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第十九話 廃業の危機
廃業の危機 一
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好きなことを仕事にできたら、きっと毎日たのしいんでしょうね。次々と積み重なる業務はゲームのお題のようにやる気が起き、難しい仕事も挑みがいがあるってもんです。朝の目覚めも気持ちよく、毎日笑って過ごせるでしょう。
しかし実際には、趣味を仕事にすると苦労するとか、好きじゃなくなっちゃうなんてよく聞きます。本当でしょうか。きらいなことして生きるより断然いいでしょうに。
なんにしても、できるだけたのしい職業に就いた方がいいですよね。そのためには学生のうちから勉強し、資格を取って、選択肢を広げておくべきです。
わたしは若いころ、もっと将来を見据えるべきでした。でもちゃんとしていたら不幸にならなかったでしょうか。どれだけ真面目に積み上げても、一瞬で崩れます。悪行などせずとも、人生はなんの前触れもなく落とし穴に落ち、努力を消し飛ばされてしまうのです。
第十九話 廃業の危機
ぼくはアーサー。歳は十七。元は都で騎士をしていたけど、いろいろあって俗世を離れ、のんびりヒモ生活をしている。
だけど騎士道精神は忘れていない。腰に差した愛剣にそっと触れれば、いつだって父さんの教えを思い出す。
強く、気高く、清らかに——この訓示が、ぼくの生涯の心得だ。たとえいまは市民でも、こころの中に騎士の魂は生き続けている。
とはいえ、崇高な精神を維持するのは難しい。先輩騎士の多くはむやみに力を誇示したり、女郎屋通いを語り合ったりしていた。剣の世界には下品な人間が少なくない。
暴力を生業とするのだから当然かもしれない。粗野な気性は殺しに向いている。斬り合いの場面で女みたいにヘロヘロしてるようなヤツに、戦場に立つ資格はない。
だけどぼくは、やっぱり品性は必要だと思う。剣の腕前があっても騎士とは呼べない。強きに向かい弱きを守る堅実さを持ち、欲望に打ち克つ強さがあって、はじめて騎士と呼ぶ。
だからぼくはヒモになったいまでも騎士道を守り続けている。こころのままに生きても構わないのに、いまだに剣の稽古を続け、精神を練磨し続けている。
それがぼくの生き方だから——
「どうした、アーサー」
隣に座る美女がぼくの肩に手を乗せた。
彼女はレオ。最愛の妻だ。ぼくと同い年で、魂売りという個人魔術師業を営んでいる。
そんな彼女は先日誕生日を迎え、ひとつ年上になった。ぼくらは盛大にお祝いをし、今日は夫婦で思い切り贅沢をしようと街に繰り出していた。
ぼくらはバーのカウンターに並んでいた。
日中はショウや演劇をたのしみ、夕方は豪華なディナーを味わい、そして現在バーで腹ごなしに休憩している。
そんな中、ぼくはふと腰元の剣に手が触れ、父さんの教えを思い出していたのだった。
レオはゆったりとした笑みでぼくにしなだれかかってきた。
「神妙な顔をして、なにか考え事か?」
「いや、別に……」
ぼくはギクリと硬直した。
レオは背が高い。身長の低いぼくと並ぶと、頭ひとつ分彼女の目線が上になる。
そんな彼女がぼくの肩に腕を巻きつけ、耳元にくちびるを寄せている。するとぼくの目は胸の谷間を見下ろすかたちになる。
もちろん見るのははじめてじゃない。ぼくらはなんども愛し合い、互いのすべてを知っている。きれいな肌も、ぼくを赤ん坊のようにしてしまう胸の先端も、手で、口で、存分に味わっている。
今夜、彼女は厚着だ。中は薄手で胸元も広いが、冬の最後の寒波を凌ぐふわふわのコートを羽織っている。谷間と言っても見えるのはわずかだ。
だけどそのわずかが、ぼくをとりこにする。どれだけ見慣れても、どこまで知っても、彼女の魅力は色褪せない。それどころか日々美しさを増し、昨日より今日、今日よりあした、より強烈に色気を放つ。
「おや……心臓が早いな」
レオの手のひらがぼくの胸板に張りついた。
「それに息も荒い」
「……」
ぼくは返事ができなかった。彼女の言う通り、呼吸が苦しいほどに荒ぶっていた。
