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Lesson5 恋の愛印《メジルシ》
STEP⑤ 誰かのために愛せるなら
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翌日。クリスマスイブだというのに普通に平日だ。まあ、社会人に暦の上での平日も休日もないのは当たり前なのだが、聖なる夜がもう数時間だというのに特別感がない。強いて言うなら、社長からの命令が今日の特別感を生んでいた。急な依頼が舞い込んできて、社長はそれを引き受けたのだ。早急に仕事を仕上げてほしいとのことで、事務所内は若干慌ただしかった。
俺はCMFの勉強を休んで、線画を急ピッチで仕上げていく。その後ろでアールグレイを飲みながら、いつものように小坂が線画の仕上がり具合を見ていた。とんだクリスマスプレゼントだ。この仕事が終わったら何か特別ボーナスを切望する! と心の中だけで唱えた。
唐突に事務所のドアが開いた。
「はーい。社長が超重役出勤で来ましたよー」
社長が変なアピールをしながら入ってきた。
「あぁ、社長お疲れさ……」
社長に目をやった瞬間、社長の背よりはるかに高い人物が社長の後ろに立っている。スーツを着た男性は事務所内に入ってドアを閉めると、俺達に向かって一礼した。事務所内が一気に張りつめる。
「お久しぶりです。青野さん……」
その男性は、バブルスプラッシュの社長、縣帝だった。
「縣さん、どうしたんですか?」
俺は思わず立ち上がった。
「知っているんじゃないですか? 佳織の失踪のこと」
縣さんが来た時点である程度察していた。
「はい……宮本さんから聞きました」
「ずっと探していますが、まったく手掛かりが見つかりません。行きそうな場所も当たってみました。それでも、有力な情報も得られませんでした」
「そうですか」
なんて言ったらいいか分からない。差しさわりのない言葉で、相槌を打つくらいしかできなかった。
「あの……ここではなんですし、応接室にご案内しますよ?」
鹿賀里さんが丁寧に促す。
「いえ、ここで構いません。すぐに終わりますから」
縣さんは口を差し挟ませない気迫を醸しだしながら毅然と断る。誰もがこの状況に凍りついて動けないのに、潤川社長はなぜか俺の席に座る。
「今日ここに来たのは、あなたの真意を伺いたくて来ました」
「真意?」
「ええ。佳織のことで」
俺は戸惑いを持て余し、俺の席に座る社長に視線を送った。社長は俺に微笑む。
「あなたは断ったそうですね。佳織の告白を」
「はい……」
「なぜですか?」
「そりゃ、俺なんかより、館花さんは縣さんといた方が幸せになれると、思ったからです……」
俺は小さくそう言った。縣さんの真剣な視線を前に委縮してしまう。
「あなたが好きなのに、ですか?」
縣さんのストレートな言葉に、顔が引きつる。俺は縣さんの表情に押され、真剣に答えなければと感じた。
「好きだからです。好きだから、一番幸せにしてくれそうな人と、いてほしいんです……」
俺は怯えながら決意を込めて言った。
「こんな結果になっても言えるんですか?」
「え?」
「佳織は姿を消し、俺達の前からいなくなろうとしています。これ以上迷惑をかけたくないから。佳織がそう思っても不思議じゃありません。彼女のこの選択が、あなたが望んだ形だったんですか?」
「でも、俺にはもう、何もできないと思います……」
俺は視線を下げた。
「何もできない!?」
「はい……。俺が行っても、彼女は俺に耳を貸さないと思います。俺が、彼女の前にいる資格はありません」
オフィスに立ち込める空気が降りて、床に積もっていく。俺は縣さんがこれで諦めてくれたらと期待して顔を上げた。しかし、縣さんは歯を食いしばり、不快そうに眉間に皺を刻んだ。
「あなたは、どこまで俺を貶せば気が済むんですか……!」
声を押し殺して呟いた言葉は、今まで聞いたことのない縣さんの声色だった。縣さんは突然俺に近づき、胸ぐら掴んで自分の顔に引き寄せた。
その瞬間、周りで見ていたみんながざわついたのを感じた。
