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Lesson5 恋の愛印《メジルシ》

STEP④ 麻痺から忘却へ

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「はあ……」
 何度ため息をついたことか。一週間経っても失恋の傷は癒えなかった。
 帰りの記憶がない。海香ちゃんと劇的な別れをした後、どうやって帰ったか覚えていないのだ。まあ、普通に考えれば電車だろうが、気づいた時には自宅の不細工な猫が描かれたカーペットの上で大の字になっていた。音もなく、香りもなく、ただただ天井を見ていた。乾いた涙のせいで引きつった目尻の感覚だけが、泣いていたんだなと実感させてくれた。その後もずるずる引きずり、今日に至る。
 アニメなんてなんの気休めにもならなかった。大概アニメには恋愛描写があり、それを観るだけで失恋の傷口にさわるのだ。もちろん恋愛描写のないアニメもあるのだが、気持ちがアニメの内容に向かわなかった。
 いつも飲んでいる紅茶も、俺の心にぽっかりと空いた穴を埋めることはできなかった。穴を通り抜け、流れていくだけ。時間が解決してくれるのを待つしかないのかもしれない。それまで意図せず出てしまうため息の数でも数えるしかないと、諦めている次第だ。
「はあ……」
 その瞬間、バンッとデスクを叩く音が事務所内に響いた。
「あー! もうっ! さっきから辛気臭いため息吐かないでくれる!? うっとうしいのよ!!」
 小坂は眉間にこれでもかと皺を寄せ、真向かいにいる俺に怒鳴ってきた。
「ごめん……」
「そんなに嫌になったの? CMFの勉強」
 呆れた口調で言う小坂。
「いや、そうじゃないんだ」
「じゃあなんなのよ?」
「大丈夫。個人的なことだから。ははははは……」
 俺は生気なく笑う。小坂は頬杖をつき、俺を不思議そうに見つめてくる。
「はあ……」

 事務所の終業時間となり、従業員達は事務所をぞろぞろと出る。太陽はもう沈もうとしていた。暗くなりかけている街をサラリーマンやOLらしき人の列の中に入り、駅へと向かう。改札を通り、駅のホームで電車を待つ。
「はあ……」
 このまま帰りたくないなぁ……。
 俺はスマートフォンを取りだし、コネクトを開いた。俺は悩む。
 俺が画面を見つめて固まっている間に、いつも乗る電車がホームへやってきた。電車の中に入っていく人達。俺は指を動かした。警笛が響く。それを合図に、電車は駅を出発した。

 俺は電車を一時間乗り、数十分歩いた先にある一つのお店へやってきた。
 俺は店内に入る。モダンなドアを開けた瞬間、香ばしい煙が熱気と共に顔に触れた。俺の目に真っ先に入ってきた天井の電飾。電球がツリーのように天井へと張り巡らされていた。なんというか、ざっくりした店だ。店員のお決まりサービスに受け答えをして、コンクリートむき出しの床を歩いた。爽やかな肌色の木の仕切りがボックス席となっていて、何人かの客がそれぞれのテーブルの中央にある黒い鉄板を囲んでいた。
 俺は店員から提示された番号のボックスで止まった。
「よう~! きょっちゃん! お誘いを受けた伊佐山光秀だ」
「悪いな。突然」
「なにいいってことよ! 滅多に誘ってこないきょっちゃんの飲みだ。マイハニーとの食事より優先しちゃうぜ」
 俺は粋のいいみっちょんの冗談めいたセリフに苦笑いしながら、席に座る。
「どうしたんだ? 突然飲みに行こうなんて」
 みっちょんの隣にいた楊枝がテーブルに肘をついていてくる。鉄板の上にはすでに海鮮炒め的な物が焼かれており、水分を飛ばす音が鉄板の上で鳴っている。
「ああ、今日は誰かと飲みたいなぁなんて」
「へー。きょっちゃんがそんなこと言うとはな」
 楊枝は意外そうに呟く。
「なんだぁ? もしかして今更館花さんの告白を断ったのを後悔してんのか? なんなら、俺が他の女の子を紹介してやろうか?」
「今そういう気分じゃないんだよ」
「淋しいんだろ?」
 みっちょんはニヤニヤとしながら俺の反応をうかがう。
「まあ……淋しいかな」
 俺は店員の持ってきてくれた水を飲む。
「歯切れ悪っ! お前、今日は一段と暗いなぁ。遂に自己破産寸前の社長みたいな顔しちゃって」
「彼女と別れた」
「……」
「……」
「……」
 会話が止まった。
 楊枝とみっちょんは真顔だ。俺は二人の様子にツッコむ元気もなかった。

