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第二十一話 言の刃
言の刃 二
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「しかしアーサー、あんた真っ赤じゃないかい」
ライブラは手酌でショーチューのロックを飲みながら言った。彼女はいま“顔を覚えられない魔法”のグループに入ったので、ぼくの顔や声色をはっきり認識している。
「あんた弱いのにずいぶん飲んだんだろ」
まあね。だってついついビールが進んじゃうんだもの。ここから先はジュースか水だ。これ以上はどうかしちゃう。
それにしてもライブラの飲み方はかっこいいなぁ。元々大人っぽい見た目だけど(というか大人だけど)、がつがつ食べるでもなく、ぐいぐい飲むでもなく、静かにクイッとやって、つまみを箸でちょっとつまんで、またゆったり飲む。ぼくらはどうしても食べ物がメインになるけど、ライブラは本当に酒飲みって感じだ。
「ここはいい店だよねぇ、ゾスマ」
「うん、いい店だね」
気づけばゾスマもロックで飲んでいた。実はこの子、ものすごくお酒が強い。レオもかなりのザルだけどゾスマは底が見えない。
「わたしも酒盗もらっていい?」
「ああ、食いなよ。あんたとは気が合いそうさね」
そう言って彼女たちは気持ち悪いぐちゃぐちゃのおつまみを分かち合った。よくこんな得体の知れないもの食べられるな。ぼくには無理だね。舐めるのもいやだ。レオもちょっと食べて「これはひとを選ぶな」って言ってたしね。
それからライブラはレオを主眼に呪術の話をした。ぼくには難しくてわからないことばかりだけど、ふたりにはおもしろいらしく、ちょくちょく大笑いしたりする。
「あの呪いもスケベが元でできたわざさぁ! 結局人間なんて、スケベなことに頭ひねるんさね!」
「あははは! そうだな! 人間なんてスケベごころでなんでもするんだ!」
「しかも二十年かけて編み出したんだってさ!」
「あははははは! に、二十年も! あははははは!」
ふたりはだいぶ酔っ払っていた。レオもライブラもお酒のペースが早い。よほどたのしいんだろう。
ぼくはひさびさに上半身をふらふらさせるレオを見ながら、妻がたのしんでいることをうれしく思い、同時にこのあとの介抱が大変だぞと気を揉んでいた。
そんな中、ライブラがポツリと言った。
「しっかし……いやな夢にあっちまったねぇ」
いやな夢にあう? なんだそれ。
「おい、なんだその“いやな夢にあう”というのは」
レオが真っ赤な顔をズイと押し出し、前のめりで訊いた。
「おっと、口が滑ったさね」
「意味がわからん。夢はあうものでなく見るものだろう」
「ダメダメ、呪術師に仕事を訊くのは御法度さぁ」
「だが気になる。話せ」
「いくら気になってもダメさぁ」
ライブラはやや険しい目つきになり、両手の人差し指でバッテンを作った。どうやら本当に口が滑ったらしい。
しかしレオはニヤニヤとたのしそうに問い詰めた。
「なあ、いいだろう。口を滑らせたおまえが悪い」
「酔ってたのさ。あんたもプロならわかるだろ。勘弁しとくれ」
「教えてくれ。友達じゃないか」
「えっ?」
そのひとことを聞いた途端、ライブラの顔がフワッとニヤけた。しかしすぐに手で顔を覆い、横を向いて、
「ば、バカ言うんじゃないよ! だれが友達だって!? 八つも歳下のくせして!」
と、隙間から見えるニヤけた口から言った。
それを見逃すレオじゃない。
「なあ、友達だろ。こうなったら酔ったいきおいで言ってしまうが、わたしはおまえが好きだ。仕事のパートナーとしてもベストだし、それ以前にやはり、ひととして好きだ。そんなおまえと深い話をしたいのは当然だろう」
「あ、あたしゃそんなこと思ったことはないよ! 仕事上、仕方なく付き合ってるんだ!」
それにしてはうれしそうな声だなぁ。
「なんどもいっしょに風呂に行った仲じゃないか。わたしはおまえに温泉のよさを教えてもらって感謝してるんだぞ」
「ば、ば、ば、バカだねぇ!」
ライブラはやっぱりうれしそうだった。口ではいやだと言っているが、空いている手をバタバタ上下させている。かなり酔ってるのかな?
