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文月凉太
生徒会長の依頼 6:秘密
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正式な話し合いの席は明日以降に設けることになった。予定が立ってしまえばすることもないので散会を決め、同じ場所へ戻るのだからと揃って帰寮する。さして長話をしていたつもりもないが、既に辺りは夜のように暗かった。
それぞれ部屋に戻り私服に着替えた後、文月とは食堂で合流した。役割を引き受けたお陰で、四六時中一緒にいる口実ができたのはありがたい。今まで氷川も文月も特定の人物とつるむことがなかったので、何もなければ人前では今まで通りの距離感を保つつもりだった。妙な勘ぐりや冗談の種にされるよりは、少し不自由でもそのほうが楽だからと取り決めたが、一緒にいられるに越したことはない。
食事を済ませた後、文月が思い出したようにそういえば、と言う。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、部屋に行ってもいいか」
少しばかり改まった物言いに、氷川はしばし考えてから首肯した。夕刻の羽積とのやりとりの件だろう。皆、空気を読んで流してくれたが、気になって当然だ。
「そうだね、お茶を貰って行こうか」
少し長い話になる。言外にそう告げた氷川に頷いて、文月がカウンターに向かう。頼めば保温ポットにお茶を用意して貰えるのだと、比較的最近になって教わった。
紙コップとポットを持って氷川の部屋に向かう。居住フロアの最上部である九階は、住民が少ないこともあっておおむね静かだ。文月を招き入れ、静かに扉と鍵を閉める。暖房の入った部屋は、共有空間よりも暖かかった。
「椅子でもベッドでも、座りやすいほうにどうぞ」
「お邪魔します。いつも綺麗にしてていいよな、引っ越したい」
「セミシングルじゃ二人も寝れないよ」
そもそも特別な理由もなしに自室以外に泊まったら、泊まらせた生徒も含めて説教や反省文は免れない。氷川は危ない橋を渡る気はないし、文月も冗談にすぎないだろう。ポットを机に置き、寝台に腰掛けた文月が首を傾げた。
「寝相悪かったか」
「少なくとも微動だにせずに寝るような技術はないよ」
「俺もそんな器用な真似はできない」
文月は物言いたげに口を開き、溜息だけ吐き出してかぶりを振った。彼が言いたいことも察してはいるつもりだが、その件に関してはもう少し保留にしておきたい。
氷川は少し考えて、文月の隣に腰を下ろした。二人分の体重がかかった寝台が、ぎしりと不満げに音を立てる。
「号外を撒いて貰ったら本当に人が集まるのかな」
「自尊心をくすぐれば意外と傾くんじゃないか。必要性を訴え、期限を区切って焦らせる」
「いつの間にそんなこと考えてたの?」
文月が数え上げるように戦略を述べる。驚いて訊ねると、彼は首を横に傾けた。
「羽積さんと話してる時。良心が本能だって言ってただろ。確かに、転びそうな人を咄嗟に助けたり、小さな子供や身重の女性に気を遣ったりするのは本能に近い部分がある。その意味では、奉仕活動をしたくなるように仕向けることもできるんじゃないかと考えてた。人は、あなたの力が必要ですってフレーズに弱いからな」
「それは分かる。必要とされてると思うと、頑張ろうかなって思っちゃうんだよね」
「橘の件と、今回か」
「うん、まあ、そうかな」
他にもあれこれ首を突っ込んだ自覚はあるが、面と向かって助力を請われたのはそんなところだ。二、三度軽く頷いて、文月が目を細める。
「あいつらは人を使うのが上手いな」
「文月くんだって、仕事を割り振ったり作業させるの上手いじゃない」
「俺は全然だ。せいぜい使わさせられてるって所」
「そうかな……確かに今日の羽積さんは、働く気満々で声かけてきたけどね」
プレゼンテーションを受け持つというプレゼンテーションを披露する羽積は、自信に満ちて楽しげだった。彼がどのような人柄なのかを氷川は詳しく知らないが、好感を持つ者が多いだろうとは感じた。語り口にも説得力があり、扇動するのが上手そうな雰囲気もあった。
