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第十七話 ウォルフの地獄巡り
ウォルフの地獄巡り 七
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——いい夢は見れたかな? これから最後の地獄、人間道がはじまるよ。人間道は、畜生道、餓鬼道、修羅道、天道、今回抜いた地獄道と違って、唯一“悟り”を開くことのできる世界だ。え、悟りってなにかって? さあ、おれも知らないよ。でも、その悟りってヤツを手に入れたら、君は晴れて悪魔の友人だ。さあ、がんばって。君を助けてくれている、すばらしい友人のためにもね。
——カタカタカタ、カタカタカタ。
薄暗いオフィスの片隅で、キィボードが寂しげに音を立てる。
——カタカタ、カタカタカタ。
節電と称して部屋の照明は消され、室内を照らすのはモニターの明かりと、デスクに備えられたアームライトだけ。非常口の誘導灯がうっすら光るも、全体を照らすほどの輝きはない。
ブラインドを閉め忘れた窓に目をやると、道路を挟んだ向こう側のビルが、ぽつ、ぽつと暗くなっていくのが見える。
ウォルフは隈のできた目で、ぼんやりとそれを眺めた。今日もまたおれが最後か、と気だるくチェアに寄りかかった。
「はぁ……」
帰って原稿を描きたい。もう夢だのなんだのと言っている歳ではないが、このまま社会の歯車となって消えていくのは忍びない。
子供のころはマンガ家になるんだと言って笑っていた。自分に才能がないことにも気づかず、謎の自信で将来は大物作家になるなどと豪語していた。
そうしてまともに勉強も就職活動もせず、いまに至る。
毎日毎日やりたくない仕事のために出社する。不得手な業務を嫌々やり、いつも怒られる。
今日もそうだ。早く帰って録り溜めたアニメを見ながら夢に向かって進みたいと思っているのに、気の入らない資料作りを、ひとより遅い手で必死に終わらせようと、もう二時間も残業している。
くたくたになって家に帰ると、家事をするのが精一杯で、もうなにもできない。週にいちどの休日も、ほとんど横になって過ごしてしまう。
このままで終わりたくない。女がこんなことを言うのもなんだが、何事も成さずに死にたくない。世に名前を残し、広く作品を読まれ、往生したい。
「別に作家になんてならなくてもいいじゃない。あんたならいい奥さんになるわよ」
学生時代の友人は、ふたり目の子供を背負いながら、そんなことを言っていた。女はそれでいいのかもしれない。そんな可能性もいくつかあった。
だが、なぜか夢をあきらめきれない。ふつうの人生を選べば楽になるとわかっているのに、どうしても固執する。
いつだったか、酒のいきおいで占い師に見てもらったことがある。すると、あなたは前世も、その前も、ずっと夢を追って苦労してきたと言われた。なんでも地上に生まれる前に、夢を追うと決めたとか。
そんなバカな話があってたまるか。そう言ってウォルフは金も払わず走り去ったが、どうにも頭に引っかかって、ときおり思い出してしまう。
「地獄だべ……」
残りの仕事があと一時間はかかると見て、ウォルフはぼやいた。毎日毎日こんな感じだ。こなしても、こなしても、仕事がくる。
まるで“賽の河原”だ。親より早く死んだ子供は罰として、三途の川の手前で石を積む。もう少しで積み上がるというところで、鬼がやってきて崩してしまう。
また積み直しだ。新しく一から石を積む。だがせっかく積んでもまた鬼が崩してしまう。
積み上げる。崩される。積み上げる。崩される。
仕事とおなじだ。いや、人生そのものが、おなじ毎日を積んでは崩れ、積んでは崩れの繰り返しだ。
なら、働くということは罰ではないか。生きることは罰ではないか。
いったい自分は、どんな罪を犯してこんな人生を歩んでいるのか——そう頭を抱えていると、
「あんたのせいであたしも地獄なんだけどさぁ」
口の悪い上司が扉を開け、入ってきた。いい歳こいて髪を紫に染める、しかし仕事のできる女だった。
そのうしろからツインテールの新入社員が顔を出し、
「ウォルフ先輩まだ終わんないんですかー? あたしたち待たされてるんですけどー」
と、あざけるように言った。
いまウォルフが作っているのは明日の朝一番で開かれる会議の資料だ。彼女らふたりは今晩じゅうに打ち合わせをしなければならない。そのため、定時で仕事を終わらせたというのに、休憩室で茶を飲んでいた。
「す、すンません……」
ウォルフは頭を下げざるを得ない。不向きな仕事を任されているとはいえ、非は彼女にある。本音を言えば断りたかったが、そうもいかない。
