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最終話 記憶の部屋
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真っ白い空間、上も下も右も左もわからない部屋の中で美緒子は立っていた。
「遅くなってすみません。俺が案内しますから、ついて来てください」
差し出した恭矢の手を美緒子は取ることはせず、鼻で笑った。
「おやおや相沢くん。急に敬語を使うようになったのは、どうしてだい?」
「ここでの俺は案内人ですからね。お客様相手に、タメ口なんてきけませんよ」
ゆっくりと歩き出した恭矢の後ろを、美緒子は黙ってついて来た。
美緒子が目覚めるまで――つまり、恭矢が目的を果たすまでのリミットは約十五分だ。初めに、恭矢は小さい部屋の扉を開けて美緒子を中に案内した。
◆
『恭ちゃん、やめてよー! セミ、怖いよー!』
『なんでだよ可愛いだろ! ほら、抜け殻見つけたから、青葉にやるよ!』
その部屋には、八歳の恭矢と七歳の青葉がいた。
恭矢の虫獲りについてきたがるくせに涙目で虫を嫌がる青葉に、虫を好きになってほしいと思った恭矢がセミの抜け殻を持って追い掛け回しているところだった。
「これは……なんだい?」
「この部屋で見ているのは、夏休みに俺の家と青葉の家で一緒にキャンプに行ったときの記憶です。ちなみに、こんなに虫を嫌がって泣いている青葉は現在、魚を鮮やかにさばくし、ゴキだって倒せます」
「それはまた……逞しくなったものだね」
部屋の扉を閉めた後は扉に鍵をかけ、その鍵を美緒子に手渡した。
次の部屋には中学校入学式当日の、真新しい制服に身を包んだ青葉がいた。
『青葉、全然似合ってねーな! ぶかぶかじゃん!』
そう言って笑った恭矢の頭を、母と修矢が叩いていた。
『これから大きくなるんだから、大きめの制服を買っているに決まっているでしょ! 大体、恭矢だって去年は同じような感じだったじゃない』
『それにまだまだチビじゃねえか。生意気なこと言うな』
母と修矢に怒られている恭矢を見ながら、青葉は不安そうな顔をしていた。
『そんなに変かなあ? ……恭ちゃんと同じ学校の制服着るの、楽しみにしてたんだけど……』
『じょ、冗談だよ、似合ってる! 可愛いよ青葉!』
しゅんとした青葉を見て良心が痛くなったのか、恭矢が照れながらそう答えると、青葉は満面の笑みを浮かべていた。
「……青葉は、この頃から君のことが好きだったのかい?」
「いえ。たぶん、もっと前からだと思いますよ」
「ほう。思っていたより、君はナルシストだね」
「だって、事実ですから。嘘は吐きません。……でも、青葉が俺に抱く感情が好意から依存へ変わった日があります。次の部屋に行きましょう」
恭矢はこの部屋の鍵も美緒子に渡し、次の部屋を開けた。
◆
この部屋の日時は昨年の冬だった。
バイトから帰ってきた恭矢は、一日一回は相沢家に顔を出す青葉が今日は来ていないと玲に聞き、具合でも悪いのかと心配して彼女の家を訪ねていた。
青葉の家には鍵がかかっておらず、中の様子を見ても真っ暗だった。父親の帰宅はまだのようだが、青葉のローファーがあることを確認した恭矢は、声をかけて彼女の部屋に入っていった。
青葉は真っ暗な部屋で一人、制服のまま膝を抱えて震えていた。尋常ではない様子の青葉に事情を聞こうとしても、一点を見つめたまま彼女は何も語らなかった。だから恭矢は青葉の震えがおさまるまで、ただそばにいて手を握っていた。
『……ねえ恭ちゃん。今日ね、わたしから大切なものがなくなって、どうすればいいのかわからなくなっちゃった……。ねえ……恭ちゃんは、わたしが必要かなあ……?』
『……必要だよ。青葉がいないと俺、死んじゃうよ。だから、そんなこと言わないでくれ』
