台所の肉塊

加藤

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台所の肉塊

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昨晩台所で見つけたのは大きな肉塊だった。

その晩私は夜の中に閉じ込められているような心地がしていた。
夜、という透明なゼリー状の膜の中で息が出来ないことにハッと気がついた私の体はひどく重たかった。緩慢な動作で布団の外へ足を投げ出すと、その膜は案外脆い事が分かった。安心した私は、膜を一網打尽にしてしまおうと手を振り回しながら立ち上がった。細かくなったゼラチン質の塊がそこら中を漂っているような気がして居心地が悪い。私は軽く頭を振って部屋から出た。
部屋を出ると階段まで真っ直ぐに続く廊下があるが、その廊下は砂糖をまき散らしたかのように胡散臭い明るさに満ちている。階下まで続く巨大な窓が月明かりを取り込んでいるのだ。息を吸うと心臓が砂糖衣を纏ってしまうんじゃないか。そんな妄
想に駆られて、私は息を止めて階段へ走る。
階下へ降りて、居間へ足早に向かう。居間には台所が隣接している。
ホットミルクに蜂蜜でも入れて飲もうか。
そんな事を思った。
幼い頃、眠れない夜には母がよくホットミルクを入れてくれた。
夜の光というものを知らない幼い子供にとって、夜というのは一つの暴力であった。明るい世界は奪い去られ、陰鬱な漆黒が問答無用で迫ってくるのだ。だから、目を閉じて全てが終わるのを待っている。けれど睡魔が襲ってこないのなら、子供は夜に対抗する唯一の武器を失う。
私は寝つきの悪い子供だった。夜に布団の中で一人で目を瞑りジッとしているのは苦痛であった。どうしても睡眠の世界へ飛び込めない時、私は夜の世界へ身を投じ、震えながら母のいる階下へ降りていく。さながら、海の底へ救いを求める氷河の下の子クジラである。息が出来ないのなら、母親と寄り添う事を望むだろう。
青白い顔をする私を見た母は、いつも柔和な笑みを浮かべて私の頭を撫でた。
「眠れないのね?」
私が小さく頷くと、母は私の手を取って台所の前に立った。
冷蔵庫から牛乳を取り出してマグカップに注ぐと、今度は大切そうに蜂蜜の瓶を取り出す。決まって母は、もったいぶりながら蜂蜜をスプーンで掬う。乳白色の液体の中に、黄金色の液体がゆっくりと落ちていく。
この世で最も美しい動物がいるとすれば、その羊水の色はこんな感じだろうか。
牛乳と蜂蜜が混じり合う直前の色。わずかに透けているその向こう側から聞こえる小さな鼓動。甘い羊水に包まれた小さな赤ん坊が息をしている。液体がすっかり混ざり合ってしまうと、途端にその幻影は消え失せ、母はマグカップを電子レンジに入れた。きっかり2分。電子レンジは唸り声を上げながら暖色の光を漏らし始める。
子供を産む母親の唸り声だろうか。
電子レンジは苦しんでいるように見えた。汗をかいているように見えた。苦しんで苦しんで、さっき見た赤ん坊を産もうとしている。
チン、と、苦痛に見合わないほど間抜けな音を立てて光が突然消える。寂しい瞬間のように思う。母は電子レンジの蓋を開けて、暖まったマグカップを取り出す。
「はい、どうぞ」
私はマグカップを受け取り、中身を覗き込んだ。
溶けてしまった、死んでしまった赤ん坊。
私のホットミルクへのイメージはいつだってどす黒い赤だった。乳白色の底に真紅の臓器が溶け出している。赤ん坊の皮膚がカップの内側にべっとりと張り付いている。血液の味がするだろうか、乳臭い子供の味がするだろうか。そう思って、私は恐る恐るホットミルクを口に含む。けれどその味は優しい甘さで、私は安心して眠ることができる。

そうだ、ホットミルクを飲もう。夜に台所に立つというのは案外骨の折れる作業だと思う。私は二度目の決意でようやく台所に入った。
入ってすぐ、私は立ち止まった。
大きな肉塊が落ちている。
それは妙な液体に絡めとられていて、異臭を放っていた。
その奇妙さに怯えながら、私は肉塊に近づいた。
台所の窓が、あの胡散臭い光を取り込んでいる。
肉塊に手を伸ばす。指先の震えが全身に伝わった時、肉塊に手が触れた。
粘土をパラフィン紙で包んだような、気色の悪い触り心地だった。指先には蜂蜜色の液体がべっとりと張り付いた。
私はガクガクと震えながら冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出した。今すぐにでもホットミルクを飲まなければという気がした。
牛乳の賞味期限はとっくにきれてしまっているが、構わずマグカップを取り出した。マグカップの底には汚らしく茶渋がこびりついている。蜂蜜の瓶を探すと、大量に積まれたレシピ本の横で埃を被っていた。スプーンを突っ込むと、ところどころ固形になってしまっていて、瓶には黴が生えている。
全て混ぜ合わせると、濁った色の液体が出来上がった。濁った液体同士が混ざり合う時に、胎児の姿は見えなかった。どうしようもなく胸が痛くなった。私は胸に手を当てながら、電子レンジにマグカップを入れた。
きっかり2分。電子レンジは弱々強い光を漏らしながら、苦痛の叫び声をあげた。
マグカップを取り出して、中身を覗き込む。薄汚い色をしていて、気色の悪いダマが私を睨みつけている。
恐怖のあまり、マグカップを放り投げた。ホットミルクは肉塊にかかった。
私は震えながら、肉塊を口に含んだ。それは幼い頃に感じた、溶けた胎児の味がした。血液と乳臭さが混ざり合い混沌としている。
私は泣き叫びながら肉塊を食べ続けた。食べ続けているうちに、私の体は汗と肉塊の汚れでどろどろになっていく。羊水に包まれた大きな赤ん坊のようだった。この世で生きていかねばと大きな産声を上げるのに、胡散臭い光の砂糖が私の肺を砂糖まみれにしてしまう。
全てが煩わしい。煩わしい。
生まれたばかりの無力な私は、天井にぶら下がるちぎれた荒縄を見つめることしかできない。それは子供用のモービルのようにひとりでに揺れていた。
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