だから、口ごたえはできない。
「あんたねぇ、もうちょっと訛り直んないのかい? いいかげん営業もさせらんないしさぁ」
「すンま…………すいません」
ウォルフは地方の出だ。長年染み込んだ方言がなかなか抜けず、標準語をろくにしゃべれない。
「ふつうに話すこともできないんだから、困ったもんだよ」
それは本人が最も気にしている。直そう直そうと努力するが、一向に直らない。
「しょーがないんじゃないですかー? 山の中で育ったんでしょー? じゃー山で暮らせって話ですけどねー」
あははは、とふたりは笑った。いびりか、それとも本当に単なる笑い話なのか、腹を抱えて笑っている。
だが、これがどんな罵詈雑言より突き刺さる。胸を、心臓を、はらわたをぐちゃぐちゃに掻き回されるような、重い痛みを生む。
ウォルフは必死に歯を食いしばった。まぶたの力で涙を止めた。
泣いたところでどうにもならない。食うには働くしかない。つらいからといって職を失うわけにはいかない。どんなに逃げたくても、耐えるしかない。少なくとも彼女はそう考えている。
——だけど、もう、こころが折れてしまいそう……
「おい、おまえたち。パワハラか?」
突然、帰宅したはずの上司の声が聞こえた。
振り向くと、出入り口の枠に緑髪の美女が寄りかかっていた。
「なんだい、クソブス」
紫髪の上司が言った。
「あたしゃこいつに仕事を頼んだんだよ。遅いから文句言って、なにが悪いんだい」
続けて新人も、
「そーですよー。あたしたち帰れなくて困っちゃってるんですから。レオさんはあたしたちのこと、かわいそうだと思わないんですかー?」
と言った。すると、
「会議ならあさってに変更になった」
レオと呼ばれた上司はこつこつとヒールを鳴らし、ゆっくりと歩いた。
「そうかい、そりゃよかった。でもこんなに待たされて気に入らないね」
紫髪があからさまに毒づいた。しかしレオは気にも止めず、余裕のある声で、
「しかし暗いな。なぜ部屋の電気を消す。これでは目に悪い」
「ひとりのためにもったいないだろ。ただでさえこいつは残業してるんだ。節約しないとねぇ」
「おまえたちも残業扱いなんだろう?」
ギクリ——と対立するふたりがこわばった。薄闇でも眉を曇らすのがはっきりとわかる。
「もう帰ったらどうだ。もちろん、タイムカードを切ってな」
レオがそう言うと、
「そうさね。ああ、やっと帰れるよ。あたしゃ酒が飲みたくてしょうがないや」
「ですねー! あたしもー! それじゃーまた明日ー!」
ふたりは、いかにも解放されましたと言わんばかりに振る舞い、早々に出ていった。
「ふふ……」
レオは背中越しに見送り、ウォルフに微笑んだ。
「あ……ありがとオごぜます」
ウォルフは肩の力を抜き、疲れ切った笑顔で言った。このレオという女は、いつも彼女を助けてくれる。仕事に関してはストレートできびしいことも言うが、そこには一切の毒がない。実を言うと、このひとがいるとわかったときから、ウォルフは安堵していた。
「遅くまで大変だな」
レオはウォルフの右隣に立つと、隣席のチェアを引いて、隣に座った。
「どれ、見せてみろ」
そう言って、体を寄せて、モニターを覗き込む。すると肩がぴったり触れ、美しい横顔が間近に迫る。
(あっ……)
ふんわりとシャンプーのにおいがする。女どうしとわかっているのに、つい心臓が高鳴ってしまう。
「なんだ、こんな簡単なことか。よし、代われ」
レオはそう言ってウォルフの椅子を押した。だがウォルフは、
「で、でも……」
と言って踏ん張った。あまり迷惑はかけたくない。助けてもらったうえに、こんな雑用までしてもらうなんて申し訳ない。
しかしそれでも、
「いいから代われ」
と、やさしく言われ、口ごもりながら押し切られた。どうにもこのひとには逆らえない。もっとも、それが妙に心地いいのだが。
——カタカタカタカタカタカタ……
ものすごい速度で文字が打ち込まれる。マウスの動きにも無駄がない。最短距離で完成形に向かっているのが傍目でもわかる。
——カタカタカタカタカタカタ……
ウォルフはそれを、すごいと思うと同時に、情けなく思う。
(おれもこんなに仕事ができれば……)
別にこの仕事を極めたいなどと思っていない。だが、どうせやるならできる方がいい。しかしそれにしたって、できない自分がくやしい。
いつしか彼女はうつむいていた。目はモニターを見ているが、頭には届いていない。ただただレオの横顔だけが、闇の中でまぶしい。
「よし、終わった」
レオは背もたれに体重を預け、ぎいっとかたむいた。
ウォルフは肩を浮かせて笑顔を作り、
「ありがとオごぜえま——」
と言いかけた、そのとき、
