、友好的距離感を確認した、というべきであったろうか。
いずれにせよ、旅はまだ続く。
お互いにいがみ合っていては、余計な神経を使ったし、周りの者も気詰まりであったから、昨日の一件は、ちょっとした騒ぎには違いなかったが、良いきっかけになったことは、確かだった。
夕刻、リックたちは首都タリスに入った。
レティシアは、今夜泊まるタヴァンの入り口と部屋を行き来し、リックとハリーが馬から下ろした荷物を、てきぱきと運び込んでいた。
リックは、そちらをちらりと眺めながら、それにしても、良く身体の動く奴だな、と思った。
毎朝、夜が明けないうちに起きて、自分の身の回りのことを手早く終えて、アンヌとアンジェラの身の回りの世話、食事の支度、荷物の準備、それらを終えたら、すぐに出発し、昼の小休止と馬の餌の時間以外は、ほとんど一日中、馬上にいた。
昼の小休止の時も、見ていれば、アンヌやアンジェラの食事の世話を細やかにし、タヴァンに到着したと思えば、休む間もなく、今のように、荷物を運び込んでいる。
男たちは、タヴァンの食堂で、適当に夕飯を済ましたが、貴族の娘が、そういったところで、食事を取るのは、好ましいものではなかった。
そのため、タヴァンに着いてからも、アンヌやアンジェラの食事を下の食堂から部屋に運び、食器を下げ、就寝の仕度をし、衣服の手入れをした。
リックは、レティシアが一体いつ夕飯を食べて、寝ているのか、分からなかった。
しかも、それらのきりのない仕事を手際良くこなしつつ、いつも朗らかだった。
誰かが、用があって、レティシアを呼ぶと、はい、すぐに参ります、と、明るい声が返って来た。
今も、タリスのタヴァンに到着すると、リックとハリーが馬上から下ろした重い荷物をてきぱき運ぶのだが、いつもと違うのは、少しその表情が険しいところだった。
それは、アンジェラの具合がよくないからだった。
タリスに着く少し前から、胸の痛みを訴えていた。
今日中に、何とかタリスまでは到着したいと、本人も不調に耐えたものの、タリスのタヴァンに着くと、もうぐったりして、すぐに休ませなければならなかった。
アンジェラのことは、アンヌとフィリップに任せ、レティシアは、荷物を運び込み終えたら、ともかく医者を呼びに行くつもりだった。
タリスの今夜の宿は、街のはずれにある、リックの馴染みの、家族で経営するこじんまりとしたタヴァンだった。
レティシアは、そういったタヴァンの方が、いろいろと尋ねやすく、今も、タヴァンの主人に、近くの医者をすぐに教えてもらうことが出来て、有り難かった。
「それにしても、よく働く娘だね」
タヴァンの女将が、到着してから、休む間もなく、階段を上り下りするレティシアを眺めて、リックに言った。
「全くだ」
リックも、その動きを感心して眺めた。
そうやって忙しく働きながらも、レティシアの動きは尖がったところがなく、柔らかだった。
やっぱり今、リックが呼び止めたとしても、きっと、いつもの優しい笑顔で、はい、すぐに参ります、と言ったことだろう。
「レティシア、医者を呼びに行くんだろう。ここはもういいから、暗くなる前に、行っておいで」
ハリーが、そうレティシアに声をかけた。
「とても助かるわ。それじゃあ、私、急いで行って来ます」
と、住所を書いてもらった紙を手に持って、レティシアは医者を呼びに行こうとした。
「転ばないように気をつけて」
「ありがとう、ハリー」
レティシアは、笑顔を向けた。
「行って来てやろうか?」
レティシアは、驚いたように振り返って、声の主であるリックを見つめた。
リックから、そのような優しい気遣いを受けるとは、思っていなかった。
リックは、いつもレティシアに無愛想だった。
何故なのか、はっきりとした理由はわからなかったけれど、レティシアはリックから嫌われていると思っていた。
左肩の烙印を見られてからは、嫌厭されたとしても仕方のないことだと、諦めていた。
だから、その優しい気遣いを、とても嬉しく思った。
「いいえ、いいの。まだ、馬を預けに行かなければならないのでしょう?お気遣い、本当にありがとう、リック」
レティシアは、リックの瞳を見つめて、嬉しそうに笑った。
そうして、振り返って、足を踏み出そうとした時、 何かに蹴つまずいて、危うく転びそうになった。
そのレティシアを、間一髪、リックが支えた。
