幽世の理

衣更月

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土蔵

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「火が怖いと言うのは?」
 僕の問いに、青砥真治郎は口角を歪めながら頭を掻いた。
「それが私にもよく分からなくて…。実は、店を1週間前から休んでいるんです」
「1週間も」と、新が驚いたように目を丸める。
 青砥真治郎は「はい」と、消沈の声を零した。
「少し前からなのですが、厨房に立つのが恐ろしくて…。なんと言うか、火が怖いんです。ついには1週間ほど前に、もう無理だと…。火を前にすると恐ろしくなって、立てなくなったんです。パニック発作ような感じだと思います」
 料理人がおかしなことを言う。
 だが、契約書に記載するということは、本当なのだろう。
 望海が契約書の控えを青砥真治郎に渡すのを見ながら話を続ける。
「改めて、詳細をお伺いしてもいいですか?」
「…詳細…ですか?」
「あまりにも情報が不足しています。遺品を回収しても、それらの事象が治まるとは思えません。鬼と火。それがイコールで繋がる決定打が欲しいので、青砥家のことをお伺いしたいのです。特にコレクションを蒐集したお父さんのことを、分かる範囲で構いません」
 そう言えば、青砥真治郎は「はい」と頷く。
「父の名前は勝甚かつやすと言います。骨董品が趣味というよりは、奇妙な収集癖があったという方が近い気がします」
 深く、細い息を吐いて、青砥真治郎は唇を湿らすようにひと舐めする。
「父は息子の私から見ても、変わり者でした。自分で公言するようなことはなかったのですが、父は私たちに見えない何かが見えていたのだろうと思います」
「つまり、霊感というやつですか?」
 僕が訊けば、青砥真治郎は笑うでもなく、暗い顔で頷いた。
「でも、その事には誰も触れませんでした。祖父の顔が怖くなったからです」
「青砥さんはお祖父さんに会われたことがあるのですね」
「ええ。私が14、5の頃に亡くなりました。普段は優しい人でしたが、父がぼんやりと裏庭を見てると、それだけで表情が曇る。私が子供の頃に超能力やオカルト…心霊ブームがあったのですが、それを話題にするだけで叱られました。蔵に近づけば、恐ろしいくらいに激昂するんです。なので、祖父の印象は二重人格の恐ろしい人と言った感じです。言葉は悪いですが、腫れ物に触るように接していました」
 当時を思い出したのか、青砥真治郎は苦々しそうに口元を歪めた。
「うちは代々農家だったんです。祖父の子供は1男4女。男は父一人です。そうなると、家を継ぐのは父です。昔は今と違って、ここみたいな田舎は、半ば強制的な家長制度です。生まれた時から、父は農家になるように育てられたそうです。勉強よりも田植えや稲刈りが優先だったと言います。ですが、父は継がなかったんです。高校を出ると公務員になりました。そのせいで、祖父と父は口論が絶えなかったと聞きます」
「カチョー制度ってなんですか?」
 望海が首を傾げ、新が「家長制度」と言い直す。
「家の長と書いて家長だよ。明治に出来た制度で、男尊女卑たらしめるものかな。家を継ぐのは原則長男だから、男児は大切に育てられる。一方の女児は、嫁に出て行くからね。厳しく育てられる。女性に相続権なんてものはない。長男至上主義って言えば分かりやすいかな?そんな制度は廃止されたけど、長男が家を継ぐ風習は完全に無くなっていないよね」
「特に田舎は、古い風習に縛られがちです」
 青砥真治郎は言って、緩く頭を振る。
「だからこそ、農業を継ぐ気はないと言った父を祖父は許せなかったのでしょう。なのに、父が家を出ることはなかったんです。農業は継がないが、家を見捨てることはない。私が子供の頃、”お前らのせいで”と父が祖父に激昂していたのを聞いたことがあるんです。出て行きたいけど、自分が残るのは償いなのだと。それから、祖父と父が口論することはなかったと記憶しています」
 父親が言った”償い”の意味については、訊くことはなかったのだろう。
 今も胸にしこりとして残っていると言いたげな顔で、小さく息を吐いた。
「勝甚さんは、いつから蒐集を?」
「中学の頃からだと聞いています。でも、誰かに自慢するような趣味ではないのだと言っていました。あれは祟るぞ、と。酒に酔うと、決まって”蔵に行くと祟られるぞ”と口癖のように言っていたんです。ただ、笑ってもいたので、真剣に取り合ったことはありません。父が他界し、遺品整理を兼ねて何点か鑑定に出したのですが二束三文の品ばかりです。他の物も処分しようと思ったのですが………手をつけられませんでした」
「娘さんからも聞きました。気味が悪いと」
 探るように言えば、青砥真治郎は「そうなんです」と乾いた唇を舐めた。