「アッ……」
レオの左手が首のうしろを通り、ウォルフの左肩を抱き寄せた。スーツ越しに密着する肌と、触れ合う髪から、体温が伝わる。思わず声が漏れ、くすぐったい気持ちになり、まるで男女の色恋みたいなときめきを感じる。
しかし、
「おまえ、この仕事ずっと続けるつもりか?」
「え?」
意外な問いかけだった。声色こそおだやかだが、この状況からは想像もできないほどビジネスライクな言葉だった。
「お、おれは……その……」
「自分には向いてない、あまりやりたくない、そう思ってるんじゃないか?」
「……」
ウォルフは黙ってしまった。その通りだった。
だけど、そう簡単にやめられない。人生は長い。貯金だって、ろくにないのだ。
さらに、こう言われた。
「はっきり言おう。おまえには向いてない。やめてしまえ」
「っ……」
ウォルフは声にならない吐息を漏らした。唯一の助けであった上司からこんなことを言われ、ショックを受けないわけがない。心臓が気体となって、のどから出ていってしまうような心地だった。
喪失感で意識が真っ暗になった。
体に力が入らない。
これじゃ涙がこぼれてしまう。抑えろ。抑えろ。泣いたってどうにもならない。泣いたってなにも解決しない。
泣いたって、しょうがないんだ——。
そんな、ボロボロで穴だらけの意識に、
「わたしの妻になれ」
「へっ……ええっ!?」
ウォルフは涙腺が固まるほど驚き、レオと目を合わせた。目の前で、痺れるほど美しい瞳が闇に光り、まなじり強く言った。
「こんな仕事やめて、わたしの女になれ。わたしのために部屋を掃除し、洗濯をし、料理を作り、そしてわたしの癒しとなれ」
「で、でも……おれたち女だし……」
「いやか?」
レオはぐっと前にのめり、呼吸が混じるほど顔を寄せた。とても強い目をしていた。しかし、ほんの少し、眉と眉のあいだに不安の色が浮かんでいた。
「お……おれなんて……なんもできねえですし……ドジばっかだし……」
「関係ない」
「訛りだってひでえし……」
「それがいいんだ」
レオはひたいをコツンと当て、湯気のような声で言った。
「おまえがほしい」
「……!」
その言葉が、ウォルフの薄い胸にじゅっと溶けた。求められるよろこびが肌を震わせた。
ちっぽけな自分が、こんなに愛されている。
それまで塞いでいた涙が、どろっとあふれた。そしてきっと、同性だから気づかなかったが、自分はこのひとを愛していたんだと思った。
「……おれなんかでよければ」
ウォルフはにじむ笑顔で応えた。するとレオの気丈な表情が崩れ、泣き出しそうな微笑みに変わり、
「……うれしいっ」
強く、抱きしめられた。そのまま胸に顔をうずめ、はじめて肉身以外と抱き合うあたたかさを知った。
(人生で、一番あったけえかもしんねエ……)
そんな幸福を味わっている、そのとき、
「……ん?」
ウォルフの腹になにか当たるものがあった。固いが、尖った様子はない。向き合い方からして、レオの下腹部あたりにそれがある。
(なんだべ、これ。ちょっとビクビク動いて……)
妙な気がして顔を上げた。するとすぐそこには、艶のある笑みが、意味ありげにまっすぐ見つめ返していた。
それで、気づいた。
「あっ、コレ! 女だと思ってたけどまさか……」
レオは視線をビタづけのまま、ゆっくりと首を振った。
「生まれつき、そういう体だ」
「へえっ?」
「なにか問題あったか?」
そう問われれば、たしかに問題はない。ある意味好都合かもしれない。だが、問題ないとは決して言えず、間違いなく問題で、もっと言えばとんでもない大問題だった。
「はじめは暗い方がいいだろう」
レオはモニターの電源を落とし、アームライトを消した。
「ち、ちょっと待つべ! おれまだ……それにこんなとこで……」
「愛し合っているんだ。問題ない」
「レオさん!」
「さんなどつけるな。レオと、そう呼んでくれ」
「れ、レオ……せめてここでなくって、どっかちゃんとした……」
「フフフ……うるさい口はどの口だ?」
ああ、そんな、そんな……
フフフ、ここだな。おまえのかわいい口は。もうしゃべれないよう塞いでやろう。まずはキスからだ。それからとことんかわいがってやる。言葉を忘れるほど甘い声を出させてやる。かわいいヤツめ。騒ぐわりにはもう体が熱いじゃないか。わたしももう我慢できない。ああ、かわいいウォルフ。
わたしのウォルフ……
ウォルフ……
ウォルフ……
「ウォルフーー!」
レオがウォルフの体に飛びつき、パイシスの足から手を離させた。
「だ、大丈夫!?」
ぼくはヴルペクラの腕を振りほどき、ふたりの傍へ走った。話からすると、パイシスの手に触れるとやばいらしい。大丈夫かな?