「あなたが探さなくてどうするんですか!!」
縣さんは威圧感たっぷりに怒鳴ってきた。俺はもうビビりまくっていた。
「卑屈になって、現実から目を背けてどうするんですか! 何もできない!? あなたは彼女を変えたじゃないですか!」
「……」
俺は言葉も発せないくらい呆然としてしまう。縣さんは目を閉じてうつむいた。気持ちを静めているようだった。縣さんは俺の胸ぐらを離した。
「俺と付き合った当初、彼女はよそよそしかったんです。警戒しているのか、緊張しているのか分かりませんでした。デートを重ねれば、少しは変わるだろうと思っていました。だけど、一ヵ月経っても、彼女は変わりませんでした」
縣さんは一拍空けて目を開ける。
「でも、一ヵ月と半月をすぎた辺りから、彼女は自然体で俺と接してくれるようになりました。やっと打ち解けてきたと思いました」
縣さんは俺から視線を外した。
「後日、彼女からあなたとの関係を教えてもらいました。その時気づいたんです。彼女が変わったのは、俺が彼女とデートを重ねて変わっていったのではなく、青野さんが変えてくれたんだと……」
そうだ。前にも縣さんはそんなことを言っていた。
「彼女はまだ、青野さんのことを想っているんじゃないんですか? あなたに拒絶された今、彼女の想いは行き場所を失いました。その想いを抱え、消えてしまおうとする彼女を引き留められるのは、あなたが適役だと考えています」
急に言われても、俺は何をしたらいいか分からない。気の遠くなるような問題を課せられてしまい、俺は重荷を感じてしまう。
「できるかどうかとか! そんなことはどうだっていい……。あなたがもし、彼女に幸せになってもらいたいと、本気で思っているのなら、行動で示してください!!」
縣さんが言い終えた後、静まり返った事務所内は暖房の音だけが響いていた。縣さんは軽く息を吐く。
「突然押しかけ、ご迷惑をおかけしました」
縣さんはそう言うと、きびすを返して事務所を出て行った。
俺は肩の力が解けていくのを身に染みて知覚する。縣さんが静かに去ったドアを見つめたまま。
確かに心配ではある。だけど、俺は別に彼女を変えさせようと思ったんじゃない。彼女が変わろうとしたから変わったんであって、俺が変えさせたわけじゃない。彼女の努力でそうなっただけだ。それに、これが彼女の望んだ形であるなら、俺がどうこう言うことでもない。
俺は鼻から息を吸い、振り返った。
「お騒がせしてすみませんでした! なんか、変なことになっちゃってるみたいだけど、気にしないで作業を続けてください!」
俺はわざと元気な声で言った。俺も仕事を再開しようと席に近づく。
「じゃ、社長! 依頼パパッと終わらせますね!」
俺の椅子の背にもたれて座っている社長に言うが、社長は椅子の座面の端に両手を置き、目を瞑って動かなかった。
「あの、社長?」
「青野さん」
「はい」
社長は瞑っていた目を開いて、俺を見据えた。
「もう帰っていいです」
「え……いやあの、まだ途中なんですけど」
「今回の依頼は法堂さんでもできますから、青野さんじゃなくてもいいですよ」
「どういうことですか?」
社長は打ち払った空気を掴むような澄んだ瞳を突き刺す。こういう時の社長は本当に子供に見えない。
「青野さんは、元彼女さんを幸せにしてあげたいから、告白を断ったと言いました。だけど、それは元彼女さんが思う幸せじゃない。このズレが生じているのは、そもそも価値観が違うからです。幸せと感じるのはその人が幸せと感じるかどうかが大前提です。縣さんと青野さん。元彼女さんと青野さん。それぞれ違う人間がいくら相手の気持ちを理解しようが、相手の気持ちを推し量った所で、別の人間であり、違う価値観を持っていることに変わりはありません」
「……それと、俺が帰る理由がどう繋がるんですか……?」
「だから、青野さんが考えた元彼女さんの幸せは、自分の価値観というものさしで測って考えられた幸せなんです。つまり、青野さんがどんなに元彼女さんのことを想った所で、元彼女さんの幸せを決めるべきじゃないんです」
「俺が間違っているって言うんですか?」