そういえば以前レオが言っていた。
「あいつは本心ではわたしと仲よくしたがっている。だがプライドが高いうえに呪術師だ。こころの壁は鉄壁といっていい」
それがこんなふうになっちゃうんだから、お酒って怖いなぁ。
「そうか、なら仕方ないな」
レオはふぅとため息混じりにつぶやき、身を引いて、
「ま、言いたくなければ言わなければいい。わたしは友達の意見を尊重する」
そう言ってグラスをかたむけた。どうやらあきらめたらしい。
するとライブラは逆に、
「……そんなに聞きたいのかい?」
と、いじらしい声で言った。あれ? なんかあべこべだぞ?
「いや、別におまえが話したくないならいい。気にはなるがな」
「やっぱり気になるんじゃないかい」
「だが秘密だろう?」
「……」
顔から手を離したライブラは口をもごもごさせ、妙に不満げだった。なんでだろう。しつこいのが収まったんだからよかったじゃないか。
そう思っていたら、
「……あんたは特別さね」
ありゃま。
「いいかい、ここだけの話だよ。呪術師にとって秘密を話すことがどれだけ大きいことかわかるだろ。あんただから話すんだからね」
ライブラはとうとう折れてしまった。変なの。教えろ教えろって言われても話さなかったのに、いいやって言われると話しちゃうなんてさ。
「あんたらも顔を寄せな。あまり大きな声じゃ言えないからね」
そう言ってライブラは話しはじめた。
それは三日前の晩だった。
ライブラはふたつ向こうの田舎町で、ひとり酒をあおって眠っていた。
「小さな宿さ。たまたま仕事があってね」
静かな晩だった。都会と違い、みな朝が早い。酒屋はあるが飲み屋はなく、月夜を歩くのは野良犬か、息を殺して逢引に向かう若いカップルくらいだった。
だから空気が透き通った。
ひとの気配は空気を濁す。人間は知らず知らずのうちに念を発し、大気に溶かしている。
それがないと、音が通る。
光が通る。
風が通る。
魔力が通る。
そして、夢も通る。
「あたしゃ闇の中にいたのさ」
意識ははっきりしていた。
一切の光のない、真の闇の中に彼女は立っていた。
その姿が、少し離れたところから見えていた。
下着姿で布団にくるまっていた自分が、旅の格好で闇に立ち、それが第三者の視点で見えている。
——だれかの夢だね。
すぐに気づいた。そうめずらしいことではなかった。
ひとはよく、だれかの夢に入る。濁りのない澄んだ夜は、近くで眠る他人の夢に意識が飛ぶことがある。
浅い眠りでは体験しない。深い深い眠りのときだけ誘われる。
通常、記憶には残らない。ひとは深い夢を忘れてしまう。だが優れた呪術師は夢という精神世界を認識し、明確な意思を持って動くことができる。
夢の主は十歩先にいた。
色彩のかけらも混じらない真っ黒な空間に、ひとりの女がへたり込んでいた。
女はうつむき、顔を覆って泣いていた。
女はうめくように言った。
「消したい、消したい……」
ライブラは仕事の眼差しで睨み、聞き続けた。
「消したい、消してしまいたい……」
苦しみの念だった。聞いていると自分まで胸が詰まりそうだった。
どうにも放って置けない。
ライブラは意を決して足を踏み出した。
夢に触れようというのだ。
彼女は素人ではない。強力な念に干渉すれば、見えないさだめに結ばれる恐れがある。
感覚からして近くではない。おそらくあの地方都市だろう。
それがこんな距離まで届くのだから、今夜はよほど夜が澄んでいるのか、それだけ苦しみが濃いか。
——まず、後者だろう。
「なにを消したいんだい」
ライブラは女の前に立ち、平坦に言った。同情や怯えを見せればしがみつかれる。
女は言った。
「こころです」
「こころ?」
「こころを消してしまいたい。こころがあると、つらい」
女はめそめそと泣く。その分苦しみが濃くなる。
ライブラはあえて顔色を変えない。
「どうしてこころを消したいんだい」
「苦しいからです」
「どうして苦しいんだい」
「愛しているからです」
——なるほど、男か。