「うっ……」
レオの肩とウォルフの背中が大地に打ちつけられた。レオは小さく声を上げたが、ウォルフは無表情だった。
しかし次の瞬間、
「はっ……!」
ウォルフは上体を起こし、辺りをきょろきょろ見回して、
「…………うん?」
なにやら不思議そうに頭を掻いていた。
「ウォルフ! 大丈夫か!」
レオが真っ青な顔で起き上がって訊いた。周りにみんなが集まり、声もなく見守っている。そんな中、
「……なんだべ? なんか、夢でも見てたような……」
ウォルフはボケっとしていた。どうやらなんでもないらしい。
ああよかった。みんなが大きな声を出すから驚いちゃったよ。地獄がどうとか言ってたから、とんでもないことになるかと思って心配しちゃった。
でもまあ、そうだよね。だってちょっと触っただけだったし、見ての通りウォルフはピンピンしてるしね。ちょっとだけ変なこと言ってるけどさ。
しかしどうやら、なにかあったらしい。
「うん、十分だ。認めよう」
悪魔パイシスがうれしそうに言った。
「ぼくらは友達だ。いくらでも握手するし、君が困ったときは助けになるよ」
「はァ……」
ウォルフは不思議そうにつぶやき、差し出された足と手を交わらせた。なんで? 資格だの試練だの、うだうだ言ってたのに。
ともあれウォルフはパイシスと友達になった。そのうえヴルペクラにつかまれ、
「さあ、パイシス様のお友達はわたくしのお友達です。たくさん飲みましょう」
と、パイシスともども館へ連れ込まれてしまった。
みんなわけわかんないって顔してたよ。いったいなにがどうなってるのさ。
と、そんな疑問を抱く中、
「まったく……無事で済んだからいいものの……」
レオがぼくの肩に手を乗せ、寄りかかった。なんだか疲れた顔で、やけに体重を預けてくる。
「レオ、どうしたの?」
「少々魔力をな……」
魔力?
「……あとで話そう。疲れたし、腹が減ってかなわん」
そう言ってレオは館へと歩いていった。なんだかそっけないなあ。愛する夫と話してるっていうのに、いったいどうしたっていうんだ。
しかし、なんかちょっとフラついてるように見えるけど……
「あーあ、だから悪魔なんか関わるもんじゃないのさ」
「え?」
そう言われ振り向くと、背後にライブラが立っていた。
「あれ、中で飲んでるんじゃなかったの?」
「大声が聞こえたから出てきたのさ。したら、大変なことになってたじゃないのさ」
「大変なこと?」
「レオが助けなかったら、たぶんやばかったよ」
「……どういうこと?」
「あいつ、触れたね」
「……うん」
「レオも触れたね」
「触れたっていうか、ウォルフにね」
「いいかい、悪魔の試練ってのは、まずクリアできないようにできてるのさ。友好を結べる者は試練が起きない、結べない者は試練が起きる。だから試練とはいいながら、事実上の選別なんだよ」
「……でもウォルフは無事だったよ」
「レオがありったけの魔力をぶちこんだからさ」
魔力を?
「レオ、フラついてただろ?」
うん……
「たぶんほとんどの魔力を使って、ウォルフの魂を守ったのさ。どんな試練かは知らないけど、内容にも干渉したと思うよ。あいつの全力だから、それこそ大地が消し飛ぶほどの莫大な魔力だろうね」
はあ……
「おかげでウォルフは助かったってわけさ。ま、あたしに言わせりゃ助かってないけどね」
……どういうこと?
「いいかい、人間ってのは持って生まれた器ってもんがあるのさ。悪魔はそれをわかってる。なのに、あいつは器以上の試練を乗り越え、資格を得ちまった」
それのなにが問題なの?
「あんたさ、小さなコップにバケツの水をぶちこんで、いっぱいを超えてもこぼれず入り続けるなんてことあると思うかい?」
そりゃあるわけないよ。
「そういうことさぁ」
……むむむ?
