月歌~あなたの歌声は、月光のように温かい~

古紫汐桜

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届かない横顔

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うちのお店には制服がある。
青いシャツに赤いネクタイ(男性は青いネクタイ)、紺のセーターまでは会社支給。
けれど“下”だけは各自で用意する決まりだ。

 色は紺か黒ならOKで、スカートでもパンツでも自由。

 一方、男性社員は紺のパンツ指定なので、上下そろって支給されている。
だから森野さんは、いつも制服姿だ。

 私は巻きスカート風のキュロットを履いているから見える心配はないものの――
寝転がっていた体勢のままでは、さすがに恥ずかしくて、慌てて体育座りになった。

「な、なんで森野さんがここに……?」

 裏返った声に、自分でもびっくりする。

「はあ? ここ、俺の休憩所」

 当然のように言いながら、ズボンのポケットからタバコを取り出す。

 咥える前の、ほんの一瞬の“間”。
視線はどこか遠くを見ていて、普段の怒った顔しか知らない私はつい見とれてしまった。

「森野さん……タバコ吸ってたんですか?」

 ぽつりとこぼれた疑問に、森野さんは一瞬だけ目を見開いた。

「……たまにな」

 火をつけると、白い煙がひゅうっと冬の風に溶けていった。

 その仕草が妙にサマになっていて、目が離せないでいると──

「さっきの歌」

 突然、森野さんが口を開いた。

「えっ、き、聞いてたんですか!!?」

 一気に顔に血が上る。

「人聞き悪いな。聞いてたんじゃなくて──聞こえたんだよ」

 少しむっとしたように眉を寄せて、こちらを見る。

 そして次の瞬間。
ふっと、何かが変わった。

 白い煙越しに、真っ直ぐこちらを射抜くような視線。

 ──ドクン。

 胸が跳ねた。
切れ長の目の奥で、漆黒の瞳が揺れて、何かを訴えているように見えた。

 視線を逸らせない。
吸い寄せられたみたいに、森野さんの瞳に捕らえられてしまう。

 どれだけ見つめ合っていたのだろう。
ほんの数秒のはずなのに、妙に長く感じた。

 ふっと表情が緩み、視線が外れた。

「……お前、歌が下手だな」

「ぎ、ぎゃ~~~~~~!!!!!」

 燃えるような恥ずかしさに、思わず絶叫したその瞬間──

「馬鹿、声がデカい!」

 後ろから口を塞がれた。

 唇に触れたのは、長くて大きくて、少しゴツゴツした男の手。
思ったより冷たくて、きっとずっと外にいたのだと分かる。

 息をのんで黙ると、森野さんはそっと手を離した。

「あ……悪い。ここがバレたら、俺の居場所がなくなるからさ」

 ぽつりと呟いて、再びタバコに火をつける。

 その横顔はすぐ隣にあるはずなのに、やけに遠く感じられた。

「……休憩室、行かないんですか?」

 思わず聞く。

「外野がうるさい」

 それだけ。

 そういえば噂で聞いた。
森野さんは容姿もスタイルも良すぎて、どこへ行ってもバイトの子たちが群がるらしい。

「あ……じゃあ、私も邪魔ですよね。すみま──」

 慌てて立ち上がろうとした瞬間。

「バ~カ。お前が先客だろ。
それに……邪魔なら声かけねぇよ」

 小さく笑う。

 その笑顔に胸がギュッと痛くなるように締め付けられた。
思わず胸を押さえた時──

「……お前、本当に好きなんだな」

「え?」

 不意に落ちた言葉に、思わず聞き返す。

「さっきの顔。
あの曲、聞いてる時のお前……すげぇ良い顔してた」

 視線を外しながらそう言い、森野さんはタバコを携帯灰皿に押し込む。

「悪かったな」

「……え?」

 その言葉の意味を理解する前に、静かに続けた。

「お前がそんなに大切にしてるとは思わなくて、けなして悪かった。
……その歌ってる奴もさ。
お前みたいに大事に思ってくれるファンがいるなら……嬉しいんじゃねぇか」

 本当に独り言のような、静かな声。

 胸の奥がじんと熱くなった。

「……そうだといいですけど」

 照れくさく笑うと、森野さんは小さく微笑んだ。

「そんなに大切にしてる人を悪く言われたら、腹立つよな」

 横顔は静かで、どこか寂しげで。
隣にいるはずなのに、どうしてこんなに遠いんだろうと思う。

「そんな……私こそ、森野さんに失礼なことをたくさん言いましたし……お互い様です」

 やっと絞り出した言葉。

 森野さんは一度だけ私を見ると、小さく笑った。
けれどすぐに視線を遠くへ戻す。

 その瞳は、何も映していないようで。
私には触れられない“どこか”だけを見ているようだった。

 まるで──これ以上近付くな、と言われているみたいに。
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