よくあることだ。女は愛への執着が強い。さしずめ悪い男にでも捕まったか、思うようにいかず愛憎を抱いたのだろう。
ライブラは呆れ混じりに言った。
「そんなことで泣いてるのかい。情けない。男なんてほかにいくらでもいるだろう」
すると、
——ぴたり、と泣くのをやめた。
気配がピンと張った。
耳鳴りのしそうな静寂が漂い、女は彫刻のように微動だにしなくなった。
ライブラの肌は痺れるような怒りを感じた。
色でたとえるなら黒だろう。
真っ赤な熱はない。そんな怒りでは夢で泣いたりしない。
血の流れの止まるような塞ぎ込んだ怒りが、逃げ場を求めて夢となる。
もっとも、どんな怒りだろうとライブラに不安はなかった。
仕事柄、愛も憎悪も山ほど見ている。殺意など恐るるに足りない。
だが、今回は違った。
「どうして」
おんなは静かに言った。
「どうしてほかにいるなどと思えるでしょうか」
言いながら、ゆっくりと両手を降ろした。
隠れていた顔があらわとなった。
「うっ……!」
ライブラは声を漏らした。
片方の目は悲しみで涙を流していた。
片方の目は怒りで吊り上がっていた。
それなのに、口はあたたかく微笑んでいた。
「はっ!」
ガバリと目が覚めた。
全身が汗で濡れていた。
「………………ふぅ」
危ないところだった。
恐ろしい貌だった。
たんなる憎しみではない。
生半可な愛ではない。
胸がえぐれるほどの幸福がそこにある。
それらがどろどろに練られ、苦しみを生んでいる。
もし一瞬、目を覚すのが遅ければ繋がっていた。
だが、完全には逃れられていない。
「あたしゃ気になっちまったのさ」
ライブラは言う。別にあの女がどうなろうが知ったこっちゃない。“繋がり”は生まれていないし、文字通り悪い夢を見たと思えばそれで済む。
だが、気になる。
あの女はなぜ苦しんでいたのか。
あの女はどうしてあんな貌をしていたのか。
——できることなら救ってやりたい。
「そう思っちまったが最後、こりゃ呪いさね」
そうしてライブラはこの街を訪れた。場合によっては彼女のこころを消すことになると思いながら。
ライブラは手酌でショーチューのロックを飲みながら言った。彼女はいま“顔を覚えられない魔法”のグループに入ったので、ぼくの顔や声色をはっきり認識している。
「あんた弱いのにずいぶん飲んだんだろ」
まあね。だってついついビールが進んじゃうんだもの。ここから先はジュースか水だ。これ以上はどうかしちゃう。
それにしてもライブラの飲み方はかっこいいなぁ。元々大人っぽい見た目だけど(というか大人だけど)、がつがつ食べるでもなく、ぐいぐい飲むでもなく、静かにクイッとやって、つまみを箸でちょっとつまんで、またゆったり飲む。ぼくらはどうしても食べ物がメインになるけど、ライブラは本当に酒飲みって感じだ。
「ここはいい店だよねぇ、ゾスマ」
「うん、いい店だね」
気づけばゾスマもロックで飲んでいた。実はこの子、ものすごくお酒が強い。レオもかなりのザルだけどゾスマは底が見えない。
「わたしも酒盗もらっていい?」
「ああ、食いなよ。あんたとは気が合いそうさね」
そう言って彼女たちは気持ち悪いぐちゃぐちゃのおつまみを分かち合った。よくこんな得体の知れないもの食べられるな。ぼくには無理だね。舐めるのもいやだ。レオもちょっと食べて「これはひとを選ぶな」って言ってたしね。
それからライブラはレオを主眼に呪術の話をした。ぼくには難しくてわからないことばかりだけど、ふたりにはおもしろいらしく、ちょくちょく大笑いしたりする。
「あの呪いもスケベが元でできたわざさぁ! 結局人間なんて、スケベなことに頭ひねるんさね!」
「あははは! そうだな! 人間なんてスケベごころでなんでもするんだ!」
「しかも二十年かけて編み出したんだってさ!」
「あははははは! に、二十年も! あははははは!」
ふたりはだいぶ酔っ払っていた。レオもライブラもお酒のペースが早い。よほどたのしいんだろう。
ぼくはひさびさに上半身をふらふらさせるレオを見ながら、妻がたのしんでいることをうれしく思い、同時にこのあとの介抱が大変だぞと気を揉んでいた。