「彼女って、蘭子の後輩の彼女か?」
 みっちょんは微妙な雰囲気に呑まれ、みっちょんの取り柄である明るい調子が消え失せてしまった。
「そう。一週間前に突然だよ」
「なるほどな。彼女と別れ、傷心の極みに耐え切れなくて、そんなに落ち込んでると」
 楊枝は海鮮炒めもどきを俺達の皿に取り分ける。
「そういうことです」
「分かったよ。とことん付き合ってやる」
「おうおう! 俺だって付き合うぞ。何軒でもはしごしてやろう!」
 みっちょんは腕まくりをして肘を曲げ、力こぶを見せてくる。
「まあ、そんなに飲めないから、はしごは無理かもだけど」
 俺は空元気で微笑する。
「それで、なんで別れたんだ?」
「えっと……」
「言いたくなかったら言わなくてもいいぞ?」
 楊枝が配慮してくれる。
「ごめん……ただ」
 俺は一呼吸置いて話す。
「俺が悪かったんだよ。いつの間にか、彼女を傷つけてたんだ。俺は、最低な男だよ……」
 俺は木の仕切りに力なくもたれた。俺はたどたどしく別れた原因をみっちょんと楊枝に語りながら、時々愚痴を零し、お酒を浴びるようにあおった。

 深夜三時。俺はようやく帰宅した。俺は玄関に座り込んでしまう。靴を脱ぎ捨て、這うようにして指定席の座椅子に座る。
 もう平衡感覚は失われていた。俺は悪友と共に三件はしごして、限界まで飲んだ。みっちょんは二件目でダウンし、奥さんに迎えに来てもらって送還された。
 三件目では楊枝とさしで飲んだ。俺はもうベロベロになりながら飲み続けた。
 俺が三件目のお店を出た時にはまともに歩けず、楊枝が肩を貸してくれ、タクシーを拾って同乗してくれた。おまけにタクシー代も出してくれた。楊枝がお酒に強かったおかげだ。今度、何かお礼しないとな。
 俺は色んな物に掴まりながら台所へと足を運び、コップに水道水を入れて一気に飲む。
 あー……少し気持ち悪いかも。
 限界がきて、俺はベッドに倒れるように寝転んだ。


    ☆


 十二月二十三日。もうすぐ聖なる夜が間近となった頃、俺はちょっとだけ元気を取り戻しつつあった。やはりみっちょんと楊枝との飲みと会話が効いたようだ。少しずつ仕事もはかどりだして、周りにも心配されなくなってきていた。
 休日だった本日。俺は自宅で塗り絵をしていた。ただの塗り絵とはわけが違う。金属、木材、プラスチック、粘土、ガラスに塗っていくのだ。絵具も取り揃えた。水性アクリル、水性テンペラ、油絵具、溶剤型アクリル、彩漆いろうるし、パステル。チラシや要らない書類を下に敷いて、床に絵具がつかないように作業していた。そんな回復の兆しが見えてきていた時、俺にある連絡が入った。
 スマートフォンが電子音を鳴らして震えた。俺は手についた絵の具を濡れタオルで拭き取り、スマートフォンを取った。画面はコネクトではなく、普通の電話だった。しかも宮本さんからだ。不思議に思いながら電話に出る。
「もしもし?」
「佳織、そっちに来てない?」
「え? 来てないけど」
 なんで館花さんの名前が出るんだろうか。電話越しの声はどこか焦っている気がする。
「どうかしたの?」
「佳織がいなくなったの」
「はいっ!?」
 俺は驚愕する。
「どういうこと?」
「さっき縣さんから連絡があって、佳織と連絡が取れないらしいの。それで、佳織のマンションに行ってスペアキーで開けたんだけど、自宅にもいなかった。部屋の中の家具や物も減ってるらしくて、マンションの警備員さんに訊いたら、三日間くらい戻ってないって」
「それって……」
 俺の背中に嫌な汗が出てくる。
「分からない。でも最近は元気になってきてたし、そこまでしないとは思うけど……仕事も休んでるみたいで、連絡も取れないと、やっぱり心配だから」
「……」
「もし、見かけたり、連絡取れたら教えてくれる?」
「分かった」
「じゃ」
「うん。それじゃ」
 俺は電話を切った。
 俺のせいなのか? いや、うぬぼれすぎてるな。それに、今更俺が探しに行って彼女に会った所で、何もできないだろう。俺にはもう、そんな資格はない。彼女が一番嫌っていた代用品という形で、海香ちゃんと付き合っていたのだから。
 俺はスマートフォンを俺の視界に入らないようにベッドに置き、塗り絵を再開した。
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