ぼくにはなにを言ってるのかよくわからなかった。バケツの水が小さなコップに入りきるわけないじゃないか。バカだなぁ。
「ま、見守ることだよ。いますぐなにかあるわけじゃないし、うまくいけば大きな力が手に入るんだ。お空の上の猫ちゃんたちに、なにごともないよう祈るんだね」
そう言ってライブラは酒を飲みに館へと向かった。なんとなくだけど、すごく不穏なことを言ってるのはわかった。
「祈る……か」
ぼくは祭壇に向き合い、ぎゅっと祈った。
「悪いことが起きませんように」
祈ったところで物事がよくなるわけじゃない。以前レオは、一個人が祈っても、神がどうこうするとは思えないと言っていた。
ぼくもそう思う。
だけど、ぼくの悪い予感はよく当たる。だから、せめて祈っておきたかった。ウォルフに悪いことが起きないように。レオに悪いことがおきないように。
——カタカタカタ、カタカタカタ。
薄暗いオフィスの片隅で、キィボードが寂しげに音を立てる。
——カタカタ、カタカタカタ。
節電と称して部屋の照明は消され、室内を照らすのはモニターの明かりと、デスクに備えられたアームライトだけ。非常口の誘導灯がうっすら光るも、全体を照らすほどの輝きはない。
ブラインドを閉め忘れた窓に目をやると、道路を挟んだ向こう側のビルが、ぽつ、ぽつと暗くなっていくのが見える。
ウォルフは隈のできた目で、ぼんやりとそれを眺めた。今日もまたおれが最後か、と気だるくチェアに寄りかかった。
「はぁ……」
帰って原稿を描きたい。もう夢だのなんだのと言っている歳ではないが、このまま社会の歯車となって消えていくのは忍びない。
子供のころはマンガ家になるんだと言って笑っていた。自分に才能がないことにも気づかず、謎の自信で将来は大物作家になるなどと豪語していた。
そうしてまともに勉強も就職活動もせず、いまに至る。
毎日毎日やりたくない仕事のために出社する。不得手な業務を嫌々やり、いつも怒られる。
今日もそうだ。早く帰って録り溜めたアニメを見ながら夢に向かって進みたいと思っているのに、気の入らない資料作りを、ひとより遅い手で必死に終わらせようと、もう二時間も残業している。
くたくたになって家に帰ると、家事をするのが精一杯で、もうなにもできない。週にいちどの休日も、ほとんど横になって過ごしてしまう。
このままで終わりたくない。女がこんなことを言うのもなんだが、何事も成さずに死にたくない。世に名前を残し、広く作品を読まれ、往生したい。
「別に作家になんてならなくてもいいじゃない。あんたならいい奥さんになるわよ」
学生時代の友人は、ふたり目の子供を背負いながら、そんなことを言っていた。女はそれでいいのかもしれない。そんな可能性もいくつかあった。
だが、なぜか夢をあきらめきれない。ふつうの人生を選べば楽になるとわかっているのに、どうしても固執する。
いつだったか、酒のいきおいで占い師に見てもらったことがある。すると、あなたは前世も、その前も、ずっと夢を追って苦労してきたと言われた。なんでも地上に生まれる前に、夢を追うと決めたとか。
そんなバカな話があってたまるか。そう言ってウォルフは金も払わず走り去ったが、どうにも頭に引っかかって、ときおり思い出してしまう。
「地獄だべ……」
残りの仕事があと一時間はかかると見て、ウォルフはぼやいた。毎日毎日こんな感じだ。こなしても、こなしても、仕事がくる。
まるで“賽の河原”だ。親より早く死んだ子供は罰として、三途の川の手前で石を積む。もう少しで積み上がるというところで、鬼がやってきて崩してしまう。
また積み直しだ。新しく一から石を積む。だがせっかく積んでもまた鬼が崩してしまう。
積み上げる。崩される。積み上げる。崩される。
仕事とおなじだ。いや、人生そのものが、おなじ毎日を積んでは崩れ、積んでは崩れの繰り返しだ。
なら、働くということは罰ではないか。生きることは罰ではないか。
いったい自分は、どんな罪を犯してこんな人生を歩んでいるのか——そう頭を抱えていると、
「あんたのせいであたしも地獄なんだけどさぁ」
口の悪い上司が扉を開け、入ってきた。いい歳こいて髪を紫に染める、しかし仕事のできる女だった。
そのうしろからツインテールの新入社員が顔を出し、
「ウォルフ先輩まだ終わんないんですかー? あたしたち待たされてるんですけどー」
と、あざけるように言った。
いまウォルフが作っているのは明日の朝一番で開かれる会議の資料だ。彼女らふたりは今晩じゅうに打ち合わせをしなければならない。そのため、定時で仕事を終わらせたというのに、休憩室で茶を飲んでいた。
「す、すンません……」