リックが腕を回したレティシアの腰は、思ったよりずっと華奢だった。
ぐっと目の前に近寄った薄紅色の頬と、白いうなじから放たれる甘やかな色香に、リックは、一瞬心を奪われた。
「ごめんなさい、リック、私ったら…」
と、レティシアは、恥ずかしそうに照れ笑いをした。
けれどもその後、ふたりで足元を見て、目を丸くした。
丸々と太った豚がいたのだ。
豚は、ふたりを見て、ブヒッと、声を上げた。
「豚…?」
リックは、レティシアと声を揃えた。
「ダメ、ダメ、そっち行っちゃダメだって、エース」
五、六歳くらいの男の子が、慌てて、豚を追いかけて来た。
「坊やの豚?」
「坊やじゃないや、俺にはティムって言う名前があるんだ」
「ごめんなさい、ティム。でも、とても驚いたのよ。こんなところで、豚に蹴つまずくなんて、思いもしなかったの。この子は、あなたの豚なの?」
レティシアは、おかしそうに笑った。
「違うよ。このタヴァンで飼ってた豚さ。今から、うちに連れて帰るんだ。ここの主人に頼まれて、明日の朝一番で、父ちゃんが絞めるのさ。俺も手伝うんだぞ」
ティムは、自分も手伝うということを、自慢するように言った。
ティムの父親は、街のはずれで、豚を捌く仕事を生業にしていた。
「まあ…、可哀想に」
「女って、すぐそういうこと言うんだよ。だったら、ベーコン食わなきゃいいんだ」
「ごめんなさい…」
「ほら、レティシア、早く行った方がいいぞ」
ハリーが、夕暮れ迫る空を指差した。
「あら、そうね、急がないと。ティム、お父さんのお手伝い、頑張ってね」
レティシアは、花のように優しく柔らかな微笑みを向けると、急いで馬車道を渡って行った。
「さあ、俺たちも、早いとこ片付けちまおう」
ハリーは、駆けていくレティシアの、後ろ姿を眺めるリックの肩をポンと叩き、これは、惚れるなって言う方が無理だな、そう思った。
レティシアは、急いで馬車道を渡ると、住所を書いた紙を見ようと、立ち止まった。
すると、前を良く見ていなかったせいもあって、歩いて来た紳士と、勢い良くぶつかって、尻もちをついてしまった。
「あら…、ごめんなさい」
レティシアは、急いで立ち上がりながら、今日は、豚につまづいたり、人にぶつかったりして、良く転ぶ日だわ、と何だか、おかしくなった。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
「ええ、大丈…夫…」
紳士の顏は、まだ見ていなかった。
けれども、その声を聞いて、レティシアの頭の中で、何かが弾け飛んだ。
顔を見ずとも、それが誰なのか、すぐに分かった。
笑顔は凍りつき、鼓動が早くなるのが分かった。
「お嬢さん、お怪我は?」
紳士は、レティシアの手を取って助け起こし、にこやかに微笑んだ。
レティシアは、答えなかった。
そして、紳士の顏を見ることもしなかった。
「お気をつけて、お嬢さん。また、いずれ」
紳士はそう言って、帽子に手を掛けて、会釈をすると、そのまま立ち去った。
何故…、今頃になって…。
レティシアは、目眩を覚えた。
壁に寄りかからなければ、立ってはいられなかった。
レティシアは、深く動揺していた。
だから、その時になってようやく、紳士が、レティシアの手の中に、紙片を残したことに気づいた。
震える指で、その紙片を開くと、待ち合わせの時間と場所が記されていた。
アンジェラを診察した医者は、脈が乱れていることを指摘した。
「これまでに、胸の痛みを感じたことは?」
医者がそう尋ねると、アンジェラはうなだれた。
「あるのですね?」
「はい…」
傍にいたフィリップは、
「今まで一度も、そんなことを言わなかっただろう?」
驚きを隠せず、ベッドの上の妹の顔を見つめた。
アンヌは黙って、医者の診立てを聞いていた 。
アンジェラは、半年ほど前から、時折、胸が痛むことがあるのだと、告げた。
けれども、ここ数週間は、落ちついていた。
ところが今日突然、鋭い痛みが、胸を絞めつけた。
レティシアは、アンジェラの胸の痛みのことを知っていた。
そして、アンジェラから、堅く口止めされていた。
もうこれ以上、お兄様に、心配はかけたくないのだと。
医者はともかく、安静を告げた。
体調が落ち着くまでは、無理はいけないと、言った。
レティシアは、診察を終えた医者と共に、部屋を出た。
部屋の外には、アンジェラを心配したハリーとリックが、立っていた。