「そうだな。その羽積さんだけど」
言い止して、文月がこちらをちらりと一瞥する。そしてゆったりと足を組み、右へ左へと首を揺らす。
「何か知ってるような……二人だけで分かってるみたいな雰囲気だったけど。なんの話をしてたのか、訊いてもいい?」
目的地の周囲から探るような物言いに、氷川はこみ上げた笑いを漏らす。気を遣われているのはよくわかるが、文月はもっと直截に話すタイプだと思っていた。
「笑ってごめん、大した話じゃないんだ。ただ、外聞が良くないからあんまり人に知られたくなくてね、俺もだけど、学校としても伏せたかったんだと思うんだけど。俺の転入に関する事情の話だね」
「何だ、寄付金でも積んだのか」
「まさか。転入学試験や定期考査の成績は実力だよ。ただ、試験の受験資格のほうがね……駄目とは書いてないけどいいとも書いてない、みたいなラインなんだよね」
氷川にとって一番の疑問は、羽積はどこから情報を得たという点だ。気付く契機と、その疑念を確かなものにするに足りる情報を、彼はいったいどこから得たのか。兄弟校である豊智学院からだろうか、それともまさか、氷川の転出元である至志高校か。公言しないと約束をしてはくれたが、一度はきちんと話をするべきだろう。
文月が無言で立ち上がり、紙コップに飲み物を注ぐ。焙じ茶の香ばしい香りが室内に広がった。
「ほら」
「ありがとう」
飲み物を受け取って両手で包み持つ。指先から滲むように熱が染み込み、自分が思いの外緊張していることに気付いた。文月が先程と同じ場所に腰を下ろし、お茶を口にする。敢えて急かそうとしない気遣いに感謝して、そっと息を吐いた。
「俺の実家は都内にあるし、転居したことはない、そう言ったら想像つくんじゃない?」
「……豊智は、兵庫だったな」
迷うような沈黙の後、文月が確かめるように言う。声音には戸惑ったような気配があった。
「そうだね」
「転校は兄弟校間のみ、とサイトにもパンフレットにも書いてあったはずだが」
「原則、兄弟校間のみ、だよ。俺は特例で認めて貰ったようなものかな。まあ、ちょっと、事情があって」
多くを言わずとも、近隣の学校へ移る理由など限られている。家庭の事情でなければ本人都合だし、それは往々にして人間関係のトラブルに起因する。文月は事情、と口の中で呟き、そうかと溜息のようにごちた。思い当たることがあったのか、単に推測したのか、どちらにせよ思うところがあったのだろう。詳しく問うこともなく頷いた。
「なるほど、確かに広めるべきではないこと、か」
「そういうこと。志願者が殺到しても困る。全部落としたら恣意的な判断がされてるって叩かれるし、だからって受け入れられるわけじゃない。だったら最初から、そういう特例があるって事例自体を伏せておいたほうが丸く収まるって判断かな、狡いといえば、狡いけど」
「確かに不公平といえばそうか。日本人はコネクションや伝手を使うことを嫌うところがあるし、知られればバッシングされる」
文月が恐ろしいことを平淡な声で言う。その内容は氷川も理事や学院長らも一度ならず想定し、あるいは俎上にも載せたものだ。
人は本質的には善意的であると羽積は言った。それも間違ってはいまい。だが同時に人は、正義を振りかざして他者を糾弾し、愉悦に浸るような嗜虐的な面も持っている。そうした人々は他者の瑕疵をバッシングし、権力者を引きずり下ろすショーを何よりも好んでいる。この一件はいい餌になる。そして氷川はもちろん、無関係の生徒や教師たち、学院そのものも被害を受ける。そんな事態は絶対に防がなければならない。
氷川は息を吐き、残ったお茶を飲み干すと空の紙コップを机に置いた。
「清廉潔癖なのはいいことだけどね。縁故って人物保証みたいなものでもあるから、そう叩くこともないと思うけど、伝手がない人にしてみれば腹立たしいのは分かるし」
「氷川も誰かの紹介で?」
「叔父がね、理事の一人と知り合いで」
叔父とはせいぜい新年の挨拶で顔を合わせる程度の距離感で、さして遠い縁でもないが、近くもない。改めて考えると、多忙な父が親類に相談する程度には氷川のことを気に掛けていたわけだから、ありがたい話だ。それがなければ、氷川は今もまだ閉じこもったままでいたかもしれない。そんな風に考えていたら、共鳴でもしたかのように文月が問いかけた。