だって、そうならない方がおかしい。こんな美女に抱きつかれて、胸元を覗き込んで、耳元でささやかれて、昂らないわけがない。
「苦しいか? アーサー」
レオの手がゆっくりと下に滑った。
「こうすると、もっと苦しいか?」
「だ、ダメ……」
ぼくは必死に声を絞った。上半身を覆う彼女の体温が真夏のように熱い。
「なにがダメなんだ。ここも苦しくて仕方がないんだろう」
「あっ……」
ぼくの一番熱くて苦しいところを、やわらかい手が撫で回した。生地の下ではふだん隠れている部分が顔を出し、敏感に彼女を感じてしまう。
「こ、こんなところで……ダメだよ……」
「大丈夫だ。“顔を覚えられない魔法”がかかっている」
「でも声は……」
「抑えればいい。それにこの喧騒なら聞こえん」
「だからって……そんな……」
レオの手つきは一層みだらになった。包み込み、まさぐり、先端のくびれをなぞった。
たしかに店内は騒がしかった。若い飲み客が多く、酒の回った声量は静まることを知らなかった。
しかし、そんな中でもレオの声はかすむことなく、透明に色づく。
「なあ、見せてくれ……おまえがわたしを愛している姿を」
熱い息が耳にかかった。
くちびるが軽く触れた。
「ダメ……」
ぼくは弱々しくレオの肩を押さえた。力はこもっていない。力が入らないのか、無意識に抜いているのか、どちらにしろ無意味なポーズだ。
それほどまでに、こころが持っていかれている。誘惑に支配されている。快感と欲望が精神を侵し、意識が朦朧としている。
ここはバーだ。こぢんまりとして、客席は少ないとはいえ、満席で二十人近く入れる。
うち半分は埋まっている。客がいる。店主がいる。ときおりひとが立ち上がり、背後を通る。
騎士道うんぬんの話じゃない。こんなところで触れ合うわけにはいかない。淫欲に振り回されてはいけない。
だけど、ああ……流されてしまいたい。
「なあアーサー。わたしは誕生日だぞ」
レオがおねだり声で言った。
「おまえはわたしの秘めた欲求を知っているだろう」
「……」
知っていた。だからこそ返事ができず、無言で返すしかなかった。
彼女は“見せたがり”だ。ぼくと外で愛し合いたいと思っている。
だから昼間から求めてくる。館の中には使い魔が同居しているのに、見られてもいいと思ってぼくを誘惑する。見られずとも、声はふんだんに聞かせる。
旅先でも平気でする。隣のベッドにしもべが寝ていても、“聞かれない魔法”で声を閉ざしたから大丈夫と言って、なんの仕切りもなしにはじめてしまう。
そんなとき、レオは激しく乱れる。ふだんの飄々とした気高さからは想像もできない下品な言葉と動きを、見せつけるかのようにあらわにする。
もし使い魔が起きたら? もし使い魔が眠っていなかったら?
——きっとそれをたのしんでいる。
ぼくはいつも気づかないふりをしていた。どうせ誘われたら抗えないし、もちろん恥ずかしいけど、他人様に見せないだけまあいいかと忘れることにしていた。
だけど今夜のレオは、壁を破ろうとしている。
「アーサー、わたしを愛しているか?」
「も、もちろんだよ。だけど……」
「なら誕生日くらい、いいじゃないか。わたしだって、特別な日には恥ずかしいことをさせてやってるんだ……」
それを言われると弱った。レオはワキガのにおいを嗅がれたくないのに、ぼくの誕生日には好きにさせてくれると約束している。お互い譲り合うのがイーブンだ。
しかし内容が違う。ふたりきりと、ひと前とでは、大きな隔てがある。
だが、レオはそこまで狂ってはいなかった。
「安心しろ。さすがにここでしようなどとは言わん。そんなことをすれば、いかにわたしの魔法といえど解けてしまうだろう」
「……じゃあ、どうするの?」
「口でさせてくれ」
「く、口で……?」
「そうだ。服もズボンも脱がず、そこだけ出して飲ませてくれればいい。それなら魔法は解けない」
「そ……それでいいの?」
「ああ、それでいい。そのあとは宿へ直行だ。きっとわたしは、いまだかつてないほど熱くなれる」
レオがぼくから離れ、真正面から向き合った。彼女の顔が真っ赤に染まり、瞳がうるうるとぼくを見つめている。