そんな中、ライブラがポツリと言った。
「しっかし……いやな夢にあっちまったねぇ」
いやな夢にあう? なんだそれ。
「おい、なんだその“いやな夢にあう”というのは」
レオが真っ赤な顔をズイと押し出し、前のめりで訊いた。
「おっと、口が滑ったさね」
「意味がわからん。夢はあうものでなく見るものだろう」
「ダメダメ、呪術師に仕事を訊くのは御法度さぁ」
「だが気になる。話せ」
「いくら気になってもダメさぁ」
ライブラはやや険しい目つきになり、両手の人差し指でバッテンを作った。どうやら本当に口が滑ったらしい。
しかしレオはニヤニヤとたのしそうに問い詰めた。
「なあ、いいだろう。口を滑らせたおまえが悪い」
「酔ってたのさ。あんたもプロならわかるだろ。勘弁しとくれ」
「教えてくれ。友達じゃないか」
「えっ?」
そのひとことを聞いた途端、ライブラの顔がフワッとニヤけた。しかしすぐに手で顔を覆い、横を向いて、
「ば、バカ言うんじゃないよ! だれが友達だって!? 八つも歳下のくせして!」
と、隙間から見えるニヤけた口から言った。
それを見逃すレオじゃない。
「なあ、友達だろ。こうなったら酔ったいきおいで言ってしまうが、わたしはおまえが好きだ。仕事のパートナーとしてもベストだし、それ以前にやはり、ひととして好きだ。そんなおまえと深い話をしたいのは当然だろう」
「あ、あたしゃそんなこと思ったことはないよ! 仕事上、仕方なく付き合ってるんだ!」
それにしてはうれしそうな声だなぁ。
「なんどもいっしょに風呂に行った仲じゃないか。わたしはおまえに温泉のよさを教えてもらって感謝してるんだぞ」
「ば、ば、ば、バカだねぇ!」
ライブラはやっぱりうれしそうだった。口ではいやだと言っているが、空いている手をバタバタ上下させている。かなり酔ってるのかな?
そういえば以前レオが言っていた。
「あいつは本心ではわたしと仲よくしたがっている。だがプライドが高いうえに呪術師だ。こころの壁は鉄壁といっていい」
それがこんなふうになっちゃうんだから、お酒って怖いなぁ。
「そうか、なら仕方ないな」
レオはふぅとため息混じりにつぶやき、身を引いて、
「ま、言いたくなければ言わなければいい。わたしは友達の意見を尊重する」
そう言ってグラスをかたむけた。どうやらあきらめたらしい。
するとライブラは逆に、
「……そんなに聞きたいのかい?」
と、いじらしい声で言った。あれ? なんかあべこべだぞ?
「いや、別におまえが話したくないならいい。気にはなるがな」
「やっぱり気になるんじゃないかい」
「だが秘密だろう?」
「……」
顔から手を離したライブラは口をもごもごさせ、妙に不満げだった。なんでだろう。しつこいのが収まったんだからよかったじゃないか。
そう思っていたら、
「……あんたは特別さね」
ありゃま。
「いいかい、ここだけの話だよ。呪術師にとって秘密を話すことがどれだけ大きいことかわかるだろ。あんただから話すんだからね」
ライブラはとうとう折れてしまった。変なの。教えろ教えろって言われても話さなかったのに、いいやって言われると話しちゃうなんてさ。
「あんたらも顔を寄せな。あまり大きな声じゃ言えないからね」
そう言ってライブラは話しはじめた。
それは三日前の晩だった。
ライブラはふたつ向こうの田舎町で、ひとり酒をあおって眠っていた。
「小さな宿さ。たまたま仕事があってね」
静かな晩だった。都会と違い、みな朝が早い。酒屋はあるが飲み屋はなく、月夜を歩くのは野良犬か、息を殺して逢引に向かう若いカップルくらいだった。
だから空気が透き通った。
ひとの気配は空気を濁す。人間は知らず知らずのうちに念を発し、大気に溶かしている。
それがないと、音が通る。
光が通る。
風が通る。
魔力が通る。
そして、夢も通る。
「あたしゃ闇の中にいたのさ」
意識ははっきりしていた。
一切の光のない、真の闇の中に彼女は立っていた。
その姿が、少し離れたところから見えていた。