「父も祖父同様。私たちが蔵に行くのを良しとしませんでしたが、父の逝去した後も放置するわけにもいかないでしょう?一応、記録をつけてから整理しなければと、兄と…。ああ、私は2人兄弟なんです。兄は大学を出て、東京の方の会社で働いています。父の葬儀で帰って来た時に、遺品の相談をしたんです。結果、兄は遺産相続を放棄しました。私が祖父の面倒を見、看取り、家を継いだのだからと…。私は元々料理人志望だったので、高校を出てから調理師学校に行って、和食や中華などの店で修業して、母の死を機に戻って来たんです。こんな不便な土地に父一人というのも心配で、私が家を継ぐことにしたんです。娘が2才の頃でした。食堂を始めたのは父が他界した後。8年前ですが、それ以前は車で40分ほどかけて、当時勤めていた店に通ってました」
 青砥真治郎は早口に言って、呼吸を整える。
「正直、兄が遺産を放棄したのは、父のコレクションが理由なのだろうなと…。恨めしい気持ちがあるのも確かです」
「と、言うと?」
「葬式が終わった翌日、兄と蔵に入ったんです」
 暗鬱とした目が、ゆっくりと座敷を巡り、北の間の向こうを見据えた。
「子供の頃は、祖父の目もあったので、蔵に入ったことはありません。祖父が他界しても、父が良しとはしなかったので、実質、蔵に入ったのは初めてなんです。蔵に入る前は、宝探しのよう気持ちです。テレビで鑑定番組が流行っていたのもあり、2人で浮足立っていました。ですが、蔵に入って……こう…なんというか…ぞぞぞっと悪寒が走ったと言うんでしょうか?本能的にこの中にはいたくない恐怖というのか、2人揃って怖気づいて逃げ出して、蔵はそのままです」
 遺産相続は、配偶者が2分の1。子供が4分の1となる。配偶者である妻が亡くなっているなら、子供の分配分が増える。そうなれば、父親の遺産を整理する必要がある。遺産は、金銭や不動産の他に、動産というものがある。土地などの定着したものが不動産なら、定着していない物を動産という。車や貴金属などがそれに当たる。
 そして、動産には美術品や骨董品も含まれる。
 遺産相続するには、どうしても蔵のコレクションを把握しなければならない。
 青砥家の長男は、相続を放棄してでも蔵と関係を絶ちたかったのだろう。
「コレクションについて、お父さんは何も言わなかったのですか?遺書のようなものも?」
 僕の問いに、青砥真治郎はしばし考えこみ、「あ」と声を零した。
「正式な遺言書はないのですが、父の最期の言葉があるんです」
「最後の言葉ですか?」
「ええ」と、青砥真治郎は困惑気味に眉尻を下げる。
「この家を燃やしてしまえるなら、燃やしてしまえ…と。父は家が好きではなかったんです。嫌いなのに、家を出て行かない。母が亡くなって私が戻って来ると、とても嫌そうな顔をしていましたよ。なぜ戻って来たのかと」
 青砥真治郎は苦笑する。
「生前は、家を燃やせ、蔵を燃やせ、と。燃やせが口癖でした。死ぬ間際の言葉も、燃やせなんて……少し、どうにかしています」
 家を燃やせ、蔵を燃やせ。
 遺言に従わなかった青砥真治郎は、偶然か必然か、火を恐れるようになった。
 僕と同じことを思ったのか、新が緊張に顔を強張らせ、望海はぶるりと身震いする。
「では、鬼が出始めたのはいつですか?」
「えっと…正確ではありませんが…」と、青砥真治郎は腕を組んで考え込んだ。
「半年は経っていません。梅雨は終わっていたか…終わりかけの頃だったと思うので」
「やっぱり角が生えてたんですか?」
 望海が口を挟む。
「あ…いや。それが良く見えなくて。ただ、人じゃないのは分かったんです。恐ろしいというか、得体が知れない気持ち悪さがあって…なんというか…炎に包まれているような、ぼんやりとした輪郭なんです。私たちが勝手に鬼と言ってるんですけど」
 望海は不思議そうに首を傾げた。
「でも、鬼なんですよね?幽霊とかでも、他の妖怪とかでもなくて…」
「まぁ、そうですね。イメージする幽霊よりははっきり見えたので。得体の知れない…ということで鬼という言葉を宛がっているところはあります。私も鬼が実在するとは思ってません。これが川で見たものなら、河童だと言ってたでしょうね」
 苦笑する青砥真治郎に、新は反応に困った微妙な表情だ。
「実害はあるんですか?鬼に例えるくらいだから、何か被害が出てるとか?」
「いや、それはないですね。敷地の中には入って来ないです」
「では、外から青砥さんに声をかけているということですか?」
 僕の問いかけに、青砥真治郎は神妙に頷いた。
 怯えた双眸が真っすぐに僕を見据える。
「返せと。何を返せと言っているのかは分かりません。心当たりがあるとするなら、父のコレクションくらいです」
「それにしては、今さらだと思いませんか?勝甚さんが鬼の欲する物を持ち帰った時でも、亡くなった時でもない」
「そう言われれば…」