「なあ……いいだろう?」
泣き出しそうな声だった。ぼくは胸を射抜かれたように息をのみ、願いを叶えてあげたいという気持ちと、底知れない欲情を覚えた。
「……うん」
ぼくは恐る恐る体を向けた。ためらいがちに回転椅子を回し、ぎこちなくレオと向き合った。
レオの目が、ぼくの閉じた脚を見下ろした。視線は紛れもなく、膨らんだ一点を見つめている。
ぼくは重い扉をこじ開けるように、ゆっくりふとももを開いた。目が回りそうな羞恥心で頭を真っ白にしながら、少しずつ、少しずつ、明け透けにしていく。それにつれて、レオの呼吸もどんどん激しくなっていく。
そしてとうとう、だらしなく下卑た開脚を見せつけた。すると、
「あっ!」
レオがビクンと縮こまり、自身の体を抱きしめた。顔が真下を向き、両足をぴっちり閉じて、なにかに耐えるようガクガク震え出した。
「れ、レオ!?」
返事はなかった。レオは手で口を塞ぎ、むー、むー、と声を漏らしている。唾液があふれ、指のあいだから息と混ざって湿った音が吹き出た。体がくねり、苦しそうに身悶えした。
でも、苦しいんじゃなかった。
数十秒経って、レオの痙攣が治まった。はあ、はあ、と肩で呼吸しながら、だらりと顔を上げた。
見ると、ぐしゃぐしゃにとろけていた。
瞳は呆然とし、愛液のような涙で濡れていた。口の周りと手のひらには、べっとりよだれが糸を引いていた。美しく整った貌は、はちみつをぶちまけたように甘く、どろどろに汚れていた。
「ああ……いかん……いかんなあ……」
レオはカウンターにへたりこみ、嘆くように、しかし恍惚と言った。ぼくはふと、ぽつ、ぽつ、と水のしたたる音を聞いた。
下を見て、それがなにかわかった。
レオの腰を、コートが覆い隠している。その下には木製の椅子がある。
音は床で鳴っていた。椅子の表面には小さな池ができており、それが少しずつ垂れて、床に水滴を落としていた。
酒をこぼしたわけじゃない。つまり人工物だ。レオという人間が、彼女の体内で作った液を、びしょびしょにこぼしてしまったのだ。
——まさか、想像しただけで!?
理解した瞬間、全身がゾクゾクした。シチュエーションだけで彼女がよろこんでしまったという事実に、はちきれそうなほど熱くなった。あまりに強くズボンの外へ出ようとするそれが、出口を求めてノックを繰り返した。
「フフ……フフフ……」
レオはそれを見つめた。そしてだらんと前屈みになり、ぼくを見上げ、言った。
「口を押さえていろ……絶対に声を出すなよ……」
レオの両手がぼくのふとももに触れた。
まだ震えの残る手が、そっと内ももをなぞり、正面のボタンを外した。
そして、ズボンの生地をめくり、残りの一枚をつまんだ。そのとき、
——ガシャン!
テーブル席からガラスの割れる音が響いた。そして、
「てめえこの野郎! ナメてんじゃねえぞ!」
男の野太い怒号が響き渡った。
どうやらケンカらしい。酒場にはつきものだ。ぼくらには関係ないが、店内に殺伐とした空気が充満し、驚いて欲情は小さくしぼんでしまった。
「………………なんだ?」
レオが冷め切った目で言った。ため息を吐き、テーブルにひじを乗せ、ウィスキーをビンのままラッパ飲みした。
ぼくは慌ててボタンを閉めた。中断された途端、冷静になり、自分がとんでもないことをしていたとわかった。
危ないところだった。もうちょっとでおおやけの場で吐き出してしまうところだった。ちょっぴり残念な気もするけど、そんなわけがない。だって、こんなの完全にアウトだ。まともな人間のすることじゃない。
「レオ、出ようか」
ぼくは言った。すると、
「……アルテルフ、聞こえるか?」
レオは襟元のブローチに小声で話しかけた。アルテルフは少女姿の使い魔で、本来の姿は鷹だ。彼女を呼べば、森から徒歩一時間のこの街にものの十分で来ることができる。
——はいはい、なんでしょー。
レオのイヤリングから小さな声が聞こえた。音を伝える魔法でふたりは会話していた。
レオは言った。
「遅い時間にすまない。銀のかごをひとつ頼めるか?」
——折り畳みの、弱いのでいいですかー?
