幽世の理

衣更月

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金屋子神(PG12)

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 小石原焼の平皿に煮卵を添えた豚の角煮。
 楕円形の粉引の皿に盛りつけされた鯖の味噌煮は、新のリクエストだ。鯖の上に生姜の千切りと、香ばしく焼き上げた獅子唐辛子が添えられている。
 白磁の小鉢には茄子の煮びたし、青いガラスの小鉢には胡瓜とプチトマトの酢の物。
 木製の汁椀には、浅葱あさつきを散らした貝汁だ。
 他にも酒のツマミになりそうな、白瓜と胡瓜の粕漬け、クリームチーズの味噌漬け、大根の醤油漬けが、品よく和皿に並べられている。
 酒は薩摩の芋焼酎。
 有田焼のタンブラーに氷を入れ、ロックで楽しむ。
 これで全てかと思えば、盆を手にした八十吉がやって来た。盆の上には、桧のお櫃と茶碗が乗せられている。蓋を開ければ、大ぶりの栗をふんだんに使った栗ご飯だ。共に並べられる豆皿の黒ゴマ塩を、好みで振って食べる趣向らしい。
「白米の方がよろしければ、白米にしますが」
 と、八十吉は茶碗いっぱいに栗ご飯をよそいながら僕を見る。
「いや。僕も栗ご飯で構わない。が、てんこ盛りは止めてくれ」
「惟親くん。栗ご飯は軽く一杯じゃ満足しないよ?」
 新が苦笑しながら、山盛りの栗ご飯を受け取った。
 黒ゴマ塩をふりかけ、大口を開けて栗ご飯を頬張る。なんとも幸せそうな表情で咀嚼しているのだから、料理長は本望だろう。
「僕は別に炭水化物が嫌いなわけじゃないんだ。ただ、酒に合わない」
「コグレが、若様も炊き込みご飯なら食べて下さると喜んでいました」
 コグレとは、我が家の料理長だ。
 無骨な武人の見た目ながら、厳つい手は繊細な料理を作り上げていく。
 正体は闇堕ちした元人間だ。闇堕ちというのは、人間を捨てたという意味だ。誰もが闇堕ちできるわけじゃない。それなりの才能…というと語弊はあるが、己の魂を穢す才が必要だ。
 コグレが何に対して深い絶望と憎悪を抱いたのかは知らないが、僕が拾った時は米の研ぎ方すら知らない、薄汚れた人間モドキだった。
 それが今では立派な料理長なのだから感心してしまう。
「朝は米を食べているだろう?」
「若様は昼餉を召し上がらないですから。朝と夜、しっかりと食べてほしいそうですよ。お米は命の源なのだと、コグレが言っております」
「留意する」
 軽くよそわれた栗ご飯を受け取る。
「ヤソさん。コグレさんに栗ご飯、凄く美味しいって伝えておいてくれる?」
「承知しました」
 八十吉はしっかりと頷き、盆を抱えると立ち上がった。
「若様。他に何か要りようはございますか?」
「特にはないが…」
 しばし考えこみ、「望海はどうしてる?」と八十吉の顔を伺う。
 望海は青砥家で様子がおかしくなった。それから異常は見当たらないが、油断すべきではない。
「少し前に起きて来て、炊事場で紗とホットミルクを飲んでいましたが、今はどうでしょうか…」
 時刻は0時を回っている。
 基本、妖怪は夜型だ。僕が夜には寝、朝には起きるを習慣付けているので、ここで働くモノは基本的に僕のスタイルに合わせている。ショートスリーパーも多いので、2時3時に寝て5時6時に起きるといった具合だ。
 だが、望海は違う。
 きっちり8時間は寝ているので、0時を過ぎても起きているということはない。夜が弱い朝型なのだと、ここで勤める際に本人が言っていた。
 それを八十吉も理解している。
「様子を見て来ましょうか?」
「眠れていないようなら、ここに来るように言ってくれ。眠そうな顔をしていたら、そのまま寝かせて構わない」
「畏まりました」
 八十吉は頭を下げ、静かに座敷を後にした。
「心配だね…」
「あの蔵は厄介この上ない」
 次も望海を連れて行くか迷うところだ。
 芋焼酎をひと口飲んで考え込んでいると、「惟親くん」と新が眉を八の字にして僕を見ている。