 不安げな顔が、契約書の控えに向けられる。
「鬼が出始めた時期に、何かした覚えは?例えば、メンテナンスであの蔵に入ったとか、何をか持ち込んだ。もしくは、持ち出したとか」
「そうですね…」
 青砥真治郎は眉根を寄せ、数ヵ月前の記憶を手繰っている。
「ええ、確かに一度、蔵に入りました」
 口にしてしまえば、間違いないとばかりに確信を得て喋り出す。
「あの蔵は父のコレクションだけが収納されているわけではないんです。昔の箪笥や長持、農具の類もあるんです。それで、くくり罠を仕舞っていたはずだと漁りました」
 くくり罠とは、ワイヤーで獣の脚などを捕らえるトラップだ。
 猟銃免許よりは資格取得が簡単ではあるが、罠を仕掛ける場所を考えなければいけないし、生きている獲物を殺すという負担があるので、素人にはハードルが高い。
「猟をされていると聞いていましたが、くくり罠も使われるんですか?」
「猟銃禁止区域で罠を使うことはありますが、使っても箱罠です。くくり罠は祖父や父が好んで使っていました。2人とも猟銃の免許は所持していませんでしたが、わな免許は持っていたので、畑を荒らす害獣はくくり罠や箱罠で対処していたんです。蔵に仕舞っていたくくり罠は古いのですが、くくり罠を試したいと知り合いに頼まれたので、日中の明るい時間帯に蔵に入ったんです。どうしてもと頼まれれば、断ることはできないでしょう?ここみたいに山が近い田舎は、どこも鹿や猪が頭痛のタネですからね。かと言って、猟銃免許はハードルが高い。そういう人は、わな免許です。それを知っているからこそ、無下には出来ない」
 青砥真治郎は頭を掻いて苦笑する。
 気前がいいのか、単なるお人好しなのか、新と同じで断ることができないタイプらしい。
「それで、その際に蔵の中を漁ったと」
「ええ。くくり罠が蔵にあるのは、うろ覚えですが、父が言っていたと記憶していたんです。兄と入った際、昔の農具なども見ましたし、どこら辺に仕舞っているのかは検討がついていたので」
「罠を探している時は、怖くはなかったのですか?」
「そりゃあ、怖いですよ。もう念仏を唱えて、わーわー騒いでの捜索です。なので、丁寧に物を扱うような配慮は欠けていまして…。恐らく、酷い有様になっているんだろうな…と。兄と入った時も荒らしたままにしてしまったので、余計に荒れていると思います」
 青砥真治郎はバツの悪そうな顔で俯く。
 もし、何かしらの結界が施されていた場合、物を動かすことによって結界が解除された可能性がある。それを前提に考えれば、結界を施さなければならないような何かが蔵に眠っているということでもある。
「では、火が怖いというのは?何か切っ掛けはありませんか?」
「火が恐ろしくて仕事に影響が出始めたのは最近です。1週間前に休業するまでは、なんとか厨房に立てていたので。徐々に怖くなったという感じです。これも正確ではないのですが…盆の前だったと思います」
「鬼が出始めた頃と、さほど日は離れてませんね」
「そういえば…そうかもしれません。最初は些細な違和感ていどでした。それが徐々に胸の奥で不安……というのか、奇妙な気持ちになったんです。日を追う毎に、それが膨れ上がって、遂には恐怖を覚えるようになりました」
 青砥真治郎は項垂れ、テーブルの上で組んだ手を見据えている。
 料理人だと言うのに、火が恐ろしい。料理が作れないフラストレーションが溜まっているのか、組んだ手が苛立ったように震えている。
「厨房を覗いても?」
「厨房ですか?ええ、構いませんが…」
 青砥真治郎は困惑気味に頷きながら立ち上がる。
「こちらです」と、先導されるままに、僕たちはついて行く。
「外観は昔のままですが、色々と手を加えているです。厨房と客席は近い方がいいので、風呂場や納屋があった場所を厨房にしたんですよ」
 厨房は中の間の隣だ。
 以前は障子で仕切られていたのだろうが、今は壁になっている。青砥真麻が出て来た、北の間の引き戸が、厨房への出入り口だ。
 鴨居に頭をぶつけないように腰を屈め、厨房に入る。
 一般家庭の台所とは違い、火力のある業務用ガステーブルにはコンロが3口並び、1つには寸胴が、もう1つには薬缶が置かれている。コンロ正面の壁には大小4つのフライパンがかけられる。上部には大型換気扇だ。
 コンロの下は大型のオーブンになっている。
 ステンレス製のカウンターは広々としており、下部にはキャビネットだ。続く流し台にはシンクが2槽。カウンターの隅っこには電子レンジとトースター、調味料ラックが並ぶ。
 銀色のいかつい業務用冷蔵庫には、食材メモが幾つも貼られている。その隣にはワインセラーだ。
 食器棚には多種多様な食器が整然と並び、壁に掛けられたホワイトボードには業者宛のメモが走り書きされている。
「あっちの扉は?」
 抜けた先にあるガラス戸を指させば、青砥真治郎は苦笑した。