「そうです。もちろん、何が幸せかなんて簡単に分かるわけありません。当人が見つけられていない場合だってあります。他人ができるのは、せいぜいその幸せ探しを一緒にしてあげるか、当人が決めた幸せのためにサポートしてあげるしかないんです」
社長はスカートのポケットに手を入れた。社長が取りだしたのはICレコーダーだった。社長は再生ボタンを押した。
『都合が良すぎるって分かってる。横暴でわがままで、素直じゃない私とずっと一緒にいてくれる人なんて、いないことくらい』
館花さんの声が流れてきた。ウエディングドレス姿でこの事務所に来た時の会話だ。どうやらあの時の会話は録音されていたらしい。
『青野君が好きです……愛してる』
凛と切なさを纏う吐息と共に、鮮烈なまでのセリフが再生された。
館花さんが告白した所でICレコーダーを止めた。
「元彼女さんは素直に想いを伝えました。変わった自分の、素顔のままを……。元彼女さんが変わったなら、次は青野さんが変わる番ではありませんか?」
社長は何かを訴えかけるように俺を真っすぐ見た。
俺は拳を握った。館花さんの顔が甦ってくる。
笑った顔。怒った顔。恥ずかしそうにする顔。悩んだ顔。泣いた顔。
たくさんの俺の思い出の中に、館花さんがいた。
こうなってしまった以上、俺の願いは届かないのかもしれない……。でも、館花さんが全てを投げだすなら、俺は……。
俺は拳を解き、口を開いた。
「社長。俺、急用ができたんで、今日は帰ります。もしかしたら、しばらく事務所に来れないかもしれません」
社長はふっと笑った。
「ええ。その時は有給扱いにしておきますから、気にせず用事を済ませてきてください」
俺は笑みを浮かべた後、ジャンパーを着て帰る支度をし、事務所を急いで出た。
☆
社長はため息をついた。
「なんで私が年上の男性に説教しないといけないんですかねぇ」
社長は呆れながら椅子から立ち上がり、電気ポットの置いてある棚に歩いていく。
「青野君、いい男になったねぇ」
「やっぱり若いっていいですね~」
倉井さんと法堂さんは笑い合う。
「なんか、ドラマみたいでしたね」
愛海さんは緊張から解放されたようにほっとしていた。
「ほんと、青野さんって馬鹿ですよね。好きなら好きって言えばいいのに」
「小坂君、それ自分にも言ってる?」
倉井さんはからかうように訊ねてきた。
「は? なんでですか?」
「いや、小坂君も好きって言わなくていいのかなぁって」
「誰にですか?」
「誰って、青野君に決まってるじゃん」
当然のように言う倉井さんの顔を殴りたくなってきた。
「この前言ったじゃないですか。青野さんの絵が好きなだけで、私は青野さんを好きになってなんかいません!」
「そうかい? でも、寂しいんじゃない?」
「っ、なんで、私が寂しくならないといけないんですか……」
「青野君が遠くに行っちゃう気がする。そう思ってるんじゃないの?」
私は口の内側を軽く噛む。
「私は、青野さんと仕事ができれば、それでいいんです……」
私は手に持っていたティーカップを見つめた。
「ふーん……」
倉井さんの愚鈍な笑みに一発を入れてやりたいくらいムカついていたが、そんなことをすれば余計に思い込むのは目に見えていた。
「青野さんと小坂さんは息ぴったりのパートナーだもんね」
愛海さんが余計なことを言う。
「もう! パートナーとか言わなくていいから! 仕事しましょう仕事!」
私は無性に恥ずかしさを覚えながら、みんなに促した。
「はいはい」
それぞれが持ち場につく。私の前に法堂さんが座る。青野さんの席で、途中だったラフに取りかかる。私は法堂さんの前にある画面に集中しようとする。
「小坂君」
倉井さんが話しかけてきた。
「なんですか?」
私は仏頂面で訊いた。
「今日飲みに行くかい?」
「倉井さん、今日女の子とデートじゃないんですか?」
私は軽蔑の視線を送る。
「それが昨日急に他の男とデートするからって取り消されちゃってさ。ちょうど予定が空いちゃったんだよぅ」
「……」
「どうする?」
倉井さんは私を試すように訊いてくる。
「……私、悪酔いしますよ?」
私は倉井さんの顔から視線を逸らし、小さく言った。
