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しおりを挟む白を基調とした平家が並び、迷路のように隣接し入り組んだ路地の上には洗濯物がロープに伝って干されている。窓際に飾られた緑が外壁を伝い小さな花を咲かせている。
サリーニの港町は王都の中でも交易が盛んな町だ。交易の要であるアクエリオの街のような大きさはないが、漁業と近隣との交易のお陰で小さいながらも異国民も多く訪れる観光地でもある。
「セナ、これも焼けたから並べてくれる?」
「はーい!」
店頭のバスケットに焼き立てのパンを並べれば、芳ばしい香りが店内に広がってゆく。瑞々しい苺の誘惑を振り払う。オススメの棚に並んだパンに思わず笑みが溢れた。
「ふふ、今日のキッシュも美味しそう」
母ハンナの作るパンは巷では人気がある。近所の食堂は業務提携して毎日入荷してくれる太客だし、観光客からも「美味しかった」と評判も上々。
それもこれもハンナが切り盛りしているお陰だし、セナもその味を受け継ぐべく修行に勤しんでいる。未だにOKをもらえないから店頭には並べられないが、それでもパン作りは楽しかった。
カランッ 来客を知らせる鐘が鳴った。
「すみません。まだ営業時間前で…っ」
言いかけて、セナはヒュッと息を吸った。その正装をその胸の紋章を、知らない人間はこの国にいない。
「セナ?どうしたの?」
不自然なセナの反応に違和感を覚えたハンナが厨房を出ると、セナ同様身を震わせた。そして、慌ててセナの隣に並ぶと、深々と頭を下げる。
「ようこそいらっしゃいました、騎士様」
騎士は無表情に親子を見下ろした。彼も平民の出だが、騎士という立場からこうして敬われることが多い。貴族でなくとも騎士になれるよう登用を見直してくれた王のお陰だ。しかし、それでも平民との溝は深い。例え自分がこの店の常連だったとしても、セナもハンナもこうして頭を下げて彼を迎えなければならないのだ。
「貴女がセナ殿だろうか?」
「は、はい。セナは私ですが…」
騎士にこうして訪問されるような謂れはない。心当たりを一生懸命に巡らせるも、やはり何も思い浮かばない。セナは基本的にパン屋から出ない。出るとしたら買い物を頼まれた時だけだし、それも市場を回る程度で町を出たこともない。他人に会うとしても、たまに旅人や冒険者がやって来る程度である。
「急で申し訳ないが我々と王都まで来てもらいたい」
「王都ですか?」
「失礼ですが、なぜ娘が?」
これにはハンナも戸惑った。セナが小さい頃からふたりで切り盛りしてきたパン屋だ。いつかセナが家を出ることを覚悟していたとは言え、突然現れた見知らぬ騎士に、しかも王都に行くと言われて黙っている訳にはいかない。
何事かとパン屋の周りには人が集まり始めた。買い物をしに来た訳ではない野次馬達が、騎士とやって来た馬車を無遠慮に眺めている。
「セナ!」
「っ、イリア…」
「ほら、散った散った!買わないならどっか行きなさいよ!」
野次馬を乱暴な言葉で蹴散らして、セナの友人イリアが店内に入って来る。騎士を見るなり、イリアの顔が歪んだ。
「なんで騎士サマがいるの?」
「それが、私にもよく分からなくて…」
セナは騎士を見上げた。淡々とした態度から一変、段々と居心地が悪そうに眉間に皺を寄せている。もごもごと何かを言いたそうに、しかし何も言わない騎士にハンナはセナを抱きしめた。
「この 娘を連れていく理由を教えてもらえないのなら、預ける訳にはいきません」
「それは…」
言い淀む騎士に、イリアもセナの肩に手を回す。鷹を模した金の刺繍は、王家の紋章である。その細身のレイピアは剣先が剥き出しになっていて、彼が騎士の中でも高貴な身分に仕える立場にあることを証明していた。所謂護衛騎士である。
ともすれば、益々セナを迎えに来る理由が分からない。ただ警邏に捕まる訳ではないらしい。いや、セナが警邏に連行されるような愚行を犯すことはまずないが、それでも罪を着せられている訳ではないのだと察する。