「ここに来たこと、どう思ってる?」
声が少し、不安そうに細い。正面を向いた横顔を一瞥し、氷川は隣に身体を傾けた。ほとんど同じ高さにある肩と腕が柔らかく衝突する。
「いい環境で過ごせて快適だし、感謝してるよ。お陰で文月くんとも仲良くなれたしね」
「そういう意味じゃない」
「でも、本心だよ。悪いことをしたとは思ってない。静かで勉強しやすいし、人も優しくて居心地がいい。難を言うなら映画館もレンタルショップも遠いことだけど、ネット配信は使えるからそこまで不自由してないし」
話の重点を少しずつ脇にスライドさせ、どうでもいいような内容に帰結させる。文月は不満そうに唸って、紙コップを空にする。それを抜き取って机に移動し、自力で座り直した。
「怒った?」
「怒る理由がない。無意味な引け目を感じてないなら、それでいい」
「そうかな、横から割り込んだって捉える人もいるかもよ」
「列に並んでいるわけでもないのに? だいたい、何か事情があったんだろ。学力的には問題ないし、和を乱すこともない。学校が認めたなら、相応の理由があったってことだ。つらい経験をした奴に追い打ちを掛けるような、最低な人間に成り下がったつもりはない」
「同情してくれるんだ。優しいよね、文月くん」
きっぱりとした物言いに、なんとはなしに引け目を感じる。気を遣われていると思うとどうにも、ありがたい反面居心地が悪い。確かに氷川には氷川なりの理由と事情があるが、それはある意味ではどこにでもあるような内容だ。多くの悲劇がそうであるように、誰にでも降りかかり得る人災で、多くの人があるいは堪え忍び、あるいは逃げ出して、乗り越えてきたものごとでもある。
氷川は逃げた。それを情けないと自罰的に考えるのはもうやめたが、他人に言えるかはまた別の問題だ。氷川にはまだ、文月に全てを話す余裕はない。その怯懦を詫びる代わりに手を握る。文月が大きく息を吐いた。
「別に事実だし……参ったな、弱った顔をされると付け込みたくなる」
「え、そんな顔してる?」
「不安そうだ。言いたくないことは言わなくていいし、思い出したくないことなら忘れてしまえばいい。誰も咎めない」
するりと手を滑らせ、互いの指を絡ませるように手を組み直した文月が、氷川を引き寄せる。誘導されるまま、肩が触れ合った。氷川よりも高い温度が心地良く、安堵の息を吐いた。
「文月くんはなんだかんだ、俺に甘いよね」
「おまえの自分への評価が厳しいだけだ」
不本意そうに言って、文月がくすぐるように指先を遊ばせる。滲む思惑を錯覚と片付け、身体の向きを少しだけ変えた。シーツがよれて皺を作る。
「そうかな……ねえ、抱きしめていい?」
唐突に感じたのか、文月が眉を上げる。彼はすぐに驚いた表情を消し、からかうように口角を上げた。
「抱きしめるだけ?」
「抱きしめるだけ」
今の流れで、それ以上のことはしたくない。拒むように断言すると、文月は笑みと溜息の中間のような息を吐いた。仕方ないなと言いたげに唇が微笑む。
「抱き返していいならどうぞ」
「じゃあ遠慮なく」
背に腕を回し、肩に擦り寄る。文月の手が迷うように上下し、腰と背中に落ち着いた。滑らかな手触りの衣類越しに、骨と筋肉の硬さを感じる。触れ合っていると、滲むように体温が伝わってきた。
「文月くんあったかいね」
「緊張してんだよ。氷川は薄っぺらいし冷たいな」
言葉とは裏腹に、落ち着き払った態度と声音で文月が言う。あまりにフラットな話し方なので、冗談なのか本音なのか分かりづらい。氷川は僅かに首を傾げ、結局後半だけ拾い上げた。
「体温低いんだよね」
「筋肉が少ないせいだろ」
「貧弱で悪かったね」
「悪くはない、が、脱いだら骨が当たって痛そうだ」
「それはお互い様じゃないかな」
そもそも関節は骨が当たるものだし、緊張している筋肉は硬い。人体の表面が柔らかいとしたら弛緩した筋肉か、皮下脂肪のお陰だが、筋肉は少し力が入ると簡単に硬くなるので触れ合った時は大抵硬い。そして基本的に、男性は女性よりも皮下脂肪が少ない。氷川も人のことは言えないが、文月だって別にふわふわした体型はしていないので、触って柔らかいということはない。