「なんだ?」
「金屋子神について訊いてもいいかな?あまり良い神様じゃないのは、青砥さんの家にいてよく分かったよ。ただ、詳細を知っておいた方が良いと思ってね」
 新は情けない顔を俯けて、箸先で鯖の味噌煮を突いた。
 本心は聞きたくはないし、可能なら関わりたくもない。青砥家の依頼を蹴りたいといったところだろう。
 大根の醤油漬けを食べ、芋焼酎で口の中のものを流し込んでから口を開く。
「伊邪那美命が”神産み”の際に火の神、軻遇突智かぐつちを産んだのは知ってるな?」
 これに新は無言で頷く。
「軻遇突智を産んだことで、彼女の陰部は焼け爛れた。苦しみ悶え、病に伏せ、糞尿から埴安神はにやすかみが産まれた。そして、吐瀉物から金山彦神かなやまひこのかみが産まれた。これらは双神ならびかみで、埴安神の対になるのが罔象女神みつはのめのかみ。金山彦神の対となるのが金山媛神かなやまびめのかみになる」
 新が箸の先を咥えたまま渋面を作る。
「金山と金屋子の音が似てる気がするね」
「その通り。地方によって別の名で呼ばれるんだ」
「まさか…」
 怖々と目を瞠る新に、僕は頷く。
「金山媛神こそが金屋子神の正体だ」
 芋焼酎を煽る。
 箸を手に、角煮を摘まみ上げた。頬張れば、甘辛い中に生姜が利いている。じっくりと煮込んだのだろう。ほろほろと解ける肉から、口いっぱいに旨味が広がる。
 新は動揺に目を揺らしながら、茄子の煮びたしを口に運ぶ。
 しばしの沈黙の後、新は「惟親くん」と喉を鳴らした。
「金屋子神は何の神様になるのかな?」
「食事中にする話ではないが、まぁ、良いだろう」
 箸を置く。
「吐瀉物から産まれた金山彦神と金山媛神は、その形状もあって鉱山の神となった」
「…ん?ごめん。吐瀉物が鉱山?よく分からないんだけど…」
「溶岩を連想すれば分かりやすいかもな。特に、金山媛神は金屋子神として鍛冶の神になる。溶かしたてつが、その連想に当て嵌まるからだ。神とは言われるが、鍛冶の神としての金屋子神は非常に気性が激しい。吐瀉物から産まれたんだ。その容姿も想像がつくだろう。当時、悪魔と言う概念があれば、悪魔と言われていたような性格だ。邪神と言われなかったのは、ギブアンドテイクが成り立っていたからだ。悪魔がそうだろ?契約するにはハイリスクだが、それに似合うリターンがある」
「まぁ…そうだけど…」
 新は唇の端を捻じ曲げ、ガラスの小鉢を手にすると、酢の物を口いっぱいに流し込んだ。
 食欲がなくなる前に、手早く腹の中に納めてしまおうという算段なのだろう。味わうというより、腹を満たす行為に専念しつつ、僕に視線で話の先を促している。
「金山媛神と金屋子神は同一の神だが、金屋子神の方がより人間社会に浸透している。鉱山よりも、鍛冶の方が身近だったんだろう。特に蹈鞴たたら場での知名度は高かった」
 不作法だが、クリームチーズの味噌漬けを指で摘まんで口に放り込む。
 甘じょっぱい指を舐め、芋焼酎を口に運ぶ。
「金屋子神は女神だったことが、この神を悪魔たらしめる気性の激しさとしたんだ」
「女性だと問題なの?」
 新は首を傾げ、角煮に添えられた半熟卵を頬張る。
「金屋子神は嫉妬深いんだ。醜女だからこそ、嫉妬深さと執念深さは信仰ある者を苦しめた。蹈鞴場に於いては、金屋子神のハイリスクは嫉妬。ハイリターンは、金屋子神だけに心酔していれば最高の鐵が取れるというものだ」
「金屋子神に心酔?信仰心とは違うのかな?」
「そこが畏ろしいところなんだ。さきにも言ったが、金屋子神は嫉妬深い女神なんだ。蹈鞴場に女は立ち入ってはならない。村下むらげ…つまり、蹈鞴師は独身が好ましく、女と交わったことのない男が好かれた。ルールを守る村下は、金屋子神に好かれ、加護を受けることが出来た。ただ、金屋子神はとても残忍で、血を好んだ」
「え?」
 ぎょっと新が目を丸めた。
「神様が穢れを好むの?」
「だから言っただろ?悪魔だと」
「言葉の綾かと…」
「そんな回りくどい言い方はしない」
 芋焼酎で唇を湿らせ、ふ、とひと息吐く。