「向こうは居間です。1階は居間…というか、ダイニングですね。それと風呂が、お客様NGの居住空間なんです。生活スペースは基本2階ですが、食事や風呂なんかは1階です」
「なるほど」と頷いた僕の肩を、新が力強く掴んだ。
 思わず、痛みに顔を顰める。
「新?」
 怪訝に振り返れば、新は驚愕の表情で天井を仰いでいる。
「惟親くん…あれ」
 指さす先は、北の間へ続く戸の上だ。
 そこに神棚がある。
 窓から射す陽光も届かない場所は、およそ神棚を祀るに相応しくはない。厨房にあるせいで、油汚れも酷く、白木の神殿が黒ずんでいる。
 清掃をしていないのか、清掃が追い付かないくらいに調理油が飛ぶのか、どちらにしろ良くない兆候だ。
「うわぁ、神棚」
 声を上げたのは望海だ。
「初めて見るかも。うちの実家にはなかったですし、大神さんちにもないですよね」
 当たり前だ。
 妖怪ばかりがいる屋敷に、何の神を祀るというのか。
「今のお宅には珍しいかも知れませんね。かくいう私も、団地住まいの頃は神棚なんてありませんでした」
 望海も青砥真治郎も、僕たちの顔が強張っているのに気付きもしない。
「青砥さん。神棚は昔から此処に?」
「いえ。リフォームしてからです。リフォーム前、ここは納戸だったんです。台所は、東側の居間と続いているような間取りでした。神棚は居間と台所の中間にあったんです。なんでも火の神様だから、台所に祀るのだと聞いた記憶があるので、リフォームした後も厨房に置きました」
 目眩がしそうだ。
 神というのは、厄介なのだ。
 古の神は気性が荒いが、大抵のことは鷹揚に許すことがある。要は大雑把で適当なのだ。メジャーどころの天照大御神あまてらすおおみかみなどであれば問題はない。いちいち個人宅を祟るような狭小は見せない。
 一方、そうでない神は、揚げ足を取るように些細な間違いをあげつらね、祟ることがある。
 祟ることが、暇潰しとなるからだ。
「新。札を取ってくれ」
 加護を受けていない、単なる紙切れであることを願う。
 新も同様なのだろう。神妙に頷き、気が重いとばかりに神棚に歩み寄る。
 緊張の面持ちで新を見据える。
 瑞々しさを失った榊の奥に、油で茶色に変色した札がある。
 新が恐る恐る札を手にして、僕へと札を向けた。
 金屋子神かなやごかみ
 この札自体に加護はない。単なる紙切れだが、祀る神が駄目だ。
 この家で祀るべき神ではない。
 吐き気がする。
「かね…や、こ?」
 辿々しく言う望海に、青砥真治郎が頭を振る。
「”ね”ではなく”な”。金屋子神と言う火の神様らしいです。お札も取り換えた方が良いのでしょうが、ここらの神社ではないようなので、どうしたものかと。その札も父が旅行を兼ねて、毎年交換していたんです」
「そうなんですね。火の神様だったら、料理の神様でもあるのかな?」
 後半は独り言のように言って、望海は僅かに口角を歪める。
 本能的に、何かしらの不気味さを感じているのかもしれない。そわそわと身動いで、手を擦り合わせた。
 新と言えば、限界だとばかりに札を神棚へ戻す。
「青砥さん。なぜ竈神かまどかみではなく金屋子神を?」
「私も詳しくは知らないんです。うちは昔から金屋子神を祀っていたんです。青砥家の出自は石見いわみなので、そこから持って来た神様じゃないかと……推測です。毎年、父が島根の神社に赴いて、お札を新しいものに交換していたんですよ」
「いわみ?」
 本当に大学生だろうか。
 疑問に思えるほどに、望海は物事を知らない。新が「石見国だよ」と教えても、望海の顔に浮かぶのは疑問符ばかりだ。
「島根県の西の方です。遠い昔は石見と言っていたんです。石見銀山とか聞いたことないですか?」
「世界遺産の?」
 どこか自信なさげな声にも、青砥真治郎は呆れることはない。穏やかな笑顔で「そうです」と頷いている。
 これに望海がほっと胸を撫でた。
「それじゃあ、青砥さんちは歴史が古いんですね。今では石見国なんて聞かないですもん」
「明治大正の頃には、ここで農業をしていたらしいので、それ以前の話ですね。恐らく、江戸の末期に石見を出たのかも知れません。想像ですが」
 青砥真治郎は苦笑する。
 リラックスして話しているように見える。
「青砥さんは、別に炊事場が恐ろしい訳ではないのですね」
 僕が言えば、青砥真治郎は「ええ」と頷く。
「厨房に入ったからといって、身が竦むということはありません。火がダメなんです」
 と、コンロに目が向かう。
「火と言っても、なんとういうか……仏壇の蝋燭とかライターとかは平気なんです。火力の問題かもしれませんが、コンロの火がダメなんです。ごぅごぅ…そんな恐ろし気な炎の音が頭の中に巡って体が竦むんです。家の食事は妻が作りますが、食堂の調理は私なので……店を休んでいる次第です」
 青砥真治郎が鬱々とした息を吐いた。