「まあ、仕方ないよね。触り心地の良さで選んでないし」
だから諦めてねと続けようとした氷川は、肩に掛かった重みに言葉を飲んだ。頭を垂らした文月がぐったりと氷川の肩口に縋っている。背を撫でると、彼は大きく息を吐いた。吐息が布を通して肌に触れる。その湿った熱さに、自然と背筋が震えた。
「ええと……文月くん、どうしたの?」
「分かりやすい言葉は怖いな。不意に言われると威力が高い」
「そんなにおかしなことを言ったつもりはないんだけど」
服を脱ぐようなことをするつもりはないとは言わないし、その意味が分からないなどと初心なふりをするつもりもない。
宥めるように繰り返し背中を撫でる。彼は猫のように氷川の肩に頬をすり寄せた。
「おかしくないから気にしなくていい。でも困った、部屋に帰りたくない」
吐息に紛れて落とされた定番の殺し文句に、氷川は動きを止めた。あっけなく動揺してがなりたてる心臓を落ち着かせるように、飲んだ息をゆっくりと吐く。そうしながら、文月の背を軽く叩いた。
「とりあえず、もうしばらくゆっくりしていって」
牽制を含んだ誘いに、文月は声を出すことなく頷いた。
それぞれ部屋に戻り私服に着替えた後、文月とは食堂で合流した。役割を引き受けたお陰で、四六時中一緒にいる口実ができたのはありがたい。今まで氷川も文月も特定の人物とつるむことがなかったので、何もなければ人前では今まで通りの距離感を保つつもりだった。妙な勘ぐりや冗談の種にされるよりは、少し不自由でもそのほうが楽だからと取り決めたが、一緒にいられるに越したことはない。
食事を済ませた後、文月が思い出したようにそういえば、と言う。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、部屋に行ってもいいか」
少しばかり改まった物言いに、氷川はしばし考えてから首肯した。夕刻の羽積とのやりとりの件だろう。皆、空気を読んで流してくれたが、気になって当然だ。
「そうだね、お茶を貰って行こうか」
少し長い話になる。言外にそう告げた氷川に頷いて、文月がカウンターに向かう。頼めば保温ポットにお茶を用意して貰えるのだと、比較的最近になって教わった。
紙コップとポットを持って氷川の部屋に向かう。居住フロアの最上部である九階は、住民が少ないこともあっておおむね静かだ。文月を招き入れ、静かに扉と鍵を閉める。暖房の入った部屋は、共有空間よりも暖かかった。
「椅子でもベッドでも、座りやすいほうにどうぞ」
「お邪魔します。いつも綺麗にしてていいよな、引っ越したい」
「セミシングルじゃ二人も寝れないよ」
そもそも特別な理由もなしに自室以外に泊まったら、泊まらせた生徒も含めて説教や反省文は免れない。氷川は危ない橋を渡る気はないし、文月も冗談にすぎないだろう。ポットを机に置き、寝台に腰掛けた文月が首を傾げた。
「寝相悪かったか」
「少なくとも微動だにせずに寝るような技術はないよ」
「俺もそんな器用な真似はできない」
文月は物言いたげに口を開き、溜息だけ吐き出してかぶりを振った。彼が言いたいことも察してはいるつもりだが、その件に関してはもう少し保留にしておきたい。
氷川は少し考えて、文月の隣に腰を下ろした。二人分の体重がかかった寝台が、ぎしりと不満げに音を立てる。
「号外を撒いて貰ったら本当に人が集まるのかな」
「自尊心をくすぐれば意外と傾くんじゃないか。必要性を訴え、期限を区切って焦らせる」
「いつの間にそんなこと考えてたの?」
文月が数え上げるように戦略を述べる。驚いて訊ねると、彼は首を横に傾けた。
「羽積さんと話してる時。良心が本能だって言ってただろ。確かに、転びそうな人を咄嗟に助けたり、小さな子供や身重の女性に気を遣ったりするのは本能に近い部分がある。その意味では、奉仕活動をしたくなるように仕向けることもできるんじゃないかと考えてた。人は、あなたの力が必要ですってフレーズに弱いからな」
「それは分かる。必要とされてると思うと、頑張ろうかなって思っちゃうんだよね」
「橘の件と、今回か」
「うん、まあ、そうかな」
