魂売りのレオ

休止中

文字の大きさ
上 下
125 / 178
第十七話 ウォルフの地獄巡り

ウォルフの地獄巡り 六

しおりを挟む
 ——これまでよくがんばったね。次は天国だよ。その名も天道。地獄とは名ばかりの、極楽の世界だ。ここで最低三日は過ごしてもらって、あとは君の好きなタイミングで最終試練に向かうことができる。こんなに楽な試練はないね。まあ、次に向かう意思があればだけどね。

「ふう……」
 ウォルフはよく冷えたぶどう酒をひと口飲み、グラスをテーブルに置いた。
 体は雲のソファに沈んでいる。グラスを置くテーブルも雲で作られている。大地ははるか遠く、眼下に見下ろしている。
 彼女は空高い雲の上にいた。
「音楽でも聴きてえなア」
 そうつぶやくと、どこからともなくジャズ・バンドが現れ、気の利いた音楽を聴かせてくれた。
 見上げれば、青空の中に太陽が浮かんでいる。しかしまぶしくはない。まるで彼女をよろこばせるために輝きを抑えているかのように、やわらかい。
「……」
 念じるともなく、ウォルフは思考をちらと動かした。すると目の前にごちそうが並び、数メートル先に舞台が現れ、劇がはじまった。
 この世界ではすべてが思い通りになる。願ったことがすべて現実になり、不都合なものは存在しない。ありとあらゆる願いが叶えられる。
(しっかしなァ……)
 ウォルフは料理をつまみながら、ぼんやり思った。
(そろそろ行かねえととは思うんだけどなァ)
 そう、行かなければならない。これは試練であり、突破しなければ現実には戻れない。
 方法は簡単だ。雲から飛び降りればいい。
 だが、それができるほど快楽は甘くない。
 彼女はここにきて、これまでの地獄の記憶を取り戻していた。畜生の生涯、餓鬼の苦しみ、修羅の痛み、それらすべての年月が頭にあった。
 あれだけの苦痛を味わったあとである。三日過ごせばよいと言われて、どうして三日で終われるだろう。
 気づいたときには数百年が経っていた。
 そろそろ行かないと、と数千年言い続けた。
 このままではいけない、と思いながら数万年が過ぎた。
 だが、終われない。終わるには明確な意志を持って飛び降りなければならない。あいまいな気持ちだと雲にすくい上げられてしまう。
 ある意味ここが最も恐ろしい地獄かもしれない。いつでも出られるといいながら、わずかの迷いも許されないのだ。
 今日も最後の贅沢をして、さあ飛び降りようと思うが、動けない。一歩足を踏み出せばいいだけなのに、極上の食事や、あらゆる快楽が脳裏にちらつき、座り込んでしまう。
(もうちっとだけ、うまいもん食うかァ)
 そう言って、再び食事をとる。それからマッサージ師を召喚し、揉みほぐしてもらう。
 極楽である。これが永遠に続くのである。
 とはいえ、万年もおなじ日々を繰り返せば、いかな快楽もさすがに飽きが生じる。幸福とは、こころの浮き上がりである。精神が平坦なところより上に持ち上がったとき、ひとはしあわせを感じる。その精神が上がりっぱなしでは、幸福が通常になってしまう。すると、ひとはより高い幸福を求めておかしくなる。
 ウォルフはその実例を見に散歩に出かけた。天上の世界にはちらほらと人間がおり、互いに望めば話すことができた。
 しばらくすると、ひとり見つけた。
(ああ、まだやってンのか……)
 ウォルフはそれを見て、心底呆れた。
 雲のベッドの上で、青い髪の女が全裸で腰を振っている。
 その下には、少年のような、青年のような、あるいは少女にも似た黒髪の男が敷かれ、助けを求めて叫んでいる。
 その左右から、男が逃げられないようふたりの少女がおさえつけ、ついでにちょっかいを出している。
(よくもまあ、飽きねえなア)
 と、ウォルフは青髪の女を眺めた。そいつは見るたびに性の相手を召喚し、淫行の限りを尽くしていた。いつだったか、大量の男が肉団子のようにして空中に浮かんでいるのを見て驚いたが、あとで聞いたら女は中に包まれよろこんでいたという。
 そんな彼女がここ数年、この行為を続けている。いつだったか恐る恐る近づいて話してみると、