医者は、手短にもう一度、リックとハリーに、アンジェラの容態を説明してから、帰ろうとした。
その医者を、レティシアは、送って行くと言う。
「これから?」
ハリーは、驚いた。
外は、もう真っ暗だった。
医者は男だし、一人でも大丈夫だろうし、事実、医者も一人で大丈夫だと言った。
医者を送った帰り道、ひとりで帰ってくるレティシアの方が、よっぽど心配だった。
けれども、レティシアは、どうしても行くと言い張った。
それだったら、代わりに俺が行こうと、ハリーが提案しても、頑なに首を振った。
ハリーも、リックも、当惑した。
レティシアは、どう言っても聞き入れず、半ば、押し切るように、強引に医者について出て行った。
レティシアの顔は、青ざめていた。
それは、アンジェラの容態を心配したせいかもしれなかったが、つい先ほど、花のような柔らな笑顔で、馬車道を渡って行ったレティシアとは、別人のようだった。
フィリップの話を親身に聞いてやったり、時には大人の視点から、適切な助言をしてやったりしていた。
そんなハリーに、フィリップたちの方も、すぐに親しみを持った。
驚いたことに、ハリーは昼食の時、アンヌと、とある高名な音楽家の演奏について、議論していた。
しかもその議論は、かなり詳細な点に及んでいて、アンヌにそういった教養があるのは不思議ではないとしても、ハリーのその見識の深さには、一同が感心した。
アンジェラやレティシアは、何かと冗談を言ってはふたりを笑わせて、楽しくさせてくれるハリーのことが、すぐ好きになった。
リックにとっても、ハリーの存在は大きかった。
リックは、昨日までに比べて、自分が幾分リラックスしていることに気づいた。
ひとりで、四人を守らなくてはならないという緊張が、少なからずあったのだと、気付かされた。
穏やかに話を聞き、時に必要なアドバイスを的確にしてくれる年長者の存在は、思った以上に、心強かった。
そして、もう一つ、リックとアンヌの間にも、微妙な変化が見られた。
それは、決して和解といえるものではなかったが、これまでの敵意、無視、軽蔑という険悪な関係から、互いに相容れないことを理解した上で、互いの立場を尊重するという、友好的距離感を確認した、というべきであったろうか。
いずれにせよ、旅はまだ続く。
お互いにいがみ合っていては、余計な神経を使ったし、周りの者も気詰まりであったから、昨日の一件は、ちょっとした騒ぎには違いなかったが、良いきっかけになったことは、確かだった。
夕刻、リックたちは首都タリスに入った。
レティシアは、今夜泊まるタヴァンの入り口と部屋を行き来し、リックとハリーが馬から下ろした荷物を、てきぱきと運び込んでいた。
リックは、そちらをちらりと眺めながら、それにしても、良く身体の動く奴だな、と思った。
毎朝、夜が明けないうちに起きて、自分の身の回りのことを手早く終えて、アンヌとアンジェラの身の回りの世話、食事の支度、荷物の準備、それらを終えたら、すぐに出発し、昼の小休止と馬の餌の時間以外は、ほとんど一日中、馬上にいた。
昼の小休止の時も、見ていれば、アンヌやアンジェラの食事の世話を細やかにし、タヴァンに到着したと思えば、休む間もなく、今のように、荷物を運び込んでいる。
男たちは、タヴァンの食堂で、適当に夕飯を済ましたが、貴族の娘が、そういったところで、食事を取るのは、好ましいものではなかった。
そのため、タヴァンに着いてからも、アンヌやアンジェラの食事を下の食堂から部屋に運び、食器を下げ、就寝の仕度をし、衣服の手入れをした。
リックは、レティシアが一体いつ夕飯を食べて、寝ているのか、分からなかった。
しかも、それらのきりのない仕事を手際良くこなしつつ、いつも朗らかだった。
誰かが、用があって、レティシアを呼ぶと、はい、すぐに参ります、と、明るい声が返って来た。
今も、タリスのタヴァンに到着すると、リックとハリーが馬上から下ろした重い荷物をてきぱき運ぶのだが、いつもと違うのは、少しその表情が険しいところだった。
それは、アンジェラの具合がよくないからだった。
タリスに着く少し前から、胸の痛みを訴えていた。
今日中に、何とかタリスまでは到着したいと、本人も不調に耐えたものの、タリスのタヴァンに着くと、もうぐったりして、すぐに休ませなければならなかった。