 憂うのも仕方ない。料理人なのだから、火が使えなければ死活問題だ。
「このまま火が使えなければ、妻に食堂の方も任せるか、真剣に考えなくてはなりません。本当は、心療内科とかも考えたんですけどね。子供ですら鬼の話を信じないのに、他人が信じてくれるとは到底思えません。下手をすれば入院です」
「鬼とイコールだと考えているんですね」
「大神さんと話していて、そんな気がして来たんです。むしろ、そうであってほしいと思ってます。原因が分かった方が対策が練りやすいでしょう?」
 青砥真治郎が気弱に笑う。
「鬼は何かを探してるんです。それを渡せば、鬼の件は解決する。そうなれば、自動的に私も火が怖くなくなって、店が再開できるんじゃないかとポジティブに考えてみようかと思うんです」
 精神に異常をきたしていると考えるよりは、鬼の方がマシなのだろう。
 果たして、鬼の方がマシなのだろうか。
 新を見れば苦い顔つきだ。望海は恐怖と戦うように身震いし、新の腕を掴んでいる。
「蔵を見せてもらっても?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「コレクションは全て蔵に?」
「そうです。ここをリフォームする際も探してみましたが、それらしい物は出て来ませんでした。あの時は、こんなことになるとは思っていなかったんです」
 こんなこととは、鬼が出て、火を恐れ、仕事に支障をきたすという意味だろう。
 青砥真治郎は落胆の息を吐き、とぼとぼと北の間へと足を向ける。
 北の間を出ると、南の間を抜け、廊下に出る。僕たちが玄関で靴に履き替えている間に、青砥真治郎が懐中電灯を3本ほど用意してくれた。
 僕と新、望海が懐中電灯を持つ。
 青砥真治郎は蔵に入る気はないらしい。
「こちらです」と、先端がコの字になった簡易的な鍵を持ち、先頭を行く。
 最短距離は玄関を出て右回りだ。ただ、右手は居間に面し、日当たりも良いので洗濯物も干しているという。
 遠回りな上に薄暗く、未だに藪蚊が飛んでいると詫びを入れられた上で、左回りの道を行く。築山の手前を歩く。座敷沿いだ。それから床の間の裏手に入る。窓のない外壁と、ブロック塀に挟まれた狭苦しい通路を行く。物置にもなっているのだろう。使う予定があるとは思えない、土埃を被った瓦や角材が放置されている。
 先頭を青砥真治郎。新、望海と続く。体格の良い新は、窮屈そうに肩を窄めて歩き、望海は新のシャツを掴んで、僕が付いて来ているのか何度も振り返り確認する。
 裏庭に出れば、ブロック塀も中途半端に終わった。
 斜面になっているので、ブロック塀を設置するのを諦めたのだろう。斜面ギリギリには、柿の木が疎らに赤い実を実らせている。地面を見れば、腐れ落ちた実が転がる。
 青砥家どころか、山の動物すら手を付けていない様子が不気味だ。
「そこの柿の木までは、うちの敷地です。で、奥は杭が目印です。杭から蔵ですね」
 柿の木は北西側だ。
 そこから茂みに隠れるように、赤い布を巻きつけた杭が、等間隔に打ち付けられている。望海が指をさしていた場所は、青砥家の敷地だったようだ。
 蔵は北東になる。
 さらに奥に、高さ1メートルほどの庭石が生垣の役目を担っている。その庭石と家屋の間に、車1台分のスペースが開き、抜けた先に畑が見て取れた。
「蔵の先は畑ですか?」
「ええ、そうです。麓の田畑は害獣被害に遭うのですが、不思議なことに、ここには獣が寄り付かないんです。幸運だと思う反面、不気味でもありますよね」
 青砥真治郎は言って、蔵に向かって歩き出す。
「裏庭と言っても広いですね」
「なんでも、離れというか…平屋が1軒建っていたそうです。昔は2世帯、3世帯の同居が当たり前でしたからね。田舎ということもあり、大家族です。農家だったので、人手も必要だったのでしょう。その離れも、父が子供の頃、落雷で全焼したそうです」
 そして残ったのが、無駄に広い敷地ということだ。
 望海は新の腕にしがみつき、赤い布を巻き付けた杭の方を気にしている。何度も視線を馳せ、下唇を噛みしめながら俯いた。
 あの方角に、どれほどの恐怖があると言うのか。
 霊感のない青砥真治郎の足取りも、裏庭に入った途端に鈍くなった。蔵に近づくにつれ、足取りは鈍さを増す。
 と、望海が僕に振り返った。
「ごめんなさい」
 ぽつり、と呟いたかと思えば、望海の手は新から僕の腕へと移動する。
「おい」と顔を顰めれば、泣きそうな顔が「だから先に謝ったんです」と逆ギレする。
「なぜ僕に移動する。新で良いだろうが」
「無理です」
 力いっぱいに頭を振って拒絶する様に呆れてしまう。
 それこそ父娘ほどの仲の良さがありながら、突然の拒絶など新にとってはショックだろう。と、新を見れば、望海に負けず劣らずの青褪めた顔だ。腰が引けた姿勢で、びくびくおどおどと周囲に視線を走らせている。これでは頼ろうとしても無理だ。むしろ、恐怖心が伝播して集団ヒステリー状態になり兼ねない。