「構わん。ジュピター劇場前のバーまで頼む」
——わかりましたー。
そう言って会話は途絶えた。これからアルテルフが銀のかごを持ってくるという。
でもなぜ? 銀のかごは魂を捕らえる道具だ。死人が出たとき、在庫を確保するために使うものだ。どうしてそんなものを……
「決まっているだろう」
レオはニヤリと笑い、言った。
「魂を捕らえるためだ」
それってつまり……
「死人が出る。これから、この部屋でな」
しかし実際には、趣味を仕事にすると苦労するとか、好きじゃなくなっちゃうなんてよく聞きます。本当でしょうか。きらいなことして生きるより断然いいでしょうに。
なんにしても、できるだけたのしい職業に就いた方がいいですよね。そのためには学生のうちから勉強し、資格を取って、選択肢を広げておくべきです。
わたしは若いころ、もっと将来を見据えるべきでした。でもちゃんとしていたら不幸にならなかったでしょうか。どれだけ真面目に積み上げても、一瞬で崩れます。悪行などせずとも、人生はなんの前触れもなく落とし穴に落ち、努力を消し飛ばされてしまうのです。
第十九話 廃業の危機
ぼくはアーサー。歳は十七。元は都で騎士をしていたけど、いろいろあって俗世を離れ、のんびりヒモ生活をしている。
だけど騎士道精神は忘れていない。腰に差した愛剣にそっと触れれば、いつだって父さんの教えを思い出す。
強く、気高く、清らかに——この訓示が、ぼくの生涯の心得だ。たとえいまは市民でも、こころの中に騎士の魂は生き続けている。
とはいえ、崇高な精神を維持するのは難しい。先輩騎士の多くはむやみに力を誇示したり、女郎屋通いを語り合ったりしていた。剣の世界には下品な人間が少なくない。
暴力を生業とするのだから当然かもしれない。粗野な気性は殺しに向いている。斬り合いの場面で女みたいにヘロヘロしてるようなヤツに、戦場に立つ資格はない。
だけどぼくは、やっぱり品性は必要だと思う。剣の腕前があっても騎士とは呼べない。強きに向かい弱きを守る堅実さを持ち、欲望に打ち克つ強さがあって、はじめて騎士と呼ぶ。
だからぼくはヒモになったいまでも騎士道を守り続けている。こころのままに生きても構わないのに、いまだに剣の稽古を続け、精神を練磨し続けている。
それがぼくの生き方だから——
「どうした、アーサー」
隣に座る美女がぼくの肩に手を乗せた。
彼女はレオ。最愛の妻だ。ぼくと同い年で、魂売りという個人魔術師業を営んでいる。
そんな彼女は先日誕生日を迎え、ひとつ年上になった。ぼくらは盛大にお祝いをし、今日は夫婦で思い切り贅沢をしようと街に繰り出していた。
ぼくらはバーのカウンターに並んでいた。
日中はショウや演劇をたのしみ、夕方は豪華なディナーを味わい、そして現在バーで腹ごなしに休憩している。
そんな中、ぼくはふと腰元の剣に手が触れ、父さんの教えを思い出していたのだった。
レオはゆったりとした笑みでぼくにしなだれかかってきた。
「神妙な顔をして、なにか考え事か?」
「いや、別に……」
ぼくはギクリと硬直した。
レオは背が高い。身長の低いぼくと並ぶと、頭ひとつ分彼女の目線が上になる。
そんな彼女がぼくの肩に腕を巻きつけ、耳元にくちびるを寄せている。するとぼくの目は胸の谷間を見下ろすかたちになる。
もちろん見るのははじめてじゃない。ぼくらはなんども愛し合い、互いのすべてを知っている。きれいな肌も、ぼくを赤ん坊のようにしてしまう胸の先端も、手で、口で、存分に味わっている。
今夜、彼女は厚着だ。中は薄手で胸元も広いが、冬の最後の寒波を凌ぐふわふわのコートを羽織っている。谷間と言っても見えるのはわずかだ。
だけどそのわずかが、ぼくをとりこにする。どれだけ見慣れても、どこまで知っても、彼女の魅力は色褪せない。それどころか日々美しさを増し、昨日より今日、今日よりあした、より強烈に色気を放つ。
「おや……心臓が早いな」
レオの手のひらがぼくの胸板に張りついた。
「それに息も荒い」
「……」
ぼくは返事ができなかった。彼女の言う通り、呼吸が苦しいほどに荒ぶっていた。
だって、そうならない方がおかしい。こんな美女に抱きつかれて、胸元を覗き込んで、耳元でささやかれて、昂らないわけがない。
「苦しいか? アーサー」
レオの手がゆっくりと下に滑った。