アンジェラのことは、アンヌとフィリップに任せ、レティシアは、荷物を運び込み終えたら、ともかく医者を呼びに行くつもりだった。
タリスの今夜の宿は、街のはずれにある、リックの馴染みの、家族で経営するこじんまりとしたタヴァンだった。
レティシアは、そういったタヴァンの方が、いろいろと尋ねやすく、今も、タヴァンの主人に、近くの医者をすぐに教えてもらうことが出来て、有り難かった。
「それにしても、よく働く娘だね」
タヴァンの女将が、到着してから、休む間もなく、階段を上り下りするレティシアを眺めて、リックに言った。
「全くだ」
リックも、その動きを感心して眺めた。
そうやって忙しく働きながらも、レティシアの動きは尖がったところがなく、柔らかだった。
やっぱり今、リックが呼び止めたとしても、きっと、いつもの優しい笑顔で、はい、すぐに参ります、と言ったことだろう。
「レティシア、医者を呼びに行くんだろう。ここはもういいから、暗くなる前に、行っておいで」
ハリーが、そうレティシアに声をかけた。
「とても助かるわ。それじゃあ、私、急いで行って来ます」
と、住所を書いてもらった紙を手に持って、レティシアは医者を呼びに行こうとした。
「転ばないように気をつけて」
「ありがとう、ハリー」
レティシアは、笑顔を向けた。
「行って来てやろうか?」
レティシアは、驚いたように振り返って、声の主であるリックを見つめた。
リックから、そのような優しい気遣いを受けるとは、思っていなかった。
リックは、いつもレティシアに無愛想だった。
何故なのか、はっきりとした理由はわからなかったけれど、レティシアはリックから嫌われていると思っていた。
左肩の烙印を見られてからは、嫌厭されたとしても仕方のないことだと、諦めていた。
だから、その優しい気遣いを、とても嬉しく思った。
「いいえ、いいの。まだ、馬を預けに行かなければならないのでしょう?お気遣い、本当にありがとう、リック」
レティシアは、リックの瞳を見つめて、嬉しそうに笑った。
そうして、振り返って、足を踏み出そうとした時、 何かに蹴つまずいて、危うく転びそうになった。
そのレティシアを、間一髪、リックが支えた。
リックが腕を回したレティシアの腰は、思ったよりずっと華奢だった。
ぐっと目の前に近寄った薄紅色の頬と、白いうなじから放たれる甘やかな色香に、リックは、一瞬心を奪われた。
「ごめんなさい、リック、私ったら…」
と、レティシアは、恥ずかしそうに照れ笑いをした。
けれどもその後、ふたりで足元を見て、目を丸くした。
丸々と太った豚がいたのだ。
豚は、ふたりを見て、ブヒッと、声を上げた。
「豚…?」
リックは、レティシアと声を揃えた。
「ダメ、ダメ、そっち行っちゃダメだって、エース」
五、六歳くらいの男の子が、慌てて、豚を追いかけて来た。
「坊やの豚?」
「坊やじゃないや、俺にはティムって言う名前があるんだ」
「ごめんなさい、ティム。でも、とても驚いたのよ。こんなところで、豚に蹴つまずくなんて、思いもしなかったの。この子は、あなたの豚なの?」
レティシアは、おかしそうに笑った。
「違うよ。このタヴァンで飼ってた豚さ。今から、うちに連れて帰るんだ。ここの主人に頼まれて、明日の朝一番で、父ちゃんが絞めるのさ。俺も手伝うんだぞ」
ティムは、自分も手伝うということを、自慢するように言った。
ティムの父親は、街のはずれで、豚を捌く仕事を生業にしていた。
「まあ…、可哀想に」
「女って、すぐそういうこと言うんだよ。だったら、ベーコン食わなきゃいいんだ」
「ごめんなさい…」
「ほら、レティシア、早く行った方がいいぞ」
ハリーが、夕暮れ迫る空を指差した。
「あら、そうね、急がないと。ティム、お父さんのお手伝い、頑張ってね」
レティシアは、花のように優しく柔らかな微笑みを向けると、急いで馬車道を渡って行った。
「さあ、俺たちも、早いとこ片付けちまおう」
ハリーは、駆けていくレティシアの、後ろ姿を眺めるリックの肩をポンと叩き、これは、惚れるなって言う方が無理だな、そう思った。
レティシアは、急いで馬車道を渡ると、住所を書いた紙を見ようと、立ち止まった。
すると、前を良く見ていなかったせいもあって、歩いて来た紳士と、勢い良くぶつかって、尻もちをついてしまった。
「あら…、ごめんなさい」