「神というのは、穢れを嫌う。己が穢れかねないからだ。だが、金屋子神は例外だ。村下が死ぬと、その死体を蹈鞴炉の柱に括りつけさせた。そうすると、なぜか良い鐵が取れる。死体が腐敗し、紐から腐り落ちると、村下は死体を片付け、新たな死体をぶら下げる。鐵は村の財産だからな。金屋子神が蹈鞴場に飽きて、他所へ移った途端、鐵は取れなくなると言う。そうなれば、村は立ち行かない」
 新は苦虫を噛み潰したような顔で、鯖の味噌煮を口に運んでいる。
「当然、そこまで厳格に金屋子神を祀った蹈鞴場はないと思うが、ゼロとも言い切れない。数えるていどは、死体くらい吊るすこともあっただろうな」
 僕は酒を煽り、ゆるりと頭を傾け、廊下を覗き込む。
 毬藻のような妖怪が数匹転がって行ったのと入れ替わりに、虚ろな表情の望海が歩いて来た。胸元が大きく開いたVネックの、ピンク色のニットとショートパンツといった装いだ。ワンサイズオーバーの上着は、唯一の取り柄の巨乳を隠してしまっている。
 それでも、ショートパンツから伸びる白い足は欲情をそそる。
「望海ちゃん。寝てたんじゃないの?」
 新の問いに、望海はぼんやりとしている。
 寝惚けているのか、夢遊病者のようだ。
 思わず、僕と新は目を見合わせた。
「望海ちゃん。大丈夫?」
 新が心配そうに眉根を寄せるのも仕方ない。
 望海は虚ろな表情のまま、何を言っても言葉を返さないのだ。蔵で見た症状と同じだ。違う点は、自ら此処に来たというものだ。
 それが望海の意思かは分からないが。
「望海。こっちに来い」
 鴨居の前で足を止めた望海を手招くと、よたよたと歩いて来る。
「そこに座れ」と、手前を指さしたのに、望海は倒れるように僕に抱きついて来た。
 慌ててタンブラーを置き、新が座卓を引いた。
 汁椀から貝汁、タンブラーから芋焼酎が少し零れたが、料理がひっくり返ることはなかった。それに安堵したのも束の間、僕には望海が抱きついている。
 組んだ胡坐の上に、腰を密着させるように、向かい合わせになるように座っているのだ。
 抱きついた拍子に、弛んだ襟ぐりからふくよかな乳房が覗く。寝るところだったのだろう。下着は脱いでおり、張りのある乳房と薄紅の乳首が見える。
 まさか夜這いでもないだろう。
 虚ろな顔に男を誘う色気はない。
「どうした?発情してるのか?」
 普段ならセクハラだと喚く望海が、何の反論もしない。
 僕の顔を覗き込む目は虚ろで、焦点が定まっているのかも怪しい。
「寝惚けてるのかい?」
「さぁ、どうだろうな」
 望海の首筋に鼻を擦り寄せ、すん、と匂いを嗅ぐ。 
 シャンプーやボディーソープの匂いに混じり、ほんのり甘い女の匂いがする。この匂いは嫌いじゃない。
「何か取り憑いてたりする?」
「いや。そもそも僕は、隠れているモノを嗅ぎ取れるほど優秀じゃないんだよ」
 そう言って肩を竦めれば、新が何とも言えない表情を作る。
「望海。寝惚けてるなら起きろ」
 左手を望海の腰に添え、右手で胸を掴む。
 ビンタの1、2発が飛んで来るかと思ったのに、これにも無反応だ。
 ニット越しとは言え、てのひらに馴染む重みと柔らかさがある。丹念に揉んでも、乳房の奥に人工的な塊はない。天然ものだ。
 ただ、EかFかと思った胸は、掌から僅かに零れるていど。
 襟ぐりから覗き見ても、Fはない。
「思ったより、少し小ぶりだな。寄せて上げるというフェイクか?」
 それでもデカく、揉み甲斐はある。
 ニット越しというのがもどかしいが、刺激を与え続ければ乳首がツンと立ち上がった。
 一応、反応はするらしい。
 襟ぐりから覗き込み、硬く膨れ上がった乳首を捏ね回す。
 どこで目覚めるだろうか。
 直に触ってみるかと、ニットの中に手を突っ込めば、流石に新から「惟親くん」と窘められた。
「まぁ…分かったよ」
 すごすごとニットから手を抜き取り、剥き出しの太腿を撫でる。
 このまま寝室に連れて行って犯そうかと欲が湧くが、思いのほか、僕の下半身は中途半端だ。
 原因は新がいるからではない。望海が無反応だからだ。