「新。どうした?お前らしくない」
 怪訝に目を眇めて言えば、新は自らの鼻を指差す。
「血…血の臭いがするんだ」
 潜められた声は、警戒心が漲っている。
 口元に手を当て、しきりに目玉を動かして周囲を窺っている。
「落ち着け。幻嗅だ。お前は鬼というワードに引っ張られすぎだ」
 叱責を飛ばす。
 新が1つ、2つ瞬きを繰り返した。
「惟親くん…ごめん」
 新は口元から手を下ろし、情けない顔をする。
 恐る恐ると深呼吸を繰り返し、額の汗を拭い、「幻嗅」と自身に言い聞かせている。
「大丈夫か?」
「ごめんね」
 なんとも弱々しい笑顔で、新は頷く。
 望海としては不安を拭えない表情だ。
 つい先ほど、僕と新に恐怖対象は殆どないと説明したばかりなのだから仕方ない。何に対して恐怖心を抱くかは伝えていないが、新が”神”と”鬼”を嫌っているのは知っている。
 そして、青砥家には鬼が出ると言う。
 怯えて然るべき要素は揃っている。
 些か歩き辛いが、望海を引き摺るように歩く。
 青砥真治郎は蔵の前で足を止めると、泥棒のように足音に気を配り、2段の石段を上がる。浅い呼吸を繰り返し、ズボンで手汗を拭い、握り締めた鉄製の鍵を見下ろす。
 蔵というのは気密性が重要だ。
 火災に耐え、湿度にも一定の成果を見せなければならない。その為、入り口の扉は3重構造だ。
 鍵を解錠し、漆喰の塗籠戸を開く。次いで、板戸を開く。最後に、網戸の役目である格子戸を開くと、青砥真治郎は素早く石段から飛び降りた。
 蔵の中は暗闇だ。
 明かりが射し込んでいるのに、それすらも入り口の一部にしか届いていない。
「ひっ…」
 望海が僕の腕に顔を突っ伏した。
 その恐怖心は理解できないが、確かに、この蔵の暗がりには無数の気配が蠢いている。鼻先を掠めるのは、埃や黴の臭いとは別の、微かな腐敗臭だ。
 新を見れば、顔色が良いとは言えない。
「窓を開けて風を通せば、多少はマシになる」
 僕の言葉に、望海が怖ず怖ずと頭を上げる。
「窓…。窓があるんですか?」と、眉を八の字にした顔で蔵を仰ぎ見た。
「観音開きの窓か、虫籠窓むしこまど。小さいが、蔵の上部にはある。昔の日本家屋…塗籠の家の厨子二階つしにかいで見られる。厨子二階というのは、天井の低い中2階。屋根裏みたいなものだ」
 多くは入り口の上部に虫籠窓はあるのだが、見上げる先にはない。
「そのムシコ窓と言うのかは分かりませんが、裏手に1つ、小さいのがあります」
 青砥真治郎が口を挟む。
 なんとも曖昧な口調だ。
「小さいものなら、開けたところで効果は低いだろうね…」
 新は弱々しく首を窄め、懐中電灯の明かりを灯した。望海は怖気づきながらも僕から手を離し、懐中電灯を灯す。
「中に入るのは僕と新。望海は入り口の近くから照明役だ」
 そう言えば、2人は頷く。
「回収物の凡その数を知りたいので、目ぼしいものをスマホで撮影しますが構いませんか?」
 青砥真治郎に目を向ければ、「どうぞ、どうぞ」と何度も頷いた。
「それでは、拝見します」
 僕は懐中電灯を灯すと、青砥真治郎に軽く頭を下げた。
 青砥真治郎は胸の前で手を組み、青白い顔で「お願いします」と頷いている。
 少しばかり呆れてしまうのは、彼が立つ場所が、僕たちから5メートルは離れているということだ。それほど蔵が畏ろしいのかも知れないが、今は昼間だ。太陽は頭上で輝いているし、僕たちだっている。
 ため息を嚥下し、蔵に向き直る。
 先頭は僕。
 石段を上がり、蔵の中に入る。遅れて、及び腰の新が続く。
 望海は石段で立ち止まった。顔色は悪い。奥歯を打ち鳴らし、びっしりと汗を掻き、胸の前で握った懐中電灯の明かりを、僕たちの足元に飛ばす。
 僕がポケットからスマホを取り出せば、新も慌ててスマホを手に撮影を始める。僕が動画、新が写真だ。
 蔵の様子を一言で表せば、ゴミ溜めだ。青砥真治郎が荒らしに荒らした結果、ありとあらゆる物が無秩序に散乱している。
 頭上を見上げれば、立派な丸太梁が通る。
 経年劣化で歪みは出ているが、蔵を崩壊させるような歪さではない。垂木に歪みはないし、屋根や真壁から外光が零れている様子もない。
 この蔵が奇妙なのは、2階部分がスキップフロアのような造りになっているところだ。
 奥に梯子と言っても差し支えなさそうな、急角度の側桁がわげた階段がある。階段を上れば、床面積が1階の半分程度の2階となる。特筆すべきは、壁ではなく角材で格子を造っている点だ。
 まるで座敷牢を見学しているような気分になる。
 青砥真治郎の言っていた”小さな窓”は、2階の奥にあるのだろう。
「具合は?」と訊けば、新は「血の臭いがする…」と情けない顔をする。
「人間の血の臭いだよ…」
「僕には分からないな」