「こうすると、もっと苦しいか?」
「だ、ダメ……」
ぼくは必死に声を絞った。上半身を覆う彼女の体温が真夏のように熱い。
「なにがダメなんだ。ここも苦しくて仕方がないんだろう」
「あっ……」
ぼくの一番熱くて苦しいところを、やわらかい手が撫で回した。生地の下ではふだん隠れている部分が顔を出し、敏感に彼女を感じてしまう。
「こ、こんなところで……ダメだよ……」
「大丈夫だ。“顔を覚えられない魔法”がかかっている」
「でも声は……」
「抑えればいい。それにこの喧騒なら聞こえん」
「だからって……そんな……」
レオの手つきは一層みだらになった。包み込み、まさぐり、先端のくびれをなぞった。
たしかに店内は騒がしかった。若い飲み客が多く、酒の回った声量は静まることを知らなかった。
しかし、そんな中でもレオの声はかすむことなく、透明に色づく。
「なあ、見せてくれ……おまえがわたしを愛している姿を」
熱い息が耳にかかった。
くちびるが軽く触れた。
「ダメ……」
ぼくは弱々しくレオの肩を押さえた。力はこもっていない。力が入らないのか、無意識に抜いているのか、どちらにしろ無意味なポーズだ。
それほどまでに、こころが持っていかれている。誘惑に支配されている。快感と欲望が精神を侵し、意識が朦朧としている。
ここはバーだ。こぢんまりとして、客席は少ないとはいえ、満席で二十人近く入れる。
うち半分は埋まっている。客がいる。店主がいる。ときおりひとが立ち上がり、背後を通る。
騎士道うんぬんの話じゃない。こんなところで触れ合うわけにはいかない。淫欲に振り回されてはいけない。
だけど、ああ……流されてしまいたい。
「なあアーサー。わたしは誕生日だぞ」
レオがおねだり声で言った。
「おまえはわたしの秘めた欲求を知っているだろう」
「……」
知っていた。だからこそ返事ができず、無言で返すしかなかった。
彼女は“見せたがり”だ。ぼくと外で愛し合いたいと思っている。
だから昼間から求めてくる。館の中には使い魔が同居しているのに、見られてもいいと思ってぼくを誘惑する。見られずとも、声はふんだんに聞かせる。
旅先でも平気でする。隣のベッドにしもべが寝ていても、“聞かれない魔法”で声を閉ざしたから大丈夫と言って、なんの仕切りもなしにはじめてしまう。
そんなとき、レオは激しく乱れる。ふだんの飄々とした気高さからは想像もできない下品な言葉と動きを、見せつけるかのようにあらわにする。
もし使い魔が起きたら? もし使い魔が眠っていなかったら?
——きっとそれをたのしんでいる。
ぼくはいつも気づかないふりをしていた。どうせ誘われたら抗えないし、もちろん恥ずかしいけど、他人様に見せないだけまあいいかと忘れることにしていた。
だけど今夜のレオは、壁を破ろうとしている。
「アーサー、わたしを愛しているか?」
「も、もちろんだよ。だけど……」
「なら誕生日くらい、いいじゃないか。わたしだって、特別な日には恥ずかしいことをさせてやってるんだ……」
それを言われると弱った。レオはワキガのにおいを嗅がれたくないのに、ぼくの誕生日には好きにさせてくれると約束している。お互い譲り合うのがイーブンだ。
しかし内容が違う。ふたりきりと、ひと前とでは、大きな隔てがある。
だが、レオはそこまで狂ってはいなかった。
「安心しろ。さすがにここでしようなどとは言わん。そんなことをすれば、いかにわたしの魔法といえど解けてしまうだろう」
「……じゃあ、どうするの?」
「口でさせてくれ」
「く、口で……?」
「そうだ。服もズボンも脱がず、そこだけ出して飲ませてくれればいい。それなら魔法は解けない」
「そ……それでいいの?」
「ああ、それでいい。そのあとは宿へ直行だ。きっとわたしは、いまだかつてないほど熱くなれる」
レオがぼくから離れ、真正面から向き合った。彼女の顔が真っ赤に染まり、瞳がうるうるとぼくを見つめている。
「なあ……いいだろう?」
泣き出しそうな声だった。ぼくは胸を射抜かれたように息をのみ、願いを叶えてあげたいという気持ちと、底知れない欲情を覚えた。
「……うん」
ぼくは恐る恐る体を向けた。ためらいがちに回転椅子を回し、ぎこちなくレオと向き合った。
レオの目が、ぼくの閉じた脚を見下ろした。視線は紛れもなく、膨らんだ一点を見つめている。