他に思い当たることがあるとすれば。イリアの脳裏に蛇のように鋭い瞳が過ぎる。
「!まさか…サファリス様の使い?」
騎士が目を見開いた。
「知っているのか?」
今度は心底驚いたような顔だった。見開かれた瞳は安堵に染まり、そういうことならとイリアはセナの肩から手を離す。
「イリア?」
「あー、うん、まぁ…そうね。なんて言うか…」
今度はイリアが歯切れ悪く言葉を詰まらせる。これにはさすがにハンナも不思議そうに首を傾げた。イリアはハンナにとっても娘のような存在であり、信頼できる商売仲間である。セナの親友という意味でも、イリアの意見は無碍にはできなかった。だからもしイリアに何か考えがあるのなら、それを聞かない理由はない。
「セナ次第だけど、悪い話ではないから安心なさい」
イリアはセナの両肩に手を置いた。言い聞かせるようにも見えるし、そう願っているようにも見える。
「でも私、王都なんて…」
「え?でもお迎えなんでしょ?」
「そうみたいだけど、でも何でか分からないし」
「まさか、言ってないの?」
イリアが騎士を見上げる。彼はこくりと頷いた。
「言うなと制約を掛けられている」
誰に、とは言わないが恐らくサファリスだろう。それはイリアは勿論、ハンナにも予測できた。サファリスといえば王国民なら知らない者はいない、優秀な魔術師である。
「あっきれた!それじゃセナは迎えどころか誘拐されるって警戒するに決まってるじゃない!魔法の無駄遣い!」
他者に言葉の制約を掛けるのは容易ではない。そんな呪術のような繊細な魔法を簡単に使用するサファリスは、やはり高名な魔術師なのだろう。だが、今この場では騎士が幼気な市民を誘拐或いは連行する図にしか見えない。
「おば様にはあたしから説明するから、とりあえずセナは早く馬車に乗った方がいいと思う」
「イリアは知ってるの?」
「まぁね…。あたしもそれなりに色々協力してたことだし。変な虫がつかないようにっていうか、変な虫が殺されないようにっていうか…」
「ん?ごめん、よく聞こえなかった」
「気にしないで!うん、とりあえず悪いようにはされない……と思うから、セナは王都に行った方がいいわ」
ほら、とイリアがセナの背を押す。戸惑うセナだが、信頼するイリアのことだから事情があるのだろうと察する。ハンナは納得していないようだったが、イリアに宥めるように止められて渋々ながらも納得した様子だ。
「大丈夫ですよ、おば様」
馬車に乗り込むセナを見送りながら、イリアはハンナに声をかけた。大切なひとり娘が突然いなくなるのだ。不安が強くなるのも仕方がない。
「セナは幸せになれるはず。てか、なってもらわなきゃ困るもの。あたしの今までの苦労も水の泡になっちゃう」
「苦労?何かあったの?」
ガシャン、と思い音と共に馬車の錠が落ちる。窓からひょっこりと顔を覗かせるセナは不安げな表情で、イリアも困ったように笑って手を振るしかできなかった。
騎士の指示で馬がゆっくり歩き始める。車輪が動き、セナは窓から身を乗り出した。馬に乗り馬車に並走していた騎士が、制するように手を伸ばす。
「すぐ帰って来るからね!」
「っ、セナ!」
ハンナも手を伸ばすが、その手は届かないままにセナを乗せた馬車は走り出す。悲しそうにやり場のない手を伸ばしたまま、ハンナは虚無感に襲われた。我儘を言ってついて行けば良かったかもしれない。別に、一緒に来てはいけないとは言われていないのだから。
呆然とするハンナの背に、イリアは手を添えた。
「世界一の魔術師サマが求婚するんですよ、セナに」
「………え?」
イリアの言葉に、溢れそうな涙すら引っ込んだ。
「一目惚れなんですって。初めてサリーニに来た時からだから、もう2年以上セナに片想いしてるんですよ、魔術師サマ」
だからあとはセナ次第。
今後セナがどんな選択をするのか、どんな未来が待っているのか、それはサファリスの恋心を知るイリアにも分からなかった。
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