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横峰春久
三学期 4:傲慢なヒーロー
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「八椎さんに言われたよ。俺は傲慢だって」
生々しい感触から逃れるように思考を巡らせた中で、ふわりと浮上した記憶がそのまま音になった。宵か明け方のような薄闇が意識の境界を緩ませたのか、無自覚に出てしまった言葉に、咄嗟に唇を噛んだ。横峰の手の動きが止まる。
「傲慢、氷川くんが?」
そう聞き返されれば、誤魔化して逃げるのも難しい。浅く頷き、頬に落ちた髪を掻き上げた。
「俺がもっと上手く関わっていたら、もっといい状況に落とし込めたんじゃないか、なんて部外者が考えるのは傲慢なことだって。俺はせいぜいただのきっかけに過ぎない。分かってるつもりで、納得できてなかったんだと思う」
「それってつまり……それくらい、思い入れ持ってくれてるってこと、だよね」
明言せずとも何を指しているか察したらしい。確かめる横峰に首肯すると、横峰の手の力が増した。
横峰の怪我、ひいては倫理的にいささか問題のある――少なくとも、校則には違反するだろう行いを端緒とするワンダーフォーゲル部の不利益に関して、氷川が責任を感じるのは傲慢だと八椎に指摘されたのは、一ヶ月ほど前だ。常にそのことを考えているわけではないものの、時折思い起こされては氷川を悩ませる。言わんとすることは理解できるし、正論でもある。
氷川が黙っていると、横峰が低く唸ってから、そうだな、と話を繋ぐ。
「氷川くんのせいじゃないのは確かだし、責任を感じてもらう必要ないのも本当だよね。それが傲慢だってことになるかは、俺には難しい話だな」
「だとしても、同じ轍を踏まないために反省するのは、間違ってないよね」
「そうだね、そうかも。アドバイスする立場だとしても、上手い対処法を考えるのは悪いことじゃないし。でもトラブルに巻き込まれないに越したことはないよね。巻き込んだ俺が言うことじゃないけど」
「半分は好きで関わったようなものだから」
確かに発端は、横峰から強引にもたらされた情報だ。しかし、それ以上の関わりは氷川からのアクションで成り立っている。他人事と切り捨て切れないのはそのためで、傲慢だと言われて納得しきれなかったのも、そのせいかもしれない。氷川は確かに部外者だが、否応なく巻き込まれたわけではなかったからだ。
その結論に至ると、ようやくわだかまりが腑に落ちた気がした。整理がつくと心情も明るくなるのか、気分がいい。
「そうだよ、俺が自分から関わったことなんだから、もっと上手くやれたらって思ったっていいよね」
そう言うと、横峰がおかしそうに笑みをもらした。
「意外と強引だね」
「気を悪くした?」
なにせ横峰は当事者だ。不安になって訊ねると、彼は首を横に振った。
「まさか。嬉しいよ。氷川くんがそんなに気にしてくれてたなんて思ってなかったし。浅ましいこと言うけど……気分がいい」
横峰の手が、氷川の指を慰撫するように滑る。彼が立ち上がるのと前後して、液晶画面の光が消えた。非操作時間が長かったため、スリープ状態に切り替わってしまったらしい。電源ランプが緩やかに明滅している。
唐突に密度を増した闇に視界が覚束なくなる。気付いた時には腕を引かれるまま、横峰に引き寄せられていた。肩に触れる他者の感触と、掴めない状況に背がびくつく。
「気分がいい、って?」
気を紛らせるように問い返した声は、僅かに掠れていた。横峰が喉を鳴らす気配が耳の側でして落ち着かない。背を囲う腕の硬さは、同じ男としては羨ましい限りだが、現状は歓迎できるものではなかった。
「さっきも言ったよ。それだけ、俺が特別ってことでしょう。期待したくもなる」
期待とはなんだ。氷川が戸惑っているのをいいことに、横峰の手がするりと氷川の頬を撫でた。耳殻をなぞり、耳の後ろから首筋へと指先が移動する。襟足をなぞる感触に、氷川は身体をよじらせた。先程から心臓がうるさくて落ち着かない。触れる感触が心地良くさえあることが、氷川の恐怖を煽った。