「なんだか男の子をいじめたい気分なの。一年くらい快楽を与え続けて遊ぼうと思って。おもしろいわよ。果てるたびに敏感になって、もう無理、もう無理って泣き叫ぶのに、萎えない魔法をかけて、ずっと、ずうーーっと、かわいがってあげるの。うふふ」
 と、あえぎあえぎ教えてくれた。
 それまでもかなり過激な行為を行なっていたが、内容はどんどんエスカレートしている。もう並の快楽では満足できないのだろう。ウォルフもみだらな欲望にふけったことは幾度となくあったが、常軌じょうきいっすることなくほどほどで済んだのは、この女を見ていたからかもしれない。
 それは決して悪でも不道徳でもない。なにをするのも自由な世界である。
 しかしウォルフはどこか薄暗いものを感じて卑下ひげしていた。こうはなりたくないと思い、目に見えない“常識”を信じ、節度を持って暮らすべきだと思った。
 ——数万年も極楽に身を投じながら、なにを他人ごとのように。
 ふと、そんな疑問を抱きながら、ウォルフは再び歩いた。
 常識にとらわれることが正解なら、この世界は間違いである。彼女は不意に、かつて亡くなった父の言葉を思い出した。
「いいかウォルフ。ひとの幸不幸ってのは心構えで決まンだ。不幸にならねえには、受け入れるこった。物事や相手が思い通りになンなくっても、しょうがねえってあきらめて受け入れちまえば、それ以上不幸にはならねエ。でももしおめえがしあわせになりてえってんなら、できる限り願いを叶えるこった。でもよォ、どっちも無理なんだよなア。いやなことぜんぶ納得するなんて、とてもじゃねえけど無理だしよォ、人間の欲望ってのは限りがねえから、いくら願いを叶えても終わりがねエ。だから人間は、ほどほどに生きるのが一番だっぺよ」
 ほどほどが一番。この言葉が幼少のウォルフに染み込み、いまもなお深く根づいている。
 だから極楽をたのしみきれないのかもしれない。青髪の女のようにどこまでも快楽を追求できないし、無限の自由に疑問を抱いてしまう。
 かといって、捨てることもできない。
 いまだって、どうこうしようと思っていない。ただ気分転換に歩いているだけである。
 ——というより、欲望にのめりこむ他人を見て、おのれを肯定しようとしているのかもしれない。悩んでいる分まだマシだ、行かなければと葛藤している自分は正常だ、そう言い聞かせているのかもしれない。
 しばらく歩くと、一本の樹が見えた。
 雲から生える、みきのがっしりと太い広葉樹で、葉と葉のあいだから、ちらほらと金色の輝きが見える。近づいて見ると、金貨がっているのがわかった。
 金の生る木である。現実では驚くべきものだが、この世界ではごくユニークな一品でしかない。
 その幹を、男がひっきりなしに登り降りしている。どうやら金貨をもいでいるらしく、下で待つ使用人のかごに放り込んでは、「これで肥料を買えるだけ買ってこい」とか「この調子でいつか王になるぞ」とか言いながら、必死になって汗を垂らしている。
 なぜこんなことをしているのか。天道において、金は一切の無価値である。
 だが世の中には、働くのが好きという人間がいるものだ。おそらくあれはそんな男なのだろう。
 ウォルフは気まぐれに近寄り、話しかけた。
「なにやってんだべ?」
「おっと、お客さんでやんすか」
 男は雲に飛び降りると、ぺこぺこした態度で揉み手をし、下手くそな敬語で言った。
「見ての通り、金を集めてるんでやすよ」
「なんでンなことしてっぺ?」
「そりゃ、ほしいからでやんすよ」
 ウォルフにはわけがわからない。使うあてのないものだし、ほしければ願うだけで済む。わざわざ息を切らせて苦労する理由がない。
 だが、男は言った。
「いやね、あっしも最初そう思ったでやんすよ。ほいっ願いよ叶え、って言ったら、ぜんぶ思い通りになりやした。あっしだけの王国、豪華な城、色とりどりのハーレム、従順な民衆、ぜ~んぶ手に入りやした。それ、どうしたと思いやす?」
「どしたんだべ?」
「消しちまいやした」
「はァ!?」
 ウォルフは心底驚いた。なぜ消す必要がある。それを望んでいたのだろう。労せず得られるに越したことはない。なのにこの男は、疲れが気持ちいいとでも言わんばかりに汗を拭い、ニコニコと話す。