青葉はやっと恭矢の方を見た。それから涙腺が壊れるほど泣いて、泣いて、泣きじゃくった。
そして夜が明けて目を覚ました頃には、恭矢に極度に依存する青葉が誕生していた。
『わたし、もう学校には行かない。怖いの。行きたくない。恭ちゃんはどう思う?』
『青葉が嫌なら……行かなくてもいいんじゃないかな』
『恭ちゃんには、わたしが必要なんだよね? だったらわたし、これからは恭ちゃんのためだけに生きていくからね』
青葉は相沢家で積極的に家事をやるようになった。恭矢に尽くしているときの青葉は一生懸命で、生きていこうとする意志が感じられた。
そうやって青葉が笑って生きている姿に安心した恭矢を筆頭に、相沢家が青葉に甘える日々が始まっていったのだった。
恭矢と美緒子は部屋を出た。扉を閉めると、美緒子は長く深い息を漏らした。
「……青葉がこうなったきっかけは、由宇が青葉の記憶を強奪したからなのだろう? 由宇が『裏の仕事は全部自分がやるから、この先青葉には関わらないでほしい』と言ってきたのも、この時期だ」
「そうです。だけど、青葉の人生を変えてしまったのには俺にも責任があったんです。だから俺は……この日のことを忘れることはない、忘れてはいけないと、今までそう思ってきました。……でも」
恭矢はこの部屋にも鍵をかけ、美緒子に鍵を差し出した。
「……いいのかい? この部屋は君にとってターニングポイントであり、罪を犯した日でもある特別な日だろう? 鍵を手放すことによって、君の人格はおろか、人生だって変わる可能性も出てくるよ?」
「大丈夫です。この部屋にある青葉の弱さも優しさも、母親のあなたが受け入れてあげるべきです。俺はこの部屋にある記憶がなくなったとしても、青葉の可愛いところも泣き虫なところも、頑固なところも……彼女の長所や短所を、たくさん知っていますから。青葉との関係を今まで以上に大切にしていける自信があるからこそ、あなたに差し出せるんです」
「そうか……わかった」
恭矢から鍵を受け取った美緒子の指は、少しだけ温かかった。
「遅くなってすみません。俺が案内しますから、ついて来てください」
差し出した恭矢の手を美緒子は取ることはせず、鼻で笑った。
「おやおや相沢くん。急に敬語を使うようになったのは、どうしてだい?」
「ここでの俺は案内人ですからね。お客様相手に、タメ口なんてきけませんよ」
ゆっくりと歩き出した恭矢の後ろを、美緒子は黙ってついて来た。
美緒子が目覚めるまで――つまり、恭矢が目的を果たすまでのリミットは約十五分だ。初めに、恭矢は小さい部屋の扉を開けて美緒子を中に案内した。
◆
『恭ちゃん、やめてよー! セミ、怖いよー!』
『なんでだよ可愛いだろ! ほら、抜け殻見つけたから、青葉にやるよ!』
その部屋には、八歳の恭矢と七歳の青葉がいた。
恭矢の虫獲りについてきたがるくせに涙目で虫を嫌がる青葉に、虫を好きになってほしいと思った恭矢がセミの抜け殻を持って追い掛け回しているところだった。
「これは……なんだい?」
「この部屋で見ているのは、夏休みに俺の家と青葉の家で一緒にキャンプに行ったときの記憶です。ちなみに、こんなに虫を嫌がって泣いている青葉は現在、魚を鮮やかにさばくし、ゴキだって倒せます」
「それはまた……逞しくなったものだね」
部屋の扉を閉めた後は扉に鍵をかけ、その鍵を美緒子に手渡した。
次の部屋には中学校入学式当日の、真新しい制服に身を包んだ青葉がいた。
『青葉、全然似合ってねーな! ぶかぶかじゃん!』
そう言って笑った恭矢の頭を、母と修矢が叩いていた。
『これから大きくなるんだから、大きめの制服を買っているに決まっているでしょ! 大体、恭矢だって去年は同じような感じだったじゃない』
『それにまだまだチビじゃねえか。生意気なこと言うな』
母と修矢に怒られている恭矢を見ながら、青葉は不安そうな顔をしていた。