「ちょ、っと、横峰くん、あのね」
「わからない?」
「想像は、つくけど。そういうつもりじゃない」
低く囁く声を、できるだけ冷静に撥ね付ける。横峰は小さく笑うと、身体を離した。
「悪かった。つい」
「……俺は、横峰くんのこと、俺なりにちゃんと、大事な友達だと思ってるけど」
「うん、ごめん」
素直に謝られると、逆に謝罪が軽く聞こえてしまうのは何故だろうか。自分も少し気を付けようと考えながら、氷川は息を吐いた。横峰がぎくりと身体を強張らせるのが、闇の中でもわかった。カーテンを開けに行こうかと一瞬考え、結局その場に踏み止まる。そして顔を上げた。いつの間にか目が慣れたのか、先程よりも視界は良好だ。
「横峰くんには、俺って、何」
端的な問いに、横峰はしばし黙り込んだ。
セクシャルな触れ方をしてくるくらいだ、横峰は氷川を単なる友人だと捉えてはいないだろう。感情が伴うのか、欲求のみかは別として、どこか琴線に触れる部分があるらしいことは推察できた。同性からも異性からも、そうした扱いを受けた経験はないものの、氷川自身はセクシャルマイノリティに対して偏見はない。だから嫌悪感はなかったが、同時に横峰に対してその手の欲も抱いてはいないため、対応を考える必要があった。
セックスしたいと言われたならば、少なくとも今現在はそういうつもりはないと言えばいい。しかし、そうでなかった時はどうすればいいのだろう。悩む氷川の前で、横峰が緊張した気配で深呼吸をした。
「氷川くんといると、楽に息が出来るんだ」
静かな声は、普段よりも低く、どこか甘い響きを伴っていた。思いがけない応えに、氷川は目を見張る。無自覚に横峰から何か求められると決め込んでいた自分が恥ずかしくて、視線が落ちる。彼は氷川の戸惑いを気にした気配もなく、言葉を繋いだ。
「取り繕いようがないくらい駄目な所ばっかり見せてるのに、呆れたり、見下したりしないでいてくれるから、安心して一緒に居られるんだよ。自分でも言ってて情けないけどね」
「そんなの、お互い様じゃない?」
氷川だって、横峰にはぞんざいな態度を取るし、みっともない部分も知られている。そう思ったが、彼はかぶりを振った。
「違うよ。俺には氷川くんはヒーローだもん。表沙汰に出来ない真似しでかしたのも自業自得だし、揉み消す方向で動いてもらえたことも有り難かったけど、でも、知っててくれる人がいるだけで、救われることってあるんだよ。許してくれて、話を聞いてくれて、助けてくれて、今も友達でいてくれる。すごく、感謝してる」
「ヒーローって」
「夏に、駆け付けてくれた時。どんな理由があって、どういうタイミングでも、俺にはヒーローに見えたよ」
てらいない賞賛と敬意は、過大評価もいいところで気恥ずかしく、視線が上げられない。
確かに、ワンダーフォーゲル部の不祥事と、横峰の感情に関して、当事者以外で最も把握しているのは氷川だろう。調査に参加し、彼の懺悔を聞いた。今となってはその後のごたごたまでも巻き込まれ、驚くほど深く関わってしまっている。
横峰の返答は、それはそれで本心だろう。しかし、氷川の意図とはずれていた。氷川の戸惑いを読み取って濁してくれたのかもしれないし、横峰自身の思惑でもって核心に触れることを避けたのかもしれない。
言葉を見つけられずにいる氷川の髪を、横峰が指先でそっと梳いた。それは温もりを感じる前に離れ、横峰は窓へと足を向けた。
「氷川くんが優しいのに付け込んで、不埒なことしようとした。ごめん」
カーテンが音を立てて開かれる。滑らかな動作で布をタッセルでまとめ、顔を伏せた。
「映画は、今日はやめとく。氷川くんが見たら、感想聞かせてくれる?」
「横峰くん、あの」
「おかしなこと言って、おかしなことしてごめん。今日は帰るよ。話せて嬉しかった」
横峰は氷川を見ないままそう言うと、くるりと踵を返して戸口へ向かう。横をすり抜けようとする彼の腕を、咄嗟に掴んだ。横峰は少し困ったような表情で足を止める。それを無視して、氷川は顔を上げた。