レティシアは、急いで立ち上がりながら、今日は、豚につまづいたり、人にぶつかったりして、良く転ぶ日だわ、と何だか、おかしくなった。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
「ええ、大丈…夫…」
紳士の顏は、まだ見ていなかった。
けれども、その声を聞いて、レティシアの頭の中で、何かが弾け飛んだ。
顔を見ずとも、それが誰なのか、すぐに分かった。
笑顔は凍りつき、鼓動が早くなるのが分かった。
「お嬢さん、お怪我は?」
紳士は、レティシアの手を取って助け起こし、にこやかに微笑んだ。
レティシアは、答えなかった。
そして、紳士の顏を見ることもしなかった。
「お気をつけて、お嬢さん。また、いずれ」
紳士はそう言って、帽子に手を掛けて、会釈をすると、そのまま立ち去った。
何故…、今頃になって…。
レティシアは、目眩を覚えた。
壁に寄りかからなければ、立ってはいられなかった。
レティシアは、深く動揺していた。
だから、その時になってようやく、紳士が、レティシアの手の中に、紙片を残したことに気づいた。
震える指で、その紙片を開くと、待ち合わせの時間と場所が記されていた。
アンジェラを診察した医者は、脈が乱れていることを指摘した。
「これまでに、胸の痛みを感じたことは?」
医者がそう尋ねると、アンジェラはうなだれた。
「あるのですね?」
「はい…」
傍にいたフィリップは、
「今まで一度も、そんなことを言わなかっただろう?」
驚きを隠せず、ベッドの上の妹の顔を見つめた。
アンヌは黙って、医者の診立てを聞いていた 。
アンジェラは、半年ほど前から、時折、胸が痛むことがあるのだと、告げた。
けれども、ここ数週間は、落ちついていた。
ところが今日突然、鋭い痛みが、胸を絞めつけた。
レティシアは、アンジェラの胸の痛みのことを知っていた。
そして、アンジェラから、堅く口止めされていた。
もうこれ以上、お兄様に、心配はかけたくないのだと。
医者はともかく、安静を告げた。
体調が落ち着くまでは、無理はいけないと、言った。
レティシアは、診察を終えた医者と共に、部屋を出た。
部屋の外には、アンジェラを心配したハリーとリックが、立っていた。
医者は、手短にもう一度、リックとハリーに、アンジェラの容態を説明してから、帰ろうとした。
その医者を、レティシアは、送って行くと言う。
「これから?」
ハリーは、驚いた。
外は、もう真っ暗だった。
医者は男だし、一人でも大丈夫だろうし、事実、医者も一人で大丈夫だと言った。
医者を送った帰り道、ひとりで帰ってくるレティシアの方が、よっぽど心配だった。
けれども、レティシアは、どうしても行くと言い張った。
それだったら、代わりに俺が行こうと、ハリーが提案しても、頑なに首を振った。
ハリーも、リックも、当惑した。
レティシアは、どう言っても聞き入れず、半ば、押し切るように、強引に医者について出て行った。
レティシアの顔は、青ざめていた。
それは、アンジェラの容態を心配したせいかもしれなかったが、つい先ほど、花のような柔らな笑顔で、馬車道を渡って行ったレティシアとは、別人のようだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
捨てられた王妃は情熱王子に攫われて
きぬがやあきら
恋愛
厳しい外交、敵対勢力の鎮圧――あなたと共に歩む未来の為に手を取り頑張って来て、やっと王位継承をしたと思ったら、祝賀の夜に他の女の元へ通うフィリップを目撃するエミリア。
貴方と共に国の繁栄を願って来たのに。即位が叶ったらポイなのですか?
猛烈な抗議と共に実家へ帰ると啖呵を切った直後、エミリアは隣国ヴァルデリアの王子に攫われてしまう。ヴァルデリア王子の、エドワードは影のある容姿に似合わず、強い情熱を秘めていた。私を愛しているって、本当ですか? でも、もうわたくしは誰の愛も信じたくないのです。
疑心暗鬼のエミリアに、エドワードは誠心誠意向に向き合い、愛を得ようと少しずつ寄り添う。一方でエミリアの失踪により国政が立ち行かなくなるヴォルティア王国。フィリップは自分の功績がエミリアの内助であると思い知り――
ざまあ系の物語です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる