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第五話 記憶の忘却
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二人は電車とバスを乗り継いで、夜道を歩き雑貨屋までやって来た。恭矢が由宇との記憶を失っていたのは、およそ二ヶ月間だ。店の風貌を見ただけでもこんなに胸が苦しくなるのに、忘れていた自分が信じられなかった。一刻も早く由宇の顔が見たくて、青葉の手を握ったまま歩を早めた。
「……恭ちゃん、待って。……ここまで来て今更何を言っているって思うかもしれないけれど、やっぱりわたし、小泉由宇に会うのが怖い。会って話してしまったら、きっとわたしたちはもう、今までみたいにいられないんだよ? だから……」
「大丈夫だよ。青葉がどんな過去を背負っていても、俺がどんな事実を知っても、青葉が受けとめられなくて暴れても、ちゃんとそばにいるから」
「ううん、違う。それも怖いけど、何より……小泉由宇に会って、恭ちゃんが恋をしている顔を見るのが、たまらなく怖いんだよ」
「……大丈夫だよ」
青葉の気持ちが、繋いだ手と不安そうな表情から伝わってくる。恭矢の根拠のない言葉に彼女が不満や疑いを口にしないのは、恭矢を信じているからではないだろう。
青葉はわかっているからだ。恭矢が由宇を一目見たら、恋心を隠し切れないであろうことに。
「……さ、行こう」
半ば強引に青葉の手を引いて雑貨屋に入ると、相も変わらず女子高生でも買えそうな手頃な値段のキーホルダーから、購入層不明な高価な置物まで陳列されていた。恭矢にはやっぱり、この店のラインナップはよくわからない。
「いらっしゃいませ」
店長は恭矢を見て少し面食らったようだが、すぐに営業用の顔を繕った。
「……こんばんは店長さん。俺、思い出しました」
会釈をしてからそう言うと、少しの戸惑いを見せた後で店長は笑った。
「そっか……いや、ごめん。君のためを思うと、忘れていた方がよかったんじゃないかなとも思ったんだけど、やっぱり嬉しくてね」
「途中で投げ出すような中途半端な真似をして、すみませんでした」
「いやいや……でもね、熱心に面倒みていた野良犬を急にほっぽり出したもんだからねえ、あの子は今まで以上に辛そうに見えたよ」
「……すみません」
「って、ごめん、忘れてくれ。君の記憶を消したのは由宇自身だもんね……あ」
店長は青葉の存在を失念していたようで、零した言葉に慌てていた。
「わたしは、綾瀬青葉っていいます。心配しないでください。わたしも同じですから。今日は由宇さんに会いに来ました」
さっきまで不安そうな顔をしていた青葉が、頑張ってしっかり者を演じていた。
「そっか。……あの子、今日はもう一仕事終えたからさ。目が赤いとは思うけど」
二人は店長に一礼し、二階への階段を昇った。その間もずっと、青葉は恭矢の左手を握っていて離さなかった。
右手で二回扉をノックして反応を窺うと、少ししてから由宇の返事が聞こえた。
すべてを思い出してから由宇の声を聞いてしまうと、まるで性質の悪いドラッグのように耳から痺れていく感覚があった。もっと聞きたい、早く会いたいと、我慢ができなかった恭矢は急くようにドアノブを回し、部屋の中に足を踏み入れた。
初めてここで由宇を見たときと同じように、教室とは違う雰囲気の彼女に、恭矢は一瞬で心を奪われた。
由宇の大きな瞳を守る長い睫毛が涙で濡れているのを確認できたのは、今この瞬間、由宇と恭矢がお互いを見ているからだ。
もし青葉と手を繋いでいなければ、たとえ由宇に叫ばれようとも引かれようとも、恭矢は全力で彼女を抱き締めただろう。
そんなことを考えてしまった時点で、恭矢は青葉に嘘を吐いていたことを悟る。
俺は――今でもどうしようもなく、小泉由宇が好きなのだ。