他にもあれこれ首を突っ込んだ自覚はあるが、面と向かって助力を請われたのはそんなところだ。二、三度軽く頷いて、文月が目を細める。
「あいつらは人を使うのが上手いな」
「文月くんだって、仕事を割り振ったり作業させるの上手いじゃない」
「俺は全然だ。せいぜい使わさせられてるって所」
「そうかな……確かに今日の羽積さんは、働く気満々で声かけてきたけどね」
プレゼンテーションを受け持つというプレゼンテーションを披露する羽積は、自信に満ちて楽しげだった。彼がどのような人柄なのかを氷川は詳しく知らないが、好感を持つ者が多いだろうとは感じた。語り口にも説得力があり、扇動するのが上手そうな雰囲気もあった。
「そうだな。その羽積さんだけど」
言い止して、文月がこちらをちらりと一瞥する。そしてゆったりと足を組み、右へ左へと首を揺らす。
「何か知ってるような……二人だけで分かってるみたいな雰囲気だったけど。なんの話をしてたのか、訊いてもいい?」
目的地の周囲から探るような物言いに、氷川はこみ上げた笑いを漏らす。気を遣われているのはよくわかるが、文月はもっと直截に話すタイプだと思っていた。
「笑ってごめん、大した話じゃないんだ。ただ、外聞が良くないからあんまり人に知られたくなくてね、俺もだけど、学校としても伏せたかったんだと思うんだけど。俺の転入に関する事情の話だね」
「何だ、寄付金でも積んだのか」
「まさか。転入学試験や定期考査の成績は実力だよ。ただ、試験の受験資格のほうがね……駄目とは書いてないけどいいとも書いてない、みたいなラインなんだよね」
氷川にとって一番の疑問は、羽積はどこから情報を得たという点だ。気付く契機と、その疑念を確かなものにするに足りる情報を、彼はいったいどこから得たのか。兄弟校である豊智学院からだろうか、それともまさか、氷川の転出元である至志高校か。公言しないと約束をしてはくれたが、一度はきちんと話をするべきだろう。
文月が無言で立ち上がり、紙コップに飲み物を注ぐ。焙じ茶の香ばしい香りが室内に広がった。
「ほら」
「ありがとう」
飲み物を受け取って両手で包み持つ。指先から滲むように熱が染み込み、自分が思いの外緊張していることに気付いた。文月が先程と同じ場所に腰を下ろし、お茶を口にする。敢えて急かそうとしない気遣いに感謝して、そっと息を吐いた。
「俺の実家は都内にあるし、転居したことはない、そう言ったら想像つくんじゃない?」
「……豊智は、兵庫だったな」
迷うような沈黙の後、文月が確かめるように言う。声音には戸惑ったような気配があった。
「そうだね」
「転校は兄弟校間のみ、とサイトにもパンフレットにも書いてあったはずだが」
「原則、兄弟校間のみ、だよ。俺は特例で認めて貰ったようなものかな。まあ、ちょっと、事情があって」
多くを言わずとも、近隣の学校へ移る理由など限られている。家庭の事情でなければ本人都合だし、それは往々にして人間関係のトラブルに起因する。文月は事情、と口の中で呟き、そうかと溜息のようにごちた。思い当たることがあったのか、単に推測したのか、どちらにせよ思うところがあったのだろう。詳しく問うこともなく頷いた。
「なるほど、確かに広めるべきではないこと、か」
「そういうこと。志願者が殺到しても困る。全部落としたら恣意的な判断がされてるって叩かれるし、だからって受け入れられるわけじゃない。だったら最初から、そういう特例があるって事例自体を伏せておいたほうが丸く収まるって判断かな、狡いといえば、狡いけど」
「確かに不公平といえばそうか。日本人はコネクションや伝手を使うことを嫌うところがあるし、知られればバッシングされる」
文月が恐ろしいことを平淡な声で言う。その内容は氷川も理事や学院長らも一度ならず想定し、あるいは俎上にも載せたものだ。
人は本質的には善意的であると羽積は言った。それも間違ってはいまい。だが同時に人は、正義を振りかざして他者を糾弾し、愉悦に浸るような嗜虐的な面も持っている。そうした人々は他者の瑕疵をバッシングし、権力者を引きずり下ろすショーを何よりも好んでいる。この一件はいい餌になる。そして氷川はもちろん、無関係の生徒や教師たち、学院そのものも被害を受ける。そんな事態は絶対に防がなければならない。