「また、話せる?」
わけが分からないまま避けられるのはもう沢山だ。訊ねた声は情けなく震えた。横峰が一瞬、痛ましげに眉をひそめる。けれどすぐに表情を取り繕い、柔らかな笑みを形作った。
「うん、また、一緒にお昼にしよう」
優しい声が紡ぐ、その約束は違えられることはないだろう。しかし同時に、もう彼を気軽に部屋に誘うことはできないような気がした。
一人になった部屋で、氷川はぐったりと寝台に転がった。緊張の反動か、心臓が騒々しく早鐘を打ち続けている。冷たいシーツに頬を寄せると、過分な熱が移っていって心地が良い。目を瞑り、大きく息を吐く。吐息は湿度を孕んで妙に熱く、気管を灼いた。
他者との境界を認識するのは難しい。氷川は確かに横峰に好感を抱いてはいるが、彼と性的なことをしたいと思ったことはない。そもそも、他者にそうした欲求を抱いた経験すらない。そのせいで、咄嗟に気付かなかったふりをする余裕すらなかった。しかも、だ。
「ヒーロー、なんて」
恩人のように扱ってくれていることは気付いていたが、そこまで格上げされていたなんて想像もしなかった。氷川はほんの少し関わっただけで、実質的な手続きに関しては手伝い程度しかしていない。確かに、タイミングがもう少し早ければヒーローのようだっただろうけれど。
ごろりと寝返りを打つ。
横峰の氷川に対する度を過ぎた謝意も、身体的な欲求も、氷川には見慣れない、縁のなかったものだ。そんな扱いは自分には相応しくないし、居心地も悪い。それなのに、彼の濡れたような瞳を思い出すと、なんとなく悪くない気分にもなるのが不可解だ。
ああもうと口の中で喚いて、氷川は身体を起こした。机に向かおう。脳の中を数字で埋め尽くせば、いつもの自分を取り戻せる。そんな風に考えること自体が、流されかけている証左であることを無視して、慌ただしく学習机に移動した。
日中はそのまま勉強に時間を費やし、夜になって見損ねた映像作品を見た。
小さなディスプレイに広がる白銀の世界は、まばたきを忘れるほど美しく、息を呑むほどに峻厳で、人の生きる世界ではなかった。
生々しい感触から逃れるように思考を巡らせた中で、ふわりと浮上した記憶がそのまま音になった。宵か明け方のような薄闇が意識の境界を緩ませたのか、無自覚に出てしまった言葉に、咄嗟に唇を噛んだ。横峰の手の動きが止まる。
「傲慢、氷川くんが?」
そう聞き返されれば、誤魔化して逃げるのも難しい。浅く頷き、頬に落ちた髪を掻き上げた。
「俺がもっと上手く関わっていたら、もっといい状況に落とし込めたんじゃないか、なんて部外者が考えるのは傲慢なことだって。俺はせいぜいただのきっかけに過ぎない。分かってるつもりで、納得できてなかったんだと思う」
「それってつまり……それくらい、思い入れ持ってくれてるってこと、だよね」
明言せずとも何を指しているか察したらしい。確かめる横峰に首肯すると、横峰の手の力が増した。
横峰の怪我、ひいては倫理的にいささか問題のある――少なくとも、校則には違反するだろう行いを端緒とするワンダーフォーゲル部の不利益に関して、氷川が責任を感じるのは傲慢だと八椎に指摘されたのは、一ヶ月ほど前だ。常にそのことを考えているわけではないものの、時折思い起こされては氷川を悩ませる。言わんとすることは理解できるし、正論でもある。
氷川が黙っていると、横峰が低く唸ってから、そうだな、と話を繋ぐ。
「氷川くんのせいじゃないのは確かだし、責任を感じてもらう必要ないのも本当だよね。それが傲慢だってことになるかは、俺には難しい話だな」
「だとしても、同じ轍を踏まないために反省するのは、間違ってないよね」
「そうだね、そうかも。アドバイスする立場だとしても、上手い対処法を考えるのは悪いことじゃないし。でもトラブルに巻き込まれないに越したことはないよね。巻き込んだ俺が言うことじゃないけど」
「半分は好きで関わったようなものだから」