 くんくん、と鼻を鳴らして臭いを拾い集めても、埃と黴…あとは古い物特有の臭いがするだけだ。入り口で嗅ぎ取った腐敗臭は消えている。
「…気持ち悪いね…」
「鬼のお前が中てられるような物はないだろ?先入観で”怖い”と自己暗示をかける癖は止めろ」
 鼻で笑う。
 新は唇を尖らせ、「本当に血の臭いがするんだよ」と呟く。
 それには同意しかねるが、気持ちが悪いのは確かだ。
 其処彼処に歪な気配が蠢いている。人間のありとあらゆる負の側面が、この中に押し込められていると言った感じだ。
 懐中電灯の明かりを足下に落としたまま、ぐるりと視線を巡らせる。
 正直、僕たちに懐中電灯は必要がない。人間らしく、明かりを使うフリは、時として面倒だ。
「ここで何をしたんだろうな」
 善からぬことは間違いない。
 特に2階から、敵意の籠った視線を強く感じる。
 視線を1階に戻す。
 なかなかの惨状だ。青砥真治郎の混乱ぶりが分かる。荷崩れを起こした埃だらけの雑誌に、拉げた段ボール箱から黄ばんだ野球ボールが顔を覗かせている。散乱するけん玉、メンコ、木彫りの玩具、草臥れた野球のグローブなども、その段ボール箱に入っていたのだろう。他にも黒電話、ダイヤル式のテレビなどに交じって、刃に赤茶色の錆が浮かぶ藁切り機や、脱穀に使う鋭い刃の並ぶ千歯扱せんばこき、柄のない鍬まで転がっている。竹籠や笊だけならまだしも、刃毀れていても刃物があれば話は別だ。
「お前は入るなよ」と、再度釘を刺せば、望海は震えながらも頷く。
 僕や新なら死にはしないが、人間が錆びた物で怪我をするのは危険だ。大した出血でなくとも、破傷風で死ぬ場合もある。
「釘も落ちてるよ」
 新が困ったように眉尻を下げた。
「農具の類は違うだろ」
「それなら、子供の玩具も違うんじゃない?」
 周囲に視線を走らせ、コレクションと目星を付けられる品を指さして行く。
葛籠つづらと木箱は可能性が高いな。風呂敷で包まれてるアレは、大きさ的に日本人形のケースかも知れない」
「全部じゃなくても、改めてレンタカーで来ないとダメだね」
「上を見て来る」
 2階を指させば、新が情けない顔をする。
「私も行った方がいいかな?」
「必要ない」
 ひらひらと手を振り、足元に散乱するガラクタに気を付けながら、奥へと歩を進める。
 新が釘が落ちていると言っていたが、工具箱をひっくり返したのだろう。金槌や糸鋸が、ガラクタの下に隠れている。
 青砥真治郎の”無心”のほどが窺える。
 辿り着いた階段は、想像以上に急角度だ。踏板の幅は、僕の足のサイズの半分ほどだ。
 埃の積もった踏板を、慎重に上る。板は軋むが、撓みはしない。脆く崩れる心配はなさそうだ。
 はらはらと見守る新の視線を無視し、2階へと上がる。
 スマホの動画を停止し、写真撮影に切り替える。
 足元を見れば、毛羽立ち、原形の崩れた畳が敷かれている。階段を繋げた箇所に懐中電灯を向ければ、床板に釘を打った痕跡を見つけた。床を擦った疵も無数に走っている。
 恐らく、元は蓋のような戸が取り付けられていたはずだ。疵は、梯子を引っ掛けた時に付いたものかもしれない。
 側桁階段は後付けなのだと思う。
「惟親くん。大丈夫?」
 情けない声に視線を1階に落とす。
 格子越しの気分は、まさに収監された罪人だ。
「ここは座敷牢だ」
 ゆるりと頭上を見上げる。
 屋根までの高さは2メートルほどだ。仮に座敷牢だとしても、垂木や梁を伝って脱出は出来そうにない。格子が隙間なく取り付けられているのだ。
 では、窓はどうだと目を向ければ、箪笥や長持の奥に、小さな窓がある。
 鳥の巣箱サイズの虫籠窓だ。もともと虫籠のような格子付きの窓だというのに、さらに内側にも念入りに格子が取り付けてある。
 懐中電灯を照明に、適当に撮影する。
 長持が3棹。
 桐箪笥が2棹。
 長持というのは、布団や衣装を仕舞う長方形の大型収納箱だ。もっとも大きな長持は、車輪のついた車長持というものがあるが、ここにあるものは衣装などを仕舞うだけの一般的な長持だ。家紋もなければ、運搬時の棹を通す金具もないが、簡単に運び出せる代物ではない。僕や新なら1人で事足りるが、人間なら2、3人がかりと言ったところだ。
 長持や箪笥の隙間には、大きな葛籠や段ボール箱、大小様々な木箱が雑多に積み上げられている。木箱の蓋に書かれた文字を見るに、食器の類が多い。他にも能面の怪士あやかし恵比寿えびす、幽霊画と書かれた細長い木箱が、無秩序に置かれている。蓋が半開きのままの木箱もある。遺品整理の際、2階も見ようとしたのだろう。1階ほど荒れていないのは、途中で逃げだしたからだと想像できる。
 長持と箪笥の間に体を捻じ込み、隅々まで写真を撮る。
 僕たちに敵意を向けていたモノは隠れていないかと探してみたが、気配すらない。
「つまらんな」
 ぽつりと呟いた声に被せるように、「惟親くん」と新が不穏な声を上げた。