氷川は息を吐き、残ったお茶を飲み干すと空の紙コップを机に置いた。
「清廉潔癖なのはいいことだけどね。縁故って人物保証みたいなものでもあるから、そう叩くこともないと思うけど、伝手がない人にしてみれば腹立たしいのは分かるし」
「氷川も誰かの紹介で?」
「叔父がね、理事の一人と知り合いで」
叔父とはせいぜい新年の挨拶で顔を合わせる程度の距離感で、さして遠い縁でもないが、近くもない。改めて考えると、多忙な父が親類に相談する程度には氷川のことを気に掛けていたわけだから、ありがたい話だ。それがなければ、氷川は今もまだ閉じこもったままでいたかもしれない。そんな風に考えていたら、共鳴でもしたかのように文月が問いかけた。
「ここに来たこと、どう思ってる?」
声が少し、不安そうに細い。正面を向いた横顔を一瞥し、氷川は隣に身体を傾けた。ほとんど同じ高さにある肩と腕が柔らかく衝突する。
「いい環境で過ごせて快適だし、感謝してるよ。お陰で文月くんとも仲良くなれたしね」
「そういう意味じゃない」
「でも、本心だよ。悪いことをしたとは思ってない。静かで勉強しやすいし、人も優しくて居心地がいい。難を言うなら映画館もレンタルショップも遠いことだけど、ネット配信は使えるからそこまで不自由してないし」
話の重点を少しずつ脇にスライドさせ、どうでもいいような内容に帰結させる。文月は不満そうに唸って、紙コップを空にする。それを抜き取って机に移動し、自力で座り直した。
「怒った?」
「怒る理由がない。無意味な引け目を感じてないなら、それでいい」
「そうかな、横から割り込んだって捉える人もいるかもよ」
「列に並んでいるわけでもないのに? だいたい、何か事情があったんだろ。学力的には問題ないし、和を乱すこともない。学校が認めたなら、相応の理由があったってことだ。つらい経験をした奴に追い打ちを掛けるような、最低な人間に成り下がったつもりはない」
「同情してくれるんだ。優しいよね、文月くん」
きっぱりとした物言いに、なんとはなしに引け目を感じる。気を遣われていると思うとどうにも、ありがたい反面居心地が悪い。確かに氷川には氷川なりの理由と事情があるが、それはある意味ではどこにでもあるような内容だ。多くの悲劇がそうであるように、誰にでも降りかかり得る人災で、多くの人があるいは堪え忍び、あるいは逃げ出して、乗り越えてきたものごとでもある。
氷川は逃げた。それを情けないと自罰的に考えるのはもうやめたが、他人に言えるかはまた別の問題だ。氷川にはまだ、文月に全てを話す余裕はない。その怯懦を詫びる代わりに手を握る。文月が大きく息を吐いた。
「別に事実だし……参ったな、弱った顔をされると付け込みたくなる」
「え、そんな顔してる?」
「不安そうだ。言いたくないことは言わなくていいし、思い出したくないことなら忘れてしまえばいい。誰も咎めない」
するりと手を滑らせ、互いの指を絡ませるように手を組み直した文月が、氷川を引き寄せる。誘導されるまま、肩が触れ合った。氷川よりも高い温度が心地良く、安堵の息を吐いた。
「文月くんはなんだかんだ、俺に甘いよね」
「おまえの自分への評価が厳しいだけだ」
不本意そうに言って、文月がくすぐるように指先を遊ばせる。滲む思惑を錯覚と片付け、身体の向きを少しだけ変えた。シーツがよれて皺を作る。
「そうかな……ねえ、抱きしめていい?」
唐突に感じたのか、文月が眉を上げる。彼はすぐに驚いた表情を消し、からかうように口角を上げた。
「抱きしめるだけ?」
「抱きしめるだけ」
今の流れで、それ以上のことはしたくない。拒むように断言すると、文月は笑みと溜息の中間のような息を吐いた。仕方ないなと言いたげに唇が微笑む。
「抱き返していいならどうぞ」
「じゃあ遠慮なく」
背に腕を回し、肩に擦り寄る。文月の手が迷うように上下し、腰と背中に落ち着いた。滑らかな手触りの衣類越しに、骨と筋肉の硬さを感じる。触れ合っていると、滲むように体温が伝わってきた。
「文月くんあったかいね」
「緊張してんだよ。氷川は薄っぺらいし冷たいな」