下着姿で布団にくるまっていた自分が、旅の格好で闇に立ち、それが第三者の視点で見えている。
——だれかの夢だね。
すぐに気づいた。そうめずらしいことではなかった。
ひとはよく、だれかの夢に入る。濁りのない澄んだ夜は、近くで眠る他人の夢に意識が飛ぶことがある。
浅い眠りでは体験しない。深い深い眠りのときだけ誘われる。
通常、記憶には残らない。ひとは深い夢を忘れてしまう。だが優れた呪術師は夢という精神世界を認識し、明確な意思を持って動くことができる。
夢の主は十歩先にいた。
色彩のかけらも混じらない真っ黒な空間に、ひとりの女がへたり込んでいた。
女はうつむき、顔を覆って泣いていた。
女はうめくように言った。
「消したい、消したい……」
ライブラは仕事の眼差しで睨み、聞き続けた。
「消したい、消してしまいたい……」
苦しみの念だった。聞いていると自分まで胸が詰まりそうだった。
どうにも放って置けない。
ライブラは意を決して足を踏み出した。
夢に触れようというのだ。
彼女は素人ではない。強力な念に干渉すれば、見えないさだめに結ばれる恐れがある。
感覚からして近くではない。おそらくあの地方都市だろう。
それがこんな距離まで届くのだから、今夜はよほど夜が澄んでいるのか、それだけ苦しみが濃いか。
——まず、後者だろう。
「なにを消したいんだい」
ライブラは女の前に立ち、平坦に言った。同情や怯えを見せればしがみつかれる。
女は言った。
「こころです」
「こころ?」
「こころを消してしまいたい。こころがあると、つらい」
女はめそめそと泣く。その分苦しみが濃くなる。
ライブラはあえて顔色を変えない。
「どうしてこころを消したいんだい」
「苦しいからです」
「どうして苦しいんだい」
「愛しているからです」
——なるほど、男か。
よくあることだ。女は愛への執着が強い。さしずめ悪い男にでも捕まったか、思うようにいかず愛憎を抱いたのだろう。
ライブラは呆れ混じりに言った。
「そんなことで泣いてるのかい。情けない。男なんてほかにいくらでもいるだろう」
すると、
——ぴたり、と泣くのをやめた。
気配がピンと張った。
耳鳴りのしそうな静寂が漂い、女は彫刻のように微動だにしなくなった。
ライブラの肌は痺れるような怒りを感じた。
色でたとえるなら黒だろう。
真っ赤な熱はない。そんな怒りでは夢で泣いたりしない。
血の流れの止まるような塞ぎ込んだ怒りが、逃げ場を求めて夢となる。
もっとも、どんな怒りだろうとライブラに不安はなかった。
仕事柄、愛も憎悪も山ほど見ている。殺意など恐るるに足りない。
だが、今回は違った。
「どうして」
おんなは静かに言った。
「どうしてほかにいるなどと思えるでしょうか」
言いながら、ゆっくりと両手を降ろした。
隠れていた顔があらわとなった。
「うっ……!」
ライブラは声を漏らした。
片方の目は悲しみで涙を流していた。
片方の目は怒りで吊り上がっていた。
それなのに、口はあたたかく微笑んでいた。
「はっ!」
ガバリと目が覚めた。
全身が汗で濡れていた。
「………………ふぅ」
危ないところだった。
恐ろしい貌だった。
たんなる憎しみではない。
生半可な愛ではない。
胸がえぐれるほどの幸福がそこにある。
それらがどろどろに練られ、苦しみを生んでいる。
もし一瞬、目を覚すのが遅ければ繋がっていた。
だが、完全には逃れられていない。
「あたしゃ気になっちまったのさ」
ライブラは言う。別にあの女がどうなろうが知ったこっちゃない。“繋がり”は生まれていないし、文字通り悪い夢を見たと思えばそれで済む。
だが、気になる。
あの女はなぜ苦しんでいたのか。
あの女はどうしてあんな貌をしていたのか。
——できることなら救ってやりたい。
「そう思っちまったが最後、こりゃ呪いさね」
そうしてライブラはこの街を訪れた。場合によっては彼女のこころを消すことになると思いながら。
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