ウォルフは頭を下げざるを得ない。不向きな仕事を任されているとはいえ、非は彼女にある。本音を言えば断りたかったが、そうもいかない。
だから、口ごたえはできない。
「あんたねぇ、もうちょっと訛り直んないのかい? いいかげん営業もさせらんないしさぁ」
「すンま…………すいません」
ウォルフは地方の出だ。長年染み込んだ方言がなかなか抜けず、標準語をろくにしゃべれない。
「ふつうに話すこともできないんだから、困ったもんだよ」
それは本人が最も気にしている。直そう直そうと努力するが、一向に直らない。
「しょーがないんじゃないですかー? 山の中で育ったんでしょー? じゃー山で暮らせって話ですけどねー」
あははは、とふたりは笑った。いびりか、それとも本当に単なる笑い話なのか、腹を抱えて笑っている。
だが、これがどんな罵詈雑言より突き刺さる。胸を、心臓を、はらわたをぐちゃぐちゃに掻き回されるような、重い痛みを生む。
ウォルフは必死に歯を食いしばった。まぶたの力で涙を止めた。
泣いたところでどうにもならない。食うには働くしかない。つらいからといって職を失うわけにはいかない。どんなに逃げたくても、耐えるしかない。少なくとも彼女はそう考えている。
——だけど、もう、こころが折れてしまいそう……
「おい、おまえたち。パワハラか?」
突然、帰宅したはずの上司の声が聞こえた。
振り向くと、出入り口の枠に緑髪の美女が寄りかかっていた。
「なんだい、クソブス」
紫髪の上司が言った。
「あたしゃこいつに仕事を頼んだんだよ。遅いから文句言って、なにが悪いんだい」
続けて新人も、
「そーですよー。あたしたち帰れなくて困っちゃってるんですから。レオさんはあたしたちのこと、かわいそうだと思わないんですかー?」
と言った。すると、
「会議ならあさってに変更になった」
レオと呼ばれた上司はこつこつとヒールを鳴らし、ゆっくりと歩いた。
「そうかい、そりゃよかった。でもこんなに待たされて気に入らないね」
紫髪があからさまに毒づいた。しかしレオは気にも止めず、余裕のある声で、
「しかし暗いな。なぜ部屋の電気を消す。これでは目に悪い」
「ひとりのためにもったいないだろ。ただでさえこいつは残業してるんだ。節約しないとねぇ」
「おまえたちも残業扱いなんだろう?」
ギクリ——と対立するふたりがこわばった。薄闇でも眉を曇らすのがはっきりとわかる。
「もう帰ったらどうだ。もちろん、タイムカードを切ってな」
レオがそう言うと、
「そうさね。ああ、やっと帰れるよ。あたしゃ酒が飲みたくてしょうがないや」
「ですねー! あたしもー! それじゃーまた明日ー!」
ふたりは、いかにも解放されましたと言わんばかりに振る舞い、早々に出ていった。
「ふふ……」
レオは背中越しに見送り、ウォルフに微笑んだ。
「あ……ありがとオごぜます」
ウォルフは肩の力を抜き、疲れ切った笑顔で言った。このレオという女は、いつも彼女を助けてくれる。仕事に関してはストレートできびしいことも言うが、そこには一切の毒がない。実を言うと、このひとがいるとわかったときから、ウォルフは安堵していた。
「遅くまで大変だな」
レオはウォルフの右隣に立つと、隣席のチェアを引いて、隣に座った。
「どれ、見せてみろ」
そう言って、体を寄せて、モニターを覗き込む。すると肩がぴったり触れ、美しい横顔が間近に迫る。
(あっ……)
ふんわりとシャンプーのにおいがする。女どうしとわかっているのに、つい心臓が高鳴ってしまう。
「なんだ、こんな簡単なことか。よし、代われ」
レオはそう言ってウォルフの椅子を押した。だがウォルフは、
「で、でも……」
と言って踏ん張った。あまり迷惑はかけたくない。助けてもらったうえに、こんな雑用までしてもらうなんて申し訳ない。
しかしそれでも、
「いいから代われ」
と、やさしく言われ、口ごもりながら押し切られた。どうにもこのひとには逆らえない。もっとも、それが妙に心地いいのだが。
——カタカタカタカタカタカタ……
ものすごい速度で文字が打ち込まれる。マウスの動きにも無駄がない。最短距離で完成形に向かっているのが傍目でもわかる。
——カタカタカタカタカタカタ……
ウォルフはそれを、すごいと思うと同時に、情けなく思う。
(おれもこんなに仕事ができれば……)
別にこの仕事を極めたいなどと思っていない。だが、どうせやるならできる方がいい。しかしそれにしたって、できない自分がくやしい。
いつしか彼女はうつむいていた。目はモニターを見ているが、頭には届いていない。ただただレオの横顔だけが、闇の中でまぶしい。
「よし、終わった」
レオは背もたれに体重を預け、ぎいっとかたむいた。
ウォルフは肩を浮かせて笑顔を作り、
「ありがとオごぜえま——」