確かに発端は、横峰から強引にもたらされた情報だ。しかし、それ以上の関わりは氷川からのアクションで成り立っている。他人事と切り捨て切れないのはそのためで、傲慢だと言われて納得しきれなかったのも、そのせいかもしれない。氷川は確かに部外者だが、否応なく巻き込まれたわけではなかったからだ。
その結論に至ると、ようやくわだかまりが腑に落ちた気がした。整理がつくと心情も明るくなるのか、気分がいい。
「そうだよ、俺が自分から関わったことなんだから、もっと上手くやれたらって思ったっていいよね」
そう言うと、横峰がおかしそうに笑みをもらした。
「意外と強引だね」
「気を悪くした?」
なにせ横峰は当事者だ。不安になって訊ねると、彼は首を横に振った。
「まさか。嬉しいよ。氷川くんがそんなに気にしてくれてたなんて思ってなかったし。浅ましいこと言うけど……気分がいい」
横峰の手が、氷川の指を慰撫するように滑る。彼が立ち上がるのと前後して、液晶画面の光が消えた。非操作時間が長かったため、スリープ状態に切り替わってしまったらしい。電源ランプが緩やかに明滅している。
唐突に密度を増した闇に視界が覚束なくなる。気付いた時には腕を引かれるまま、横峰に引き寄せられていた。肩に触れる他者の感触と、掴めない状況に背がびくつく。
「気分がいい、って?」
気を紛らせるように問い返した声は、僅かに掠れていた。横峰が喉を鳴らす気配が耳の側でして落ち着かない。背を囲う腕の硬さは、同じ男としては羨ましい限りだが、現状は歓迎できるものではなかった。
「さっきも言ったよ。それだけ、俺が特別ってことでしょう。期待したくもなる」
期待とはなんだ。氷川が戸惑っているのをいいことに、横峰の手がするりと氷川の頬を撫でた。耳殻をなぞり、耳の後ろから首筋へと指先が移動する。襟足をなぞる感触に、氷川は身体をよじらせた。先程から心臓がうるさくて落ち着かない。触れる感触が心地良くさえあることが、氷川の恐怖を煽った。
「ちょ、っと、横峰くん、あのね」
「わからない?」
「想像は、つくけど。そういうつもりじゃない」
低く囁く声を、できるだけ冷静に撥ね付ける。横峰は小さく笑うと、身体を離した。
「悪かった。つい」
「……俺は、横峰くんのこと、俺なりにちゃんと、大事な友達だと思ってるけど」
「うん、ごめん」
素直に謝られると、逆に謝罪が軽く聞こえてしまうのは何故だろうか。自分も少し気を付けようと考えながら、氷川は息を吐いた。横峰がぎくりと身体を強張らせるのが、闇の中でもわかった。カーテンを開けに行こうかと一瞬考え、結局その場に踏み止まる。そして顔を上げた。いつの間にか目が慣れたのか、先程よりも視界は良好だ。
「横峰くんには、俺って、何」
端的な問いに、横峰はしばし黙り込んだ。
セクシャルな触れ方をしてくるくらいだ、横峰は氷川を単なる友人だと捉えてはいないだろう。感情が伴うのか、欲求のみかは別として、どこか琴線に触れる部分があるらしいことは推察できた。同性からも異性からも、そうした扱いを受けた経験はないものの、氷川自身はセクシャルマイノリティに対して偏見はない。だから嫌悪感はなかったが、同時に横峰に対してその手の欲も抱いてはいないため、対応を考える必要があった。
セックスしたいと言われたならば、少なくとも今現在はそういうつもりはないと言えばいい。しかし、そうでなかった時はどうすればいいのだろう。悩む氷川の前で、横峰が緊張した気配で深呼吸をした。
「氷川くんといると、楽に息が出来るんだ」
静かな声は、普段よりも低く、どこか甘い響きを伴っていた。思いがけない応えに、氷川は目を見張る。無自覚に横峰から何か求められると決め込んでいた自分が恥ずかしくて、視線が落ちる。彼は氷川の戸惑いを気にした気配もなく、言葉を繋いだ。
「取り繕いようがないくらい駄目な所ばっかり見せてるのに、呆れたり、見下したりしないでいてくれるから、安心して一緒に居られるんだよ。自分でも言ってて情けないけどね」
「そんなの、お互い様じゃない?」
