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第三話 記憶の選択

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「お先に失礼します! お疲れ様でした!」

「恭矢ー、来週のシフトなんだけど……」

「すみません明日にしてください! 失礼します!」

 時刻は二十二時五分。恭矢はエイルの店長の言葉を強引に遮り、全速力で由宇のいる雑貨屋まで自転車を走らせた。今までの傾向から予想するに、由宇は最初の十分は依頼者と話をして、彼らが記憶を消したいと思った理由を聞く時間にあてている。

 まだ間に合うはずだ。急げ――!

 雑貨屋の店長に会釈をし、息を切らしながら階段を駆け上がり扉を開くと、驚いた顔をしている瑛二が視界に入った。由宇の様子を窺うと、彼女は恭矢にだけわかるように小さく頷いた。

 間に合ったのだと確信した恭矢は、改めて瑛二に対峙する形で正面に立った。

「……恭矢、なんでお前がここに? つか、お前は〈記憶の墓場〉の正体が小泉だって知っていたのか?」

「そんなことどうでもいい。俺は今ここに、瑛二を説得しに来たんだよ」

 瑛二は明らかに嫌そうな顔をして、「しつけえよ」と顔を背けた。

「俺は瑛二が努力を忘れることに大反対だ。努力をしたからって成功するとは限らないけど、成功したひとは必ず努力しているって聞く。お前がレギュラーになるために頑張った時間は、絶対無駄にならないはずだ」

 恭矢が口にした誰かが生み出した名言が、瑛二の怒りを買うことはわかっていた。予想通り、瑛二は苛立った感情を隠さずに恭矢を睨みつけた。

「うるせえな! 綺麗事なんか聞きたくねえよ! 皆そう言うんだよ! でも結局世の中は才能が一番大事だろ⁉ ゼロに何をかけてもゼロって、それこそ有名な話じゃねえか!」

「才能がないなんて、自分で決めつけるなよ!」

「黙れよ! 恭矢に何がわかる⁉」

「悩むことをやめんのは確かに楽だよ! でもお前には、それをやってほしくねえんだよ!」

「はあ? 勝手なこと言うじゃねえか。だったらさあ、もし今からまた努力をして、レギュラーになれなかったら? それに懸けてきた時間や情熱はどこにいく? 高校生活なんて三年間しかないんだ! 無駄になって後悔するのは嫌なんだよ!」

 そのとき、恭矢の脳裏に小学校のときの記憶が蘇った。友達に連れられて野球部に見学にいったときの記憶だ。

 恭矢は野球部に入りたいと思った。しかし貧乏な家庭事情を考えると、道具代や遠征代で金がかかる部活動をやるのは難しいと思った。

 瑛二の悩みが贅沢なものに思えた恭矢は、嫉妬からか頭に血が昇った。

「知るかそんなの! 悩みたくても悩めない環境にいるやつだっていんだよ! 自分の努力云々で他人に八つ当たりすんな! 甘えんな! 全部やって、これでもかってやり切ってから言えよ!」

 恭矢の気迫に一瞬たじろいだ瑛二が視線を移したのは、媒体として持ってきたであろうバスケットボールだった。表面の凹凸の差が少なく、滑りすぎるそれは瑛二がたくさん練習した証だった。彼の努力が一目でわかる球体に、由宇は白い手でそっと触れた。

「……新谷くんがやってくれと言うならば、わたしはすぐにでもあなたから記憶を奪うことができるわ。でも……どうする?」

 瑛二は由宇が手にしたバスケットボールを見つめ、体を震わせて顔を伏せた。

 それからどれくらいの時間が経っただろうか。恭矢も由宇も無言で、依頼者の答えを待っていた。

 やがて、ゆっくりと大きな深呼吸をした彼は、小さな声で告げた。

「……………………帰るよ。そいつを返してくれ」

 その返答に由宇は柔らかに微笑み、瑛二にボールを手渡した。瑛二はその感触を確かめながら、恭矢に向き直った。

「……お前の説得、ひどかったな。『知るかそんなの』って、どうなのよ? 友人を改心させる気があるとは思えねえぞ」

「しょうがないだろ。俺は部活やってないから、瑛二の気持ちはわかんねえもん」

「そうだったな。……お前は家庭の事情があってやりたくてもやれないんだよな。俺ばっかり被害者ぶって、悪かったよ」

 瑛二はふっと笑みを零した。その顔を見た恭矢は、一瞬とはいえ瑛二に自分勝手に嫉妬してしまったことに胸が痛んだ。

「……恭矢、俺、もう少し頑張ってみるわ。自分で選んだ道だし、苦労があるからこそ頑張れることもあると思うし」

 瑛二の中で怒りや悔しさが昇華され、『次』のことを考える余裕が出てきたのだろうか。彼は随分と吹っ切れた顔つきになっていた。

「よかった。瑛二がそれでも記憶を消したいって言うつもりなら、ぶん殴るしかなかったからな」

「ふざけたこと言ってんじゃねえよ。まあ、……その気持ちだけは受け取っておくよ。いろいろとありがとうな」

 瑛二はボールと鞄を持って立ち上がった。

「じゃあ俺、帰るわ」

「……あの、新谷くん。わたしがこの仕事していること……」

「わかってる。誰にも言わないって」

 由宇の心配を吹き飛ばすような快活な瑛二らしい笑顔を浮かべて、彼は部屋を出て行った。
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