と言いかけた、そのとき、
「アッ……」
レオの左手が首のうしろを通り、ウォルフの左肩を抱き寄せた。スーツ越しに密着する肌と、触れ合う髪から、体温が伝わる。思わず声が漏れ、くすぐったい気持ちになり、まるで男女の色恋みたいなときめきを感じる。
しかし、
「おまえ、この仕事ずっと続けるつもりか?」
「え?」
意外な問いかけだった。声色こそおだやかだが、この状況からは想像もできないほどビジネスライクな言葉だった。
「お、おれは……その……」
「自分には向いてない、あまりやりたくない、そう思ってるんじゃないか?」
「……」
ウォルフは黙ってしまった。その通りだった。
だけど、そう簡単にやめられない。人生は長い。貯金だって、ろくにないのだ。
さらに、こう言われた。
「はっきり言おう。おまえには向いてない。やめてしまえ」
「っ……」
ウォルフは声にならない吐息を漏らした。唯一の助けであった上司からこんなことを言われ、ショックを受けないわけがない。心臓が気体となって、のどから出ていってしまうような心地だった。
喪失感で意識が真っ暗になった。
体に力が入らない。
これじゃ涙がこぼれてしまう。抑えろ。抑えろ。泣いたってどうにもならない。泣いたってなにも解決しない。
泣いたって、しょうがないんだ——。
そんな、ボロボロで穴だらけの意識に、
「わたしの妻になれ」
「へっ……ええっ!?」
ウォルフは涙腺が固まるほど驚き、レオと目を合わせた。目の前で、痺れるほど美しい瞳が闇に光り、まなじり強く言った。
「こんな仕事やめて、わたしの女になれ。わたしのために部屋を掃除し、洗濯をし、料理を作り、そしてわたしの癒しとなれ」
「で、でも……おれたち女だし……」
「いやか?」
レオはぐっと前にのめり、呼吸が混じるほど顔を寄せた。とても強い目をしていた。しかし、ほんの少し、眉と眉のあいだに不安の色が浮かんでいた。
「お……おれなんて……なんもできねえですし……ドジばっかだし……」
「関係ない」
「訛りだってひでえし……」
「それがいいんだ」
レオはひたいをコツンと当て、湯気のような声で言った。
「おまえがほしい」
「……!」
その言葉が、ウォルフの薄い胸にじゅっと溶けた。求められるよろこびが肌を震わせた。
ちっぽけな自分が、こんなに愛されている。
それまで塞いでいた涙が、どろっとあふれた。そしてきっと、同性だから気づかなかったが、自分はこのひとを愛していたんだと思った。
「……おれなんかでよければ」
ウォルフはにじむ笑顔で応えた。するとレオの気丈な表情が崩れ、泣き出しそうな微笑みに変わり、
「……うれしいっ」
強く、抱きしめられた。そのまま胸に顔をうずめ、はじめて肉身以外と抱き合うあたたかさを知った。
(人生で、一番あったけえかもしんねエ……)
そんな幸福を味わっている、そのとき、
「……ん?」
ウォルフの腹になにか当たるものがあった。固いが、尖った様子はない。向き合い方からして、レオの下腹部あたりにそれがある。
(なんだべ、これ。ちょっとビクビク動いて……)
妙な気がして顔を上げた。するとすぐそこには、艶のある笑みが、意味ありげにまっすぐ見つめ返していた。
それで、気づいた。
「あっ、コレ! 女だと思ってたけどまさか……」
レオは視線をビタづけのまま、ゆっくりと首を振った。
「生まれつき、そういう体だ」
「へえっ?」
「なにか問題あったか?」
そう問われれば、たしかに問題はない。ある意味好都合かもしれない。だが、問題ないとは決して言えず、間違いなく問題で、もっと言えばとんでもない大問題だった。
「はじめは暗い方がいいだろう」
レオはモニターの電源を落とし、アームライトを消した。
「ち、ちょっと待つべ! おれまだ……それにこんなとこで……」
「愛し合っているんだ。問題ない」
「レオさん!」
「さんなどつけるな。レオと、そう呼んでくれ」
「れ、レオ……せめてここでなくって、どっかちゃんとした……」
「フフフ……うるさい口はどの口だ?」
ああ、そんな、そんな……
フフフ、ここだな。おまえのかわいい口は。もうしゃべれないよう塞いでやろう。まずはキスからだ。それからとことんかわいがってやる。言葉を忘れるほど甘い声を出させてやる。かわいいヤツめ。騒ぐわりにはもう体が熱いじゃないか。わたしももう我慢できない。ああ、かわいいウォルフ。
わたしのウォルフ……
ウォルフ……
ウォルフ……
「ウォルフーー!」
レオがウォルフの体に飛びつき、パイシスの足から手を離させた。
「だ、大丈夫!?」
ぼくはヴルペクラの腕を振りほどき、ふたりの傍へ走った。話からすると、パイシスの手に触れるとやばいらしい。大丈夫かな?