「ああ、そのつもりだから全然構わないよ」
「ありがとうございます……」
「いいさ。酔い潰れた時は、ちゃんと介抱してあげるから」
「変なことしたら男としての機能を完全に破壊しますから!」
私は倉井さんを睨んだ。
「そんなことしないって! やだなー小坂君はぁ! あは、あはははは……」
倉井さんは引きつった笑顔を口元に含みながら私を宥めた。
俺はCMFの勉強を休んで、線画を急ピッチで仕上げていく。その後ろでアールグレイを飲みながら、いつものように小坂が線画の仕上がり具合を見ていた。とんだクリスマスプレゼントだ。この仕事が終わったら何か特別ボーナスを切望する! と心の中だけで唱えた。
唐突に事務所のドアが開いた。
「はーい。社長が超重役出勤で来ましたよー」
社長が変なアピールをしながら入ってきた。
「あぁ、社長お疲れさ……」
社長に目をやった瞬間、社長の背よりはるかに高い人物が社長の後ろに立っている。スーツを着た男性は事務所内に入ってドアを閉めると、俺達に向かって一礼した。事務所内が一気に張りつめる。
「お久しぶりです。青野さん……」
その男性は、バブルスプラッシュの社長、縣帝だった。
「縣さん、どうしたんですか?」
俺は思わず立ち上がった。
「知っているんじゃないですか? 佳織の失踪のこと」
縣さんが来た時点である程度察していた。
「はい……宮本さんから聞きました」
「ずっと探していますが、まったく手掛かりが見つかりません。行きそうな場所も当たってみました。それでも、有力な情報も得られませんでした」
「そうですか」
なんて言ったらいいか分からない。差しさわりのない言葉で、相槌を打つくらいしかできなかった。
「あの……ここではなんですし、応接室にご案内しますよ?」
鹿賀里さんが丁寧に促す。
「いえ、ここで構いません。すぐに終わりますから」
縣さんは口を差し挟ませない気迫を醸しだしながら毅然と断る。誰もがこの状況に凍りついて動けないのに、潤川社長はなぜか俺の席に座る。
「今日ここに来たのは、あなたの真意を伺いたくて来ました」
「真意?」
「ええ。佳織のことで」
俺は戸惑いを持て余し、俺の席に座る社長に視線を送った。社長は俺に微笑む。
「あなたは断ったそうですね。佳織の告白を」
「はい……」
「なぜですか?」
「そりゃ、俺なんかより、館花さんは縣さんといた方が幸せになれると、思ったからです……」
俺は小さくそう言った。縣さんの真剣な視線を前に委縮してしまう。
「あなたが好きなのに、ですか?」
縣さんのストレートな言葉に、顔が引きつる。俺は縣さんの表情に押され、真剣に答えなければと感じた。
「好きだからです。好きだから、一番幸せにしてくれそうな人と、いてほしいんです……」
俺は怯えながら決意を込めて言った。
「こんな結果になっても言えるんですか?」
「え?」
「佳織は姿を消し、俺達の前からいなくなろうとしています。これ以上迷惑をかけたくないから。佳織がそう思っても不思議じゃありません。彼女のこの選択が、あなたが望んだ形だったんですか?」
「でも、俺にはもう、何もできないと思います……」
俺は視線を下げた。
「何もできない!?」
「はい……。俺が行っても、彼女は俺に耳を貸さないと思います。俺が、彼女の前にいる資格はありません」
オフィスに立ち込める空気が降りて、床に積もっていく。俺は縣さんがこれで諦めてくれたらと期待して顔を上げた。しかし、縣さんは歯を食いしばり、不快そうに眉間に皺を刻んだ。
「あなたは、どこまで俺を貶せば気が済むんですか……!」
声を押し殺して呟いた言葉は、今まで聞いたことのない縣さんの声色だった。縣さんは突然俺に近づき、胸ぐら掴んで自分の顔に引き寄せた。
その瞬間、周りで見ていたみんながざわついたのを感じた。
「あなたが探さなくてどうするんですか!!」
縣さんは威圧感たっぷりに怒鳴ってきた。俺はもうビビりまくっていた。
「卑屈になって、現実から目を背けてどうするんですか! 何もできない!? あなたは彼女を変えたじゃないですか!」
「……」