「どしてだべ!?」
「だって、つまらないでやんすよ」
「つまらない?」
「へえ。思ったら手に入る。願ったら叶う。こんなつまらないことはありやせん。だからあっしはここに金貨の種を植えて、五十年間毎日世話してきたでやんすよ。水や肥料はもちろん、音楽を聴かせたり、話しかけたりしやした。したらほら、見事な金貨を咲かせたでやんしょ」
「……」
 ウォルフは呆然と聞いていた。そんなもの、働かずとも一瞬で召喚できる。それをこの男はわざわざ五十年も心血を注いだのだ。
「おめえ……バカか?」
「へえ?」
「だって、なんで楽しねえんだべ? 好き放題できるってのに、どして自分から苦労してんだっぺ?」
 それを訊くと、男はフフンと胸を反らし、樹の幹を叩いた。
「どうでやんす。見事な樹でしょう」
 ウォルフは金の生る樹を見上げた。彼女の肩幅より太い幹の上から、一本いっぽんどっしりした硬い枝が八方を巡り、葉が一面に広がっていた。その一枚いちまいがみずみずしく潤い、鮮やかな緑とともに、いのちのにおいを振り撒いた。
 途端、
「……っ!」
 ——青葉のにおい!
 ウォルフは声を失った。
 何万年も忘れていた森の香りが久しく匂っていた。なにを得るにもポンと生まれる世界では、生きた樹に触れることなど、ろくすっぽなかった。
 それはほんのりあわく、かすかだった。しかしどんな豪華な食事より、どんな悦楽より、彼女の胸に深く染み込んだ。
 ——いや、突き刺さったというべきか。
「あっしが育てたんでやんすよ」
 男は自慢げに言った。決して謙遜けんそんしない、堂々とした声だった。
 あたりまえだ。謙遜などするはずがない。彼は自分の力で事をしたのだ。やり遂げた男が、弱い言葉など吐くわけがない。
 ウォルフは感極まり、涙を浮かべた。それに気づかない男の隣で、使用人の女が言った。
「もう、自慢ばかりして。ごめんなさいね。こんなの単なる道楽なんだから」
 女は馴れ馴れしく男の肩に触れていた。どうやら妻らしい。
 パッとしない顔立ちだった。決して醜くはないが、とりたてて光るところもない、どこにでもいる村娘であった。
 どんな美女でも思うがままなのに、である。
 だが、ウォルフは疑問に思わなかった。瞬時に理解した。男は自然と彼女をこのんだのだ。
 おそらく五十年前、大望に向けて必要最低限のものだけを生み出した。ほしいものはいつか成り上がってつかみ取る。だから美女はいらない。豪華なものは傍に置かず、できるだけ質素にした。
 そして地道を選ぶような人間だから、思い通りの操り人形ではなく、個々の意志を持つ生きた人間を欲したのだろう。そうしてともに働くうちに、こころがかれ合い、ひとつになった。そんなふたりの汗にまみれる日々が、彼らの向かい合う笑顔からふわりと浮かび上がった。
 唯一のずるは歳を取らないくらいか。なんにせよ、まぶしい笑みである。
 それは、すべてが手に入る極楽で、ただひとつ生み出せないものだった。
 だからこそ、ウォルフは打ちひしがれるほどに胸を打たれたのだ。
「あら、どうなさいました?」
 女がウォルフの涙に気づいた。
「あれ、どうしたでやんすか?」
 男が訊いた。
「……助かったべ」
 ウォルフはニコリと口元を動かし、言った。
「おれ……おめえに会わなかったら、ずっと終われなかったかもしんねエ」
 言いながら、ウォルフは雲の切れ目に向かった。
 ゆっくりと、しかし躊躇ちゅうちょのない歩みだった。
「……行くでやんすか?」
「ああ」
「下はつらいでやんすよ」
「ああ」
「……お達者で」
 ウォルフは背を向けたまま右手を挙げた。
 長い夢を見ていたな——そんなことを思っていた。
 いい夢だった。きっと今後、どれだけの人生を積み重ねても、こんな夢は見られないだろう。
 だが、夢は夢だ。
 まやかしに過ぎない。
 だが、その中で見た、最後にして唯一の本物の笑顔を、できることなら自分も手に入れたい。
 そんなふうに、彼女は思った。
しおりを挟む

処理中です...