言葉とは裏腹に、落ち着き払った態度と声音で文月が言う。あまりにフラットな話し方なので、冗談なのか本音なのか分かりづらい。氷川は僅かに首を傾げ、結局後半だけ拾い上げた。
「体温低いんだよね」
「筋肉が少ないせいだろ」
「貧弱で悪かったね」
「悪くはない、が、脱いだら骨が当たって痛そうだ」
「それはお互い様じゃないかな」
そもそも関節は骨が当たるものだし、緊張している筋肉は硬い。人体の表面が柔らかいとしたら弛緩した筋肉か、皮下脂肪のお陰だが、筋肉は少し力が入ると簡単に硬くなるので触れ合った時は大抵硬い。そして基本的に、男性は女性よりも皮下脂肪が少ない。氷川も人のことは言えないが、文月だって別にふわふわした体型はしていないので、触って柔らかいということはない。
「まあ、仕方ないよね。触り心地の良さで選んでないし」
だから諦めてねと続けようとした氷川は、肩に掛かった重みに言葉を飲んだ。頭を垂らした文月がぐったりと氷川の肩口に縋っている。背を撫でると、彼は大きく息を吐いた。吐息が布を通して肌に触れる。その湿った熱さに、自然と背筋が震えた。
「ええと……文月くん、どうしたの?」
「分かりやすい言葉は怖いな。不意に言われると威力が高い」
「そんなにおかしなことを言ったつもりはないんだけど」
服を脱ぐようなことをするつもりはないとは言わないし、その意味が分からないなどと初心なふりをするつもりもない。
宥めるように繰り返し背中を撫でる。彼は猫のように氷川の肩に頬をすり寄せた。
「おかしくないから気にしなくていい。でも困った、部屋に帰りたくない」
吐息に紛れて落とされた定番の殺し文句に、氷川は動きを止めた。あっけなく動揺してがなりたてる心臓を落ち着かせるように、飲んだ息をゆっくりと吐く。そうしながら、文月の背を軽く叩いた。
「とりあえず、もうしばらくゆっくりしていって」
牽制を含んだ誘いに、文月は声を出すことなく頷いた。
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【完結】
ある日、亮太が友人から聞かされたのは、話したこともないクラスメイトの礼央が亮太を嫌っているという話だった。
けど、話してみると違和感がある。
これは、嫌っているっていうより……。
どうやら、れおくんは、俺のことが好きらしい。
ほのぼの青春BLです。
◇◇◇◇◇
全100話+あとがき
◇◇◇◇◇
刺されて始まる恋もある
神山おが屑
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ストーカーに困るイケメン大学生城田雪人に恋人のフリを頼まれた大学生黒川月兎、そんな雪人とデートの振りして食事に行っていたらストーカーに刺されて病院送り罪悪感からか毎日お見舞いに来る雪人、罪悪感からか毎日大学でも心配してくる雪人、罪悪感からかやたら世話をしてくる雪人、まるで本当の恋人のような距離感に戸惑う月兎そんなふたりの刺されて始まる恋の話。
腐男子ですが何か?
みーやん
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俺は田中玲央。何処にでもいる一般人。
ただ少し趣味が特殊で男と男がイチャコラしているのをみるのが大好きだってこと以外はね。
そんな俺は中学一年生の頃から密かに企んでいた計画がある。青藍学園。そう全寮制男子校へ入学することだ。しかし定番ながら学費がバカみたい高額だ。そこで特待生を狙うべく勉強に励んだ。
幸いにも俺にはすこぶる頭のいい姉がいたため、中学一年生からの成績は常にトップ。そのまま三年間走り切ったのだ。
そしてついに高校入試の試験。
見事特待生と首席をもぎとったのだ。
「さぁ!ここからが俺の人生の始まりだ!
って。え?
首席って…めっちゃ目立つくねぇ?!
やっちまったぁ!!」
この作品はごく普通の顔をした一般人に思えた田中玲央が実は隠れ美少年だということを知らずに腐男子を隠しながら学園生活を送る物語である。
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