「相沢くんに、青葉……?」
由宇は恭矢の存在よりも、青葉に驚いているようだった。恭矢から外れた視線は、ずっと青葉を見つめていた。
「……久しぶりだね、由宇ちゃん」
「なんで……? どうしてわたしのこと……?」
由宇の表情は今までみたこともないほど狼狽していたが、青葉は迷いなくしっかりと由宇の瞳を見つめていて、恭矢の持つ印象の二人とは正反対だった。
「……わたしね、お母さんに会ったんだよ」
青葉が生まれてすぐに失踪したという母親のことを、恭矢は何も知らない。だが、由宇は青葉の一言で察するに十分だったらしい。
「……座って」
ゆっくりとした瞬きの後で、そう促した。ソファーに腰掛けていると、由宇は恭矢と青葉の分の湯のみを、ローテーブルに置いた。
「あれ、コーヒーじゃないんだ?」
恭矢の記憶では、由宇はホットコーヒーを好んでいて、いつも恭矢にも淹れてくれたはずだ。
「うん……相沢くん、コーヒー苦手だって言っていたから」
申し訳なさそうに口にする由宇を見て、恭矢は記憶を失う前に彼女にひどいことを言ったことを思い出した。由宇が恭矢との関わりを絶とうと決意した、夏休み前のあの日。もし過去に戻れるのなら、あの辺りの生活や態度を全部やり直したい。
「……今更なんだけど、ちゃんと謝らせてほしい。俺、小泉にひどいこと言った。本当にごめん」
「謝らないで。お願い」
恭矢が顔を上げると、由宇はどこか寂しげな表情をしていた。そんな顔を見たくなくて、恭矢は目の前にある湯のみを持ち上げ、緑茶を一気飲みした。
「ご馳走様でした! でも俺、コーヒーが飲みたいな。俺、ここにいるときはコーヒーじゃないと落ち着かないから」
由宇も青葉もきょとんとした顔で恭矢を見ていたが、図々しく湯のみを由宇に突き出すと、彼女はカップに熱いコーヒーを注いでくれた。
「……無理しないでね」
「無理してないよ。あー、やっぱり慣れてきたのかな? 前より美味しく感じるわ」
久々に飲むコーヒーは、やっぱりどうしたって苦かった。だけど恭矢はそんな素振りを微塵も見せないように、黒い液体をぐっと飲み込んだ。
青葉が由宇に目配せをした。由宇が頷くと、青葉は再び恭矢の手を握った。
「……恭ちゃん、待って。……ここまで来て今更何を言っているって思うかもしれないけれど、やっぱりわたし、小泉由宇に会うのが怖い。会って話してしまったら、きっとわたしたちはもう、今までみたいにいられないんだよ? だから……」
「大丈夫だよ。青葉がどんな過去を背負っていても、俺がどんな事実を知っても、青葉が受けとめられなくて暴れても、ちゃんとそばにいるから」
「ううん、違う。それも怖いけど、何より……小泉由宇に会って、恭ちゃんが恋をしている顔を見るのが、たまらなく怖いんだよ」
「……大丈夫だよ」
青葉の気持ちが、繋いだ手と不安そうな表情から伝わってくる。恭矢の根拠のない言葉に彼女が不満や疑いを口にしないのは、恭矢を信じているからではないだろう。
青葉はわかっているからだ。恭矢が由宇を一目見たら、恋心を隠し切れないであろうことに。
「……さ、行こう」
半ば強引に青葉の手を引いて雑貨屋に入ると、相も変わらず女子高生でも買えそうな手頃な値段のキーホルダーから、購入層不明な高価な置物まで陳列されていた。恭矢にはやっぱり、この店のラインナップはよくわからない。
「いらっしゃいませ」
店長は恭矢を見て少し面食らったようだが、すぐに営業用の顔を繕った。
「……こんばんは店長さん。俺、思い出しました」
会釈をしてからそう言うと、少しの戸惑いを見せた後で店長は笑った。
「そっか……いや、ごめん。君のためを思うと、忘れていた方がよかったんじゃないかなとも思ったんだけど、やっぱり嬉しくてね」
「途中で投げ出すような中途半端な真似をして、すみませんでした」