「うっ……」
レオの肩とウォルフの背中が大地に打ちつけられた。レオは小さく声を上げたが、ウォルフは無表情だった。
しかし次の瞬間、
「はっ……!」
ウォルフは上体を起こし、辺りをきょろきょろ見回して、
「…………うん?」
なにやら不思議そうに頭を掻いていた。
「ウォルフ! 大丈夫か!」
レオが真っ青な顔で起き上がって訊いた。周りにみんなが集まり、声もなく見守っている。そんな中、
「……なんだべ? なんか、夢でも見てたような……」
ウォルフはボケっとしていた。どうやらなんでもないらしい。
ああよかった。みんなが大きな声を出すから驚いちゃったよ。地獄がどうとか言ってたから、とんでもないことになるかと思って心配しちゃった。
でもまあ、そうだよね。だってちょっと触っただけだったし、見ての通りウォルフはピンピンしてるしね。ちょっとだけ変なこと言ってるけどさ。
しかしどうやら、なにかあったらしい。
「うん、十分だ。認めよう」
悪魔パイシスがうれしそうに言った。
「ぼくらは友達だ。いくらでも握手するし、君が困ったときは助けになるよ」
「はァ……」
ウォルフは不思議そうにつぶやき、差し出された足と手を交わらせた。なんで? 資格だの試練だの、うだうだ言ってたのに。
ともあれウォルフはパイシスと友達になった。そのうえヴルペクラにつかまれ、
「さあ、パイシス様のお友達はわたくしのお友達です。たくさん飲みましょう」
と、パイシスともども館へ連れ込まれてしまった。
みんなわけわかんないって顔してたよ。いったいなにがどうなってるのさ。
と、そんな疑問を抱く中、
「まったく……無事で済んだからいいものの……」
レオがぼくの肩に手を乗せ、寄りかかった。なんだか疲れた顔で、やけに体重を預けてくる。
「レオ、どうしたの?」
「少々魔力をな……」
魔力?
「……あとで話そう。疲れたし、腹が減ってかなわん」
そう言ってレオは館へと歩いていった。なんだかそっけないなあ。愛する夫と話してるっていうのに、いったいどうしたっていうんだ。
しかし、なんかちょっとフラついてるように見えるけど……
「あーあ、だから悪魔なんか関わるもんじゃないのさ」
「え?」
そう言われ振り向くと、背後にライブラが立っていた。
「あれ、中で飲んでるんじゃなかったの?」
「大声が聞こえたから出てきたのさ。したら、大変なことになってたじゃないのさ」
「大変なこと?」
「レオが助けなかったら、たぶんやばかったよ」
「……どういうこと?」
「あいつ、触れたね」
「……うん」
「レオも触れたね」
「触れたっていうか、ウォルフにね」
「いいかい、悪魔の試練ってのは、まずクリアできないようにできてるのさ。友好を結べる者は試練が起きない、結べない者は試練が起きる。だから試練とはいいながら、事実上の選別なんだよ」
「……でもウォルフは無事だったよ」
「レオがありったけの魔力をぶちこんだからさ」
魔力を?
「レオ、フラついてただろ?」
うん……
「たぶんほとんどの魔力を使って、ウォルフの魂を守ったのさ。どんな試練かは知らないけど、内容にも干渉したと思うよ。あいつの全力だから、それこそ大地が消し飛ぶほどの莫大な魔力だろうね」
はあ……
「おかげでウォルフは助かったってわけさ。ま、あたしに言わせりゃ助かってないけどね」
……どういうこと?
「いいかい、人間ってのは持って生まれた器ってもんがあるのさ。悪魔はそれをわかってる。なのに、あいつは器以上の試練を乗り越え、資格を得ちまった」
それのなにが問題なの?
「あんたさ、小さなコップにバケツの水をぶちこんで、いっぱいを超えてもこぼれず入り続けるなんてことあると思うかい?」
そりゃあるわけないよ。
「そういうことさぁ」
……むむむ?
ぼくにはなにを言ってるのかよくわからなかった。バケツの水が小さなコップに入りきるわけないじゃないか。バカだなぁ。
「ま、見守ることだよ。いますぐなにかあるわけじゃないし、うまくいけば大きな力が手に入るんだ。お空の上の猫ちゃんたちに、なにごともないよう祈るんだね」
そう言ってライブラは酒を飲みに館へと向かった。なんとなくだけど、すごく不穏なことを言ってるのはわかった。
「祈る……か」
ぼくは祭壇に向き合い、ぎゅっと祈った。
「悪いことが起きませんように」
祈ったところで物事がよくなるわけじゃない。以前レオは、一個人が祈っても、神がどうこうするとは思えないと言っていた。
ぼくもそう思う。
だけど、ぼくの悪い予感はよく当たる。だから、せめて祈っておきたかった。ウォルフに悪いことが起きないように。レオに悪いことがおきないように。
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