俺は言葉も発せないくらい呆然としてしまう。縣さんは目を閉じてうつむいた。気持ちを静めているようだった。縣さんは俺の胸ぐらを離した。
「俺と付き合った当初、彼女はよそよそしかったんです。警戒しているのか、緊張しているのか分かりませんでした。デートを重ねれば、少しは変わるだろうと思っていました。だけど、一ヵ月経っても、彼女は変わりませんでした」
縣さんは一拍空けて目を開ける。
「でも、一ヵ月と半月をすぎた辺りから、彼女は自然体で俺と接してくれるようになりました。やっと打ち解けてきたと思いました」
縣さんは俺から視線を外した。
「後日、彼女からあなたとの関係を教えてもらいました。その時気づいたんです。彼女が変わったのは、俺が彼女とデートを重ねて変わっていったのではなく、青野さんが変えてくれたんだと……」
そうだ。前にも縣さんはそんなことを言っていた。
「彼女はまだ、青野さんのことを想っているんじゃないんですか? あなたに拒絶された今、彼女の想いは行き場所を失いました。その想いを抱え、消えてしまおうとする彼女を引き留められるのは、あなたが適役だと考えています」
急に言われても、俺は何をしたらいいか分からない。気の遠くなるような問題を課せられてしまい、俺は重荷を感じてしまう。
「できるかどうかとか! そんなことはどうだっていい……。あなたがもし、彼女に幸せになってもらいたいと、本気で思っているのなら、行動で示してください!!」
縣さんが言い終えた後、静まり返った事務所内は暖房の音だけが響いていた。縣さんは軽く息を吐く。
「突然押しかけ、ご迷惑をおかけしました」
縣さんはそう言うと、きびすを返して事務所を出て行った。
俺は肩の力が解けていくのを身に染みて知覚する。縣さんが静かに去ったドアを見つめたまま。
確かに心配ではある。だけど、俺は別に彼女を変えさせようと思ったんじゃない。彼女が変わろうとしたから変わったんであって、俺が変えさせたわけじゃない。彼女の努力でそうなっただけだ。それに、これが彼女の望んだ形であるなら、俺がどうこう言うことでもない。
俺は鼻から息を吸い、振り返った。
「お騒がせしてすみませんでした! なんか、変なことになっちゃってるみたいだけど、気にしないで作業を続けてください!」
俺はわざと元気な声で言った。俺も仕事を再開しようと席に近づく。
「じゃ、社長! 依頼パパッと終わらせますね!」
俺の椅子の背にもたれて座っている社長に言うが、社長は椅子の座面の端に両手を置き、目を瞑って動かなかった。
「あの、社長?」
「青野さん」
「はい」
社長は瞑っていた目を開いて、俺を見据えた。
「もう帰っていいです」
「え……いやあの、まだ途中なんですけど」
「今回の依頼は法堂さんでもできますから、青野さんじゃなくてもいいですよ」
「どういうことですか?」
社長は打ち払った空気を掴むような澄んだ瞳を突き刺す。こういう時の社長は本当に子供に見えない。
「青野さんは、元彼女さんを幸せにしてあげたいから、告白を断ったと言いました。だけど、それは元彼女さんが思う幸せじゃない。このズレが生じているのは、そもそも価値観が違うからです。幸せと感じるのはその人が幸せと感じるかどうかが大前提です。縣さんと青野さん。元彼女さんと青野さん。それぞれ違う人間がいくら相手の気持ちを理解しようが、相手の気持ちを推し量った所で、別の人間であり、違う価値観を持っていることに変わりはありません」
「……それと、俺が帰る理由がどう繋がるんですか……?」
「だから、青野さんが考えた元彼女さんの幸せは、自分の価値観というものさしで測って考えられた幸せなんです。つまり、青野さんがどんなに元彼女さんのことを想った所で、元彼女さんの幸せを決めるべきじゃないんです」
「俺が間違っているって言うんですか?」
「そうです。もちろん、何が幸せかなんて簡単に分かるわけありません。当人が見つけられていない場合だってあります。他人ができるのは、せいぜいその幸せ探しを一緒にしてあげるか、当人が決めた幸せのためにサポートしてあげるしかないんです」
社長はスカートのポケットに手を入れた。社長が取りだしたのはICレコーダーだった。社長は再生ボタンを押した。