『そんなに変かなあ? ……恭ちゃんと同じ学校の制服着るの、楽しみにしてたんだけど……』
『じょ、冗談だよ、似合ってる! 可愛いよ青葉!』
しゅんとした青葉を見て良心が痛くなったのか、恭矢が照れながらそう答えると、青葉は満面の笑みを浮かべていた。
「……青葉は、この頃から君のことが好きだったのかい?」
「いえ。たぶん、もっと前からだと思いますよ」
「ほう。思っていたより、君はナルシストだね」
「だって、事実ですから。嘘は吐きません。……でも、青葉が俺に抱く感情が好意から依存へ変わった日があります。次の部屋に行きましょう」
恭矢はこの部屋の鍵も美緒子に渡し、次の部屋を開けた。
◆
この部屋の日時は昨年の冬だった。
バイトから帰ってきた恭矢は、一日一回は相沢家に顔を出す青葉が今日は来ていないと玲に聞き、具合でも悪いのかと心配して彼女の家を訪ねていた。
青葉の家には鍵がかかっておらず、中の様子を見ても真っ暗だった。父親の帰宅はまだのようだが、青葉のローファーがあることを確認した恭矢は、声をかけて彼女の部屋に入っていった。
青葉は真っ暗な部屋で一人、制服のまま膝を抱えて震えていた。尋常ではない様子の青葉に事情を聞こうとしても、一点を見つめたまま彼女は何も語らなかった。だから恭矢は青葉の震えがおさまるまで、ただそばにいて手を握っていた。
『……ねえ恭ちゃん。今日ね、わたしから大切なものがなくなって、どうすればいいのかわからなくなっちゃった……。ねえ……恭ちゃんは、わたしが必要かなあ……?』
『……必要だよ。青葉がいないと俺、死んじゃうよ。だから、そんなこと言わないでくれ』
青葉はやっと恭矢の方を見た。それから涙腺が壊れるほど泣いて、泣いて、泣きじゃくった。
そして夜が明けて目を覚ました頃には、恭矢に極度に依存する青葉が誕生していた。
『わたし、もう学校には行かない。怖いの。行きたくない。恭ちゃんはどう思う?』
『青葉が嫌なら……行かなくてもいいんじゃないかな』
『恭ちゃんには、わたしが必要なんだよね? だったらわたし、これからは恭ちゃんのためだけに生きていくからね』
青葉は相沢家で積極的に家事をやるようになった。恭矢に尽くしているときの青葉は一生懸命で、生きていこうとする意志が感じられた。
そうやって青葉が笑って生きている姿に安心した恭矢を筆頭に、相沢家が青葉に甘える日々が始まっていったのだった。
恭矢と美緒子は部屋を出た。扉を閉めると、美緒子は長く深い息を漏らした。
「……青葉がこうなったきっかけは、由宇が青葉の記憶を強奪したからなのだろう? 由宇が『裏の仕事は全部自分がやるから、この先青葉には関わらないでほしい』と言ってきたのも、この時期だ」
「そうです。だけど、青葉の人生を変えてしまったのには俺にも責任があったんです。だから俺は……この日のことを忘れることはない、忘れてはいけないと、今までそう思ってきました。……でも」
恭矢はこの部屋にも鍵をかけ、美緒子に鍵を差し出した。
「……いいのかい? この部屋は君にとってターニングポイントであり、罪を犯した日でもある特別な日だろう? 鍵を手放すことによって、君の人格はおろか、人生だって変わる可能性も出てくるよ?」
「大丈夫です。この部屋にある青葉の弱さも優しさも、母親のあなたが受け入れてあげるべきです。俺はこの部屋にある記憶がなくなったとしても、青葉の可愛いところも泣き虫なところも、頑固なところも……彼女の長所や短所を、たくさん知っていますから。青葉との関係を今まで以上に大切にしていける自信があるからこそ、あなたに差し出せるんです」
「そうか……わかった」
恭矢から鍵を受け取った美緒子の指は、少しだけ温かかった。
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