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最終話 記憶の部屋

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 再び歩き出した二人は、雰囲気の異なる部屋の前に立った。

 先程までの部屋は、扉の外にいても中に引きずりこまれそうな強い引力があった。だけどこの部屋は誰も寄せ付けないような、それでいて入らずにはいられないような、不思議な魅力があった。

 その部屋のドアノブを回して中に入ると、そこには教室で一人静かに日誌を書いている由宇の姿があった。着崩さない制服のブレザーと美しい顔立ちが、彼女特有の雰囲気を引き立たせていた。

『日直お疲れさま。これ食べて頑張ってな』

『ありがとう相沢くん。噛まないようにゆっくり頂くね』

 恭矢は彼女に好印象を与えたくて、必死になって話しかけていた。

 教室にいるときの恭矢は常に由宇を目で追いかけていた。授業に集中している由宇。穏やかに笑う由宇。昼食の後は本を読む由宇。体育のときは目立たないよう、適度に頑張る由宇。いろんな場所で恭矢は彼女を見て、恋心を募らせていった。

「……なんだい、これは。相沢くんは、好きな子の母親に自分の変態ぶりを見せるのが趣味なのかい?」

「誤解です! じゅ、純粋な恋心ですよ! つ、次に行きましょう。次は、俺が学校以外で小泉と話した日の部屋です」

 教室内での記憶を中心とした部屋の鍵を閉め、美緒子に渡してから隣にある別の部屋に入ると、〈記憶の墓場〉として働く由宇がいた。

「仕事をしている小泉の姿は、あなたもよく知っているかと思います。でもあなたの視点ではなく、俺の視点から彼女を見てほしいんです」

 雑貨屋での髪を下ろして服装も佇まいもいつもより大人っぽい由宇に、恭矢は.目を奪われていた。しかし、学校では見られない由宇の雰囲気に興奮を覚えてから数分後に恭矢が目にしたのは、依頼主から記憶を奪い、涙を流している由宇の姿だった。

 由宇は自分を訪れる依頼主から記憶を奪う度に、彼らに感情移入し、胸を痛めて涙していた。

『でも、たとえわたしが辛い思いをしたとしても……誰かが楽になってくれればわたしは幸せだから』

『……恋をすることでこんなに辛い気持ちになるのなら、わたしにはできる気がしない。どうして皆、辛いってわかっていて恋をするんだろう?』

 この部屋にいる由宇の口からは、自分の幸せを願う言葉は出て来ない。恭矢も由宇のために何かしてあげたいとは思っているのに、結局何もできず、ただ彼女の泣き顔を見ることしかできない自分に苦しんでいた。

「……これは仕事なんだよ。仕事として何度も何度も同じようなことをしているのに、どうして由宇は慣れてくれないのだろうか。私が由宇の歳の頃はもうとっくに、作業的に仕事をしていたものだが……」

 恭矢と由宇が重ねてきた思い出を見ていた美緒子が、ぽつりと呟いた。

「それが小泉なんです。小泉は大人っぽいし冷静ぶっているけれど、いつでもひとの悲しみに胸を痛めて、涙を流してしまうような、優しい女の子なんです。……そして、そんな彼女に、どうしようもなく恋をした男もいるんです」

「……ああ、そうか。この部屋は君の視点で構成されているからか。だから……私が由宇を見ているときよりも、心が揺さぶられてしまうのか……。これはずるいね、卑怯だよ……」

 それから美緒子は、由宇が泣く度に表情を歪め、由宇が悲観的なことを口にする度に辛そうに目を背けていた。そんな美緒子の様子を見ながら、恭矢は自分の中にある小泉由宇の記憶を手離す心の準備を進めていた。

 深呼吸をして、恋心を抱きながら見ていた由宇の姿を目に焼き付ける。この先彼女が笑って生きていけるなら、後悔する理由なんてあるはずがない。

 美緒子がゆっくりと瞬きをするのを合図に、部屋の扉が閉められた。

 恭矢は笑顔を作りながら、これまで回ってきた〈記憶の部屋〉最後の鍵を手渡した。
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