 見下ろせば、新がボロボロの人形を摘み上げている。
 古着で作った手製の人形か、円筒形の胴体に雫型の手足がぶら下がっている。頭は靴下を丸めたような形で、髪はない。目玉はちぐはぐなボタン。口は赤い毛糸で×バツが3つ並ぶ。特筆すべきは、頭と胴体のつなぎ目。つまり首に当たる部分に、ロープが垂れていることだ。
 新がロープの端っこを摘み、人形から手を離せば、首吊り人形となった。到底、子供の玩具とは思えない。
 新が渋面を作る。
「遺品だと思う?」
「可能性はあるな」
 うんざりと1階の惨状を見渡しながら、階段を下りる。
「一度、全部を外に出さないとダメだろうな」
「こういうのが、たくさん出て来るのかな…」
 ははは、と新は笑って、手にした人形を足元に投げ捨てた。
 と、違和感が頭を擡げる。
 新も同じだったらしい。蔵の中を照らす明かりの輪は、僕と新の2つ分だ。
 望海の明かりが足りない。
 僕たちの足元を照らしていたのに、新の投げ捨てた人形は暗がりに沈んでいる。
 嫌な予感がすると入り口に振り返れば、望海が仕事放棄で棒立ちになっている。手にした懐中電灯は自身の足元を照らし、焦点の合っていない目で、ぼんやりと僕たちを見ている。
「望海ちゃん!?」
 新が悲鳴を上げた。
 足元のガラクタを蹴散らし、望海に駆けて行く。
 望海の後ろでは、異変を察した青砥真治郎が怯えきった顔で右往左往している。
 僕も新に続いて望海へと駆け寄った。
 新が望海の肩を掴み、「望海ちゃん!」と、1回、2回と体を揺らすのに、望海の目はぼんやりしたままで反応がない。
「惟親くん…」
 泣き出しそうな情けない声だ。
 僕は新の隣に並び、望海の顔を覗き込む。
「望海」
 声をかけ、ぱちぱちと頬を叩く。
「起きろ」
 加減をしながら、少し力を入れて頬を叩く。
 望海が、緩慢に瞬いた。「ひゅ」と喉を鳴らして息を吸い込むと、本人も驚いたように目を丸めて噎せ返る。
 背中を丸め、げほげほ、と激しく咳き込み、喘ぐように嘔吐えづく。新が望海の背中を摩り、青砥真治郎が2人の懐中電灯を受け取る。
「あ…あの、どうしたんですか?大丈夫ですか?」
 おろおろと僕たちを見ながら、青砥真治郎は「とにかく、こっちへ」と誘導するように走り出す。
 新が望海を抱き上げ、急いで青砥真治郎の後を追う。青砥真治郎が向かった先は、北の間の前だ。窓の鍵は閉めていなかったのだろう。窓が開けられると、すかさず新は望海を座らせた。
 僕は蔵の戸を閉める。挿さったままの鍵で施錠するのも忘れない。
 鍵を握り、2人の下へと足を向ける。
「具合は?」
 言葉を投げれば、2人が揃って僕を見た。
 望海の顔色は悪いが、さきよりも血の気が蘇って見える。
「大丈夫です…。少しぼーっとするくらいです」と、額に手を当て苦笑する。
「新は?」
 新の横で足を止めてれば、新は苦笑しながら頭を振る。
「惟親くんに叱られてばかりでは、望海ちゃんの後ろ盾失格だからね」
「あの…大神さんは大丈夫なんですか?」
 探るように僕を見る望海に、「問題ない」と答える。
 それから何か言いたそうに口を開いた望海の言葉は、青砥真治郎がお茶を運んで来たことで遮られた。
「日向さん。大丈夫ですか?」
 と、望海の傍らに腰を落として、グラスに注がれた麦茶を差し出す。
「ありがとうございます」
 望海が頭を下げて、麦茶を受け取った。
 ひと口、ふた口飲んで、ほっと息を吐いてる様子を見るに、もう大丈夫そうだ。
 僕は望海から、青砥真治郎に視線を移した。鍵を差し出せば、青砥真治郎は「ありがとうございます」と首に手を当て、頭を下げる。
「青砥さん。蔵をざっと確認したのですが、一度、中の物を全部出した方が良いでしょうね。2階は綺麗なものですが、1階は酷い。整理をしなければ、回収し損なった品が出る可能性があります。整理が終わり、回収する物が分かればご連絡下さい。レンタカーで再度伺います」
 これに青砥真治郎の顔から血の気が引いて行く。
 然もありなん。蔵に入るのが嫌で、遺品の回収を依頼したのだ。なのに、蔵に入って、回収品を整理しなければならないのだ。目の前で望海が体調を崩したのも、彼を臆させる要因の一つだろう。
「申し訳ありませんが、憑き物回収が仕事であって、蔵の中の整理、遺品の記録はこちらの仕事ではありません」
「そ…それはそうなのですが……」
「分かりやすく言えば、我々は廃品回収業者のようなものです」
 にこりと微笑めば、青砥真治郎が黙り込む。
 望海は眉間に皺を刻み、新は素知らぬ顔で青空を仰いでいる。
「もし、蔵の中の整理も…となれば、契約時にお話しさせて頂いた追加契約が必要になります」
「お願いします!」
 青砥真治郎は畳に両手を付くと、深々と土下座した。
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