「面白みに欠けるな」と、ため息が出る。
 ここまで愛撫して、悲鳴も嬌声も上がらない。
 まるでラブドールだ。
 乳首が反応したのは、快楽とは違う、体の仕組みというやつなのかも知れない。それを思うと、次第に興奮も冷めていく。
 僕が渋面を作ると、新が僕の横に移動して来た。
「おい。寝惚けてるなら目を覚ませ。本当に犯すぞ」
 両手で尻を掴み、腰を揺らせば、望海の体が後ろへと仰け反った。
 新が慌てて望海の背中を支える。
「望海ちゃん?どうしたの?」
 問うたところで、虚無の表情は変わらない。
「惟親くん…」と、何とも情けない声だ。
「何か憑いてる可能性が高いな」
 厄介だな、と思う。
 例えば悪霊だ。
 僕はそれらを祓う力がある。だが、人間に憑依したモノを祓う繊細な技術は持ち合わせていない。下手をすると、人間の精神ごと壊しかねないのだ。
 今の望海は、何が憑いているのか判断が下せない。
「どうしたものかな」
 細い腰を撫で、「おい」と望海の目を覗き込む。
「聞こえてるか?ちょっとは反応しないと面白味がないだろ」
 太腿を撫で、ニットを押し上げる乳首を抓んでも、悲鳴の一つも上がらない。
 殴られたくはないが、多少の拒絶くらいはしてみせても良さそうなものなのに。
「ねぇ、惟親くん。人間って瞬きしなくても大丈夫なのかな?」
 新が僕の横から望海の顔を覗き込む。
「さっきから瞬きしてないよね?」
 新に言われて、「確かに」と眉宇を顰める。
 人間は忙しないくらいに、ぱちぱちと瞬きを繰り返すものだ。瞬きをしなければ、目玉が渇くのだと聞いたことがある。
 僕たちも瞬きはするが、人間のように頻繁にぱちぱちさせない。
 じっと望海の目を注視する。
「瞬きか……。してないな、瞬き」
 これで夢遊病の線は消えた。
「おい。お前は誰だ?」
 ぺちぺち、と頬を叩きながら問いかけるも、返る声はない。
「青砥家の縁者か?もしくは、金屋子神に繋がる何かか」
 これに、望海の目が動いた。
 ぎょろぎょろと、左右の目玉が不規則に動く。人間の目玉どころか、僕と新の目玉だって、そんな動き方はしない。
 新は驚愕し、「エクソシストだよ」と唾を嚥下する。
「やっぱり悪霊憑きじゃないの?」
「こいつ…霊媒体質じゃないだろうな?」
 僕の言葉に、新がぎょっと目を丸める。
「惟親くん!どうしよう!?」
「落ち着け。蔵で、何かが入り込んだんだ」
 問題は、何が入り込んだのかが分からない。
 霊というのは、自分たちを認識できる人間に唾を付けたがる。体を乗っ取り、己の死に際の苦痛を知らせようとする。自分はこんなに苦しかったのだ。理解してくれ、同情してくれ…と。
 もしくは、寂しさから仲間を増やそうと自殺を教唆する。
 それらは、人間にとっては悪霊にカテゴライズされるのだろう。ただ、悪意はあっても根本では救いを求める魂だから、祓うことは容易い。
 体から出て来てくれればの話だが。
 厄介なのは、その手の霊ではない場合だ。ただ、死ぬに至った記憶を見て欲しいだけの霊は、別に救ってもらおうという要求はしない。記憶の共有こそが望みなのだから、成仏という概念がない。
 そういった霊は、生前、殺人鬼のようなイカれた人間であったことが多い。
 皿にこびり付いた油汚れのごとく、執拗に生前の罪を誇示し、承認欲求を満たそうとする。または、死して尚、己のテリトリーに執着する故の警告だ。
 それでも、悪霊にんげんであるだけマシなのだろう。
「望海。聞こえてるか」
 頬をぺちぺちと叩く。
「とりあえず、寝てみろ。ひと通り夢でも見て、お前に憑いてるモノの要求を確認するんだ」
「無理だよ!こうして起きて、ここまで来てるってことは、望海ちゃんからのヘルプなんだよ」
「それを前提にすれば、望海が無意識下で拒否したことになる」
 望海ていどの人間が、拒否できるのかは分からない。
 ただ、人間には火事場の馬鹿力というものがあるから侮れないのも確かだ。
「望海。ここに来たのは、八十吉に言われたのか?それとも、無意識にSOSを出しているのか?さもなくば、僕たちの会話が聞こえたか?」