「いやいや……でもね、熱心に面倒みていた野良犬を急にほっぽり出したもんだからねえ、あの子は今まで以上に辛そうに見えたよ」
「……すみません」
「って、ごめん、忘れてくれ。君の記憶を消したのは由宇自身だもんね……あ」
店長は青葉の存在を失念していたようで、零した言葉に慌てていた。
「わたしは、綾瀬青葉っていいます。心配しないでください。わたしも同じですから。今日は由宇さんに会いに来ました」
さっきまで不安そうな顔をしていた青葉が、頑張ってしっかり者を演じていた。
「そっか。……あの子、今日はもう一仕事終えたからさ。目が赤いとは思うけど」
二人は店長に一礼し、二階への階段を昇った。その間もずっと、青葉は恭矢の左手を握っていて離さなかった。
右手で二回扉をノックして反応を窺うと、少ししてから由宇の返事が聞こえた。
すべてを思い出してから由宇の声を聞いてしまうと、まるで性質の悪いドラッグのように耳から痺れていく感覚があった。もっと聞きたい、早く会いたいと、我慢ができなかった恭矢は急くようにドアノブを回し、部屋の中に足を踏み入れた。
初めてここで由宇を見たときと同じように、教室とは違う雰囲気の彼女に、恭矢は一瞬で心を奪われた。
由宇の大きな瞳を守る長い睫毛が涙で濡れているのを確認できたのは、今この瞬間、由宇と恭矢がお互いを見ているからだ。
もし青葉と手を繋いでいなければ、たとえ由宇に叫ばれようとも引かれようとも、恭矢は全力で彼女を抱き締めただろう。
そんなことを考えてしまった時点で、恭矢は青葉に嘘を吐いていたことを悟る。
俺は――今でもどうしようもなく、小泉由宇が好きなのだ。
「相沢くんに、青葉……?」
由宇は恭矢の存在よりも、青葉に驚いているようだった。恭矢から外れた視線は、ずっと青葉を見つめていた。
「……久しぶりだね、由宇ちゃん」
「なんで……? どうしてわたしのこと……?」
由宇の表情は今までみたこともないほど狼狽していたが、青葉は迷いなくしっかりと由宇の瞳を見つめていて、恭矢の持つ印象の二人とは正反対だった。
「……わたしね、お母さんに会ったんだよ」
青葉が生まれてすぐに失踪したという母親のことを、恭矢は何も知らない。だが、由宇は青葉の一言で察するに十分だったらしい。
「……座って」
ゆっくりとした瞬きの後で、そう促した。ソファーに腰掛けていると、由宇は恭矢と青葉の分の湯のみを、ローテーブルに置いた。
「あれ、コーヒーじゃないんだ?」
恭矢の記憶では、由宇はホットコーヒーを好んでいて、いつも恭矢にも淹れてくれたはずだ。
「うん……相沢くん、コーヒー苦手だって言っていたから」
申し訳なさそうに口にする由宇を見て、恭矢は記憶を失う前に彼女にひどいことを言ったことを思い出した。由宇が恭矢との関わりを絶とうと決意した、夏休み前のあの日。もし過去に戻れるのなら、あの辺りの生活や態度を全部やり直したい。
「……今更なんだけど、ちゃんと謝らせてほしい。俺、小泉にひどいこと言った。本当にごめん」
「謝らないで。お願い」
恭矢が顔を上げると、由宇はどこか寂しげな表情をしていた。そんな顔を見たくなくて、恭矢は目の前にある湯のみを持ち上げ、緑茶を一気飲みした。
「ご馳走様でした! でも俺、コーヒーが飲みたいな。俺、ここにいるときはコーヒーじゃないと落ち着かないから」
由宇も青葉もきょとんとした顔で恭矢を見ていたが、図々しく湯のみを由宇に突き出すと、彼女はカップに熱いコーヒーを注いでくれた。
「……無理しないでね」
「無理してないよ。あー、やっぱり慣れてきたのかな? 前より美味しく感じるわ」
久々に飲むコーヒーは、やっぱりどうしたって苦かった。だけど恭矢はそんな素振りを微塵も見せないように、黒い液体をぐっと飲み込んだ。
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