『都合が良すぎるって分かってる。横暴でわがままで、素直じゃない私とずっと一緒にいてくれる人なんて、いないことくらい』
館花さんの声が流れてきた。ウエディングドレス姿でこの事務所に来た時の会話だ。どうやらあの時の会話は録音されていたらしい。
『青野君が好きです……愛してる』
凛と切なさを纏う吐息と共に、鮮烈なまでのセリフが再生された。
館花さんが告白した所でICレコーダーを止めた。
「元彼女さんは素直に想いを伝えました。変わった自分の、素顔のままを……。元彼女さんが変わったなら、次は青野さんが変わる番ではありませんか?」
社長は何かを訴えかけるように俺を真っすぐ見た。
俺は拳を握った。館花さんの顔が甦ってくる。
笑った顔。怒った顔。恥ずかしそうにする顔。悩んだ顔。泣いた顔。
たくさんの俺の思い出の中に、館花さんがいた。
こうなってしまった以上、俺の願いは届かないのかもしれない……。でも、館花さんが全てを投げだすなら、俺は……。
俺は拳を解き、口を開いた。
「社長。俺、急用ができたんで、今日は帰ります。もしかしたら、しばらく事務所に来れないかもしれません」
社長はふっと笑った。
「ええ。その時は有給扱いにしておきますから、気にせず用事を済ませてきてください」
俺は笑みを浮かべた後、ジャンパーを着て帰る支度をし、事務所を急いで出た。
☆
社長はため息をついた。
「なんで私が年上の男性に説教しないといけないんですかねぇ」
社長は呆れながら椅子から立ち上がり、電気ポットの置いてある棚に歩いていく。
「青野君、いい男になったねぇ」
「やっぱり若いっていいですね~」
倉井さんと法堂さんは笑い合う。
「なんか、ドラマみたいでしたね」
愛海さんは緊張から解放されたようにほっとしていた。
「ほんと、青野さんって馬鹿ですよね。好きなら好きって言えばいいのに」
「小坂君、それ自分にも言ってる?」
倉井さんはからかうように訊ねてきた。
「は? なんでですか?」
「いや、小坂君も好きって言わなくていいのかなぁって」
「誰にですか?」
「誰って、青野君に決まってるじゃん」
当然のように言う倉井さんの顔を殴りたくなってきた。
「この前言ったじゃないですか。青野さんの絵が好きなだけで、私は青野さんを好きになってなんかいません!」
「そうかい? でも、寂しいんじゃない?」
「っ、なんで、私が寂しくならないといけないんですか……」
「青野君が遠くに行っちゃう気がする。そう思ってるんじゃないの?」
私は口の内側を軽く噛む。
「私は、青野さんと仕事ができれば、それでいいんです……」
私は手に持っていたティーカップを見つめた。
「ふーん……」
倉井さんの愚鈍な笑みに一発を入れてやりたいくらいムカついていたが、そんなことをすれば余計に思い込むのは目に見えていた。
「青野さんと小坂さんは息ぴったりのパートナーだもんね」
愛海さんが余計なことを言う。
「もう! パートナーとか言わなくていいから! 仕事しましょう仕事!」
私は無性に恥ずかしさを覚えながら、みんなに促した。
「はいはい」
それぞれが持ち場につく。私の前に法堂さんが座る。青野さんの席で、途中だったラフに取りかかる。私は法堂さんの前にある画面に集中しようとする。
「小坂君」
倉井さんが話しかけてきた。
「なんですか?」
私は仏頂面で訊いた。
「今日飲みに行くかい?」
「倉井さん、今日女の子とデートじゃないんですか?」
私は軽蔑の視線を送る。
「それが昨日急に他の男とデートするからって取り消されちゃってさ。ちょうど予定が空いちゃったんだよぅ」
「……」
「どうする?」
倉井さんは私を試すように訊いてくる。
「……私、悪酔いしますよ?」
私は倉井さんの顔から視線を逸らし、小さく言った。
「ああ、そのつもりだから全然構わないよ」
「ありがとうございます……」
「いいさ。酔い潰れた時は、ちゃんと介抱してあげるから」
「変なことしたら男としての機能を完全に破壊しますから!」
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