 にやり、と口角を吊り上げ、望海の顔を覗き込む。
「金屋子神の話でも聞きたくなったか?」
 虚ろな目が、再びぎょろりと動く。
 微かに身動ぎ、ゾンビのような動きで僕の肩に手を置いた。
「意識が戻ったのかな?」
 新の笑顔を無視するように、望海が僕に擦り寄った。
 頬擦りし、首筋に唇を寄せたかと思った瞬間、首の付け根に思いっきり噛みついた。
「いっ!!」
「望海ちゃん!」
 新が慌てて望海の頭を押さえた。
「この莫迦!」
 僕は僕で望海の肩に手を当て、引き剥がしにかかる。
 相手が人間なので、全力で引き剥がしにかかると殺しかねない。特に鬼の新の異能は剛力だ。人間の頭など簡単に引き千切ってしまう。
「望海ちゃん!ダメだよ!」
 と、新は力加減に四苦八苦しながら、望海の口の端から指を捻じ込もうとしている。
「惟親くん、乱暴にしちゃダメだからね!」
「分かってるっ」
 相手が人間、それも非力な望海だからだろう。肉を噛み千切るほどの力を持っていないのが幸いしている。
 が、痛いのは痛い。
「望海!」
 望海を引き剥がそうと、頭に手を当てた時だ。何かが体の中に入って来た感覚に怖気が走った。
 皮膚の下を蚯蚓が這いずっているグロテスクな不快感がある。もちろん、実際に蚯蚓が蠢いている訳ではない。
 僕が顔を顰めている前で、望海の口から力が抜けた。そのまま僕の胸に頬を寄せ、すやすやと寝息を立て始める。
「…寝た?」
 新がおっかなびっくりとしている。
「惟親くん、大丈夫?」
「思いっきり噛みやがった」
 僕は噛まれた肩に手を当て、覚えのあるぬめり・・・に顔を顰める。
 傷口がじくじくと痛む。
「新。望海を退かせてくれ」
「分かった」と、新が望海の両脇に手を差し込み、ずるずると引き摺って僕の上から下ろした。
 そのまま畳の上に転がしても、起きる気配はない。
 寝返りを打ち、膝を抱えたのを見て、単なる熟睡だと結論付ける。
 望海の中のモノは、完全に僕に移動して来たのだ。
「手を退けて」
 新に言われるがままに手を退ければ、傷口におしぼりを当てられる。
「出血しているけど、傷口は大したことはないよ。肉も抉れてないしね」
「自分の血を見たのは何百年ぶりかな」
 自嘲に口角を歪ませ、指を濡らす血を舐めとる。
「あとは自分で押さえておく」
 新の手を払い、自分でおしぼりを押さえる。
「惟親くん?」
 新が怪訝に目を眇めた。
「どうしたの?頭に来すぎて、可笑しくなった?」
「なんのことだ?」
 意味が分からないと新を見れば、新は自分の口元を指さした。
「笑ってるから」
「僕が?」
 そっと口元に触れれば、確かに笑みを浮かべている。
 気付かなかった。
「悪い、新。望海を頼んだ。僕は寝る」
 そう言って立ち上がれば、新が驚いたように目を丸める。
「寝る?」
「そう寝る」
 僕はにたりと笑い、新を見下ろす。
 血だらけのおしぼりを投げれば、新はきょとんとした顔で受け取った。
「後は頼んだぞ」
「え?急に?どうしたの?お酒だって残ってるよ?」
 おろおろとする新に手を振って、「おやすみ」と座敷を後にする。
 眠くはないが、僕の中に何が入ったのかを確認するには寝るしかない。柄にもなく心が浮き立っているのか、足が自然と前へ前へと進む。走り出さないようにブレーキをかけながら、自室へと急ぐ。
 屋敷の奥の奥。
 幽世の手前にある無地の襖が、僕の自室だ。本来なら鶴が2羽描かれているのだが、夜になると何処かへ飛んで行ってしまうのだ。朝になると、元に戻っているから問題はない。
 部屋に入れば、三紗が布団を整えてくれている。
 寝るくらいしか部屋にはいないので、なんとも殺風景だ。部屋の真ん中に布団があり、その傍らに和紙を張られたスタンドがある。
 それだけだ。
 飛び込むように布団に横になる。
 目を伏せれば、不思議と睡魔が襲って来た。 
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