氷川だって、横峰にはぞんざいな態度を取るし、みっともない部分も知られている。そう思ったが、彼はかぶりを振った。
「違うよ。俺には氷川くんはヒーローだもん。表沙汰に出来ない真似しでかしたのも自業自得だし、揉み消す方向で動いてもらえたことも有り難かったけど、でも、知っててくれる人がいるだけで、救われることってあるんだよ。許してくれて、話を聞いてくれて、助けてくれて、今も友達でいてくれる。すごく、感謝してる」
「ヒーローって」
「夏に、駆け付けてくれた時。どんな理由があって、どういうタイミングでも、俺にはヒーローに見えたよ」
てらいない賞賛と敬意は、過大評価もいいところで気恥ずかしく、視線が上げられない。
確かに、ワンダーフォーゲル部の不祥事と、横峰の感情に関して、当事者以外で最も把握しているのは氷川だろう。調査に参加し、彼の懺悔を聞いた。今となってはその後のごたごたまでも巻き込まれ、驚くほど深く関わってしまっている。
横峰の返答は、それはそれで本心だろう。しかし、氷川の意図とはずれていた。氷川の戸惑いを読み取って濁してくれたのかもしれないし、横峰自身の思惑でもって核心に触れることを避けたのかもしれない。
言葉を見つけられずにいる氷川の髪を、横峰が指先でそっと梳いた。それは温もりを感じる前に離れ、横峰は窓へと足を向けた。
「氷川くんが優しいのに付け込んで、不埒なことしようとした。ごめん」
カーテンが音を立てて開かれる。滑らかな動作で布をタッセルでまとめ、顔を伏せた。
「映画は、今日はやめとく。氷川くんが見たら、感想聞かせてくれる?」
「横峰くん、あの」
「おかしなこと言って、おかしなことしてごめん。今日は帰るよ。話せて嬉しかった」
横峰は氷川を見ないままそう言うと、くるりと踵を返して戸口へ向かう。横をすり抜けようとする彼の腕を、咄嗟に掴んだ。横峰は少し困ったような表情で足を止める。それを無視して、氷川は顔を上げた。
「また、話せる?」
わけが分からないまま避けられるのはもう沢山だ。訊ねた声は情けなく震えた。横峰が一瞬、痛ましげに眉をひそめる。けれどすぐに表情を取り繕い、柔らかな笑みを形作った。
「うん、また、一緒にお昼にしよう」
優しい声が紡ぐ、その約束は違えられることはないだろう。しかし同時に、もう彼を気軽に部屋に誘うことはできないような気がした。
一人になった部屋で、氷川はぐったりと寝台に転がった。緊張の反動か、心臓が騒々しく早鐘を打ち続けている。冷たいシーツに頬を寄せると、過分な熱が移っていって心地が良い。目を瞑り、大きく息を吐く。吐息は湿度を孕んで妙に熱く、気管を灼いた。
他者との境界を認識するのは難しい。氷川は確かに横峰に好感を抱いてはいるが、彼と性的なことをしたいと思ったことはない。そもそも、他者にそうした欲求を抱いた経験すらない。そのせいで、咄嗟に気付かなかったふりをする余裕すらなかった。しかも、だ。
「ヒーロー、なんて」
恩人のように扱ってくれていることは気付いていたが、そこまで格上げされていたなんて想像もしなかった。氷川はほんの少し関わっただけで、実質的な手続きに関しては手伝い程度しかしていない。確かに、タイミングがもう少し早ければヒーローのようだっただろうけれど。
ごろりと寝返りを打つ。
横峰の氷川に対する度を過ぎた謝意も、身体的な欲求も、氷川には見慣れない、縁のなかったものだ。そんな扱いは自分には相応しくないし、居心地も悪い。それなのに、彼の濡れたような瞳を思い出すと、なんとなく悪くない気分にもなるのが不可解だ。
ああもうと口の中で喚いて、氷川は身体を起こした。机に向かおう。脳の中を数字で埋め尽くせば、いつもの自分を取り戻せる。そんな風に考えること自体が、流されかけている証左であることを無視して、慌ただしく学習机に移動した。
日中はそのまま勉強に時間を費やし、夜になって見損ねた映像作品を見た。
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