ぼくは重い扉をこじ開けるように、ゆっくりふとももを開いた。目が回りそうな羞恥心で頭を真っ白にしながら、少しずつ、少しずつ、明け透けにしていく。それにつれて、レオの呼吸もどんどん激しくなっていく。
そしてとうとう、だらしなく下卑た開脚を見せつけた。すると、
「あっ!」
レオがビクンと縮こまり、自身の体を抱きしめた。顔が真下を向き、両足をぴっちり閉じて、なにかに耐えるようガクガク震え出した。
「れ、レオ!?」
返事はなかった。レオは手で口を塞ぎ、むー、むー、と声を漏らしている。唾液があふれ、指のあいだから息と混ざって湿った音が吹き出た。体がくねり、苦しそうに身悶えした。
でも、苦しいんじゃなかった。
数十秒経って、レオの痙攣が治まった。はあ、はあ、と肩で呼吸しながら、だらりと顔を上げた。
見ると、ぐしゃぐしゃにとろけていた。
瞳は呆然とし、愛液のような涙で濡れていた。口の周りと手のひらには、べっとりよだれが糸を引いていた。美しく整った貌は、はちみつをぶちまけたように甘く、どろどろに汚れていた。
「ああ……いかん……いかんなあ……」
レオはカウンターにへたりこみ、嘆くように、しかし恍惚と言った。ぼくはふと、ぽつ、ぽつ、と水のしたたる音を聞いた。
下を見て、それがなにかわかった。
レオの腰を、コートが覆い隠している。その下には木製の椅子がある。
音は床で鳴っていた。椅子の表面には小さな池ができており、それが少しずつ垂れて、床に水滴を落としていた。
酒をこぼしたわけじゃない。つまり人工物だ。レオという人間が、彼女の体内で作った液を、びしょびしょにこぼしてしまったのだ。
——まさか、想像しただけで!?
理解した瞬間、全身がゾクゾクした。シチュエーションだけで彼女がよろこんでしまったという事実に、はちきれそうなほど熱くなった。あまりに強くズボンの外へ出ようとするそれが、出口を求めてノックを繰り返した。
「フフ……フフフ……」
レオはそれを見つめた。そしてだらんと前屈みになり、ぼくを見上げ、言った。
「口を押さえていろ……絶対に声を出すなよ……」
レオの両手がぼくのふとももに触れた。
まだ震えの残る手が、そっと内ももをなぞり、正面のボタンを外した。
そして、ズボンの生地をめくり、残りの一枚をつまんだ。そのとき、
——ガシャン!
テーブル席からガラスの割れる音が響いた。そして、
「てめえこの野郎! ナメてんじゃねえぞ!」
男の野太い怒号が響き渡った。
どうやらケンカらしい。酒場にはつきものだ。ぼくらには関係ないが、店内に殺伐とした空気が充満し、驚いて欲情は小さくしぼんでしまった。
「………………なんだ?」
レオが冷め切った目で言った。ため息を吐き、テーブルにひじを乗せ、ウィスキーをビンのままラッパ飲みした。
ぼくは慌ててボタンを閉めた。中断された途端、冷静になり、自分がとんでもないことをしていたとわかった。
危ないところだった。もうちょっとでおおやけの場で吐き出してしまうところだった。ちょっぴり残念な気もするけど、そんなわけがない。だって、こんなの完全にアウトだ。まともな人間のすることじゃない。
「レオ、出ようか」
ぼくは言った。すると、
「……アルテルフ、聞こえるか?」
レオは襟元のブローチに小声で話しかけた。アルテルフは少女姿の使い魔で、本来の姿は鷹だ。彼女を呼べば、森から徒歩一時間のこの街にものの十分で来ることができる。
——はいはい、なんでしょー。
レオのイヤリングから小さな声が聞こえた。音を伝える魔法でふたりは会話していた。
レオは言った。
「遅い時間にすまない。銀のかごをひとつ頼めるか?」
——折り畳みの、弱いのでいいですかー?
「構わん。ジュピター劇場前のバーまで頼む」
——わかりましたー。
そう言って会話は途絶えた。これからアルテルフが銀のかごを持ってくるという。
でもなぜ? 銀のかごは魂を捕らえる道具だ。死人が出たとき、在庫を確保するために使うものだ。どうしてそんなものを……
「決まっているだろう」
レオはニヤリと笑い、言った。
「魂を捕らえるためだ」
それってつまり……
「死人が出る。これから、この部屋でな」
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