嘘の多い異邦人と面倒見の良い諦観者たち

村川

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野分彩斗

勉強会 2

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「具合でも悪いの?」
 降ってきた柔らかな声に顔を上げる。だらっとしたスウェット姿の谷口が、怪訝そうに氷川を見下ろしていた。片手に缶ボトルを手にしている。ボトルの落ちる音に気付かないほど沈み込んでいたらしい。
「谷口先輩、おはようございます」
「うん、おはよ。気持ち悪いとかじゃなさそうだね」
 目元だけで笑って、谷口が氷川の隣に腰を下ろした。監査委員会の先輩である谷口たちのことは、先輩と呼ぶ。直接指導を受けた年長者は先輩と呼ぶ習わしだと、顔合わせの前に野分から説明を受けたので、素直にそれに従っていた。
「何か悩み事?」
「ええ、まあ。先輩は息抜きですか」
「目が疲れちゃって」
 苦笑して、谷口が首をぐるりと回す。こちらまで関節の鳴る音が聞こえてきた。
「根詰めすぎじゃないですか?」
「んー、でも、できるだけやっておかないと、後悔したくないし」
 谷口が目を伏せる。彼の言うことはよく理解できた。結局、最後の最後には自分の知識と、自信が物を言う。あの時もう少し勉強しておけばと悔いるのは、口惜しいし情けない。
「先輩はやっぱり東大ですか」
 氷川の問いに、谷口は首を傾げて唇に笑みを掃いた。
「僕のことは置いておいて。困ってるなら相談に乗るよ」
 箱を移動するような仕草をして、話題の矛先をこちらに向け直す。氷川は軽く首を傾けた。
「大丈夫です。考え事はしてましたけど、くだらないことなんで」
「そう? ま、言いたくないなら無理強いしないけどさ、せっかく後輩ができたから、頼れる先輩の振りでもしようかと思ったのに」
「あの、それなら」
 先程考えていたことは、口が裂けても他者には言えないが、言える悩みもある。野分に話を持ってこられて以来、抱いていた考えを、氷川はそっと口にした。つまり、監査の役割が自分一人で務まるのかという懸念だった。
 書類というものは、数学のように正解があるわけではない。正誤の判断は出来るが、妥当性を判断する能力があるとは思えない。氷川は電卓を叩くことは得意だが、小論文はいまひとつ不得手だ。だからこそ、本でも読もうかと思い立ったわけだが。
「俺には、荷が勝ちすぎている気がして」
 そう話を締めくくった氷川を検分するように、谷口が目を眇める。
「野分くんってあれで鑑識眼は確か、というか厳しい所があるからさ、氷川くんのことは相当買ってると思うよ」
「友達相手だからって、目が濁ることもないんでしょうか」
 控えめに懸念を述べると、谷口はおかしそうに首を横に振った。
「ないない。むしろ相手を知ってる分だけ見方が厳密になるタイプでしょう。そう思わない?」
「確かに、それは俺も思います、けど……」
「自分のこととなると自信がない、か」
「そうです」
 言葉を濁した氷川の不安を、谷口がはっきり音にする。頷いた氷川から視線を外し、彼は頬にかかった髪を耳にかけた。まっすぐな髪は、流した端からまた頬に落ちる。
「氷川くんが不安なのは、野分くんの見る目じゃなくて、自分自身なんだね。それは、僕にも野分くんにもどうしようもないな」
「ですよね」
 二学期の仕事は生方たちが教えてくれるだろう。だが三学期の分はそうはいかない。会計年度末の会計監査もだ。顧問の須田には相談できるだろうが、実質的には一人でこなさなければならない。悩むには気が早いとは思えなかった。
 氷川が仕事を覚えて、それを野分達に伝える。そのようにして仕事が受け継がれていく仕組みになっている。氷川が間違えれば、その後の全てに影響が出る。一人で背負うには重い役割だった。
 同じ重責を担ったことがある細い腕が伸ばされ、繊細そうな手が氷川の背を軽く叩く。
「僕もね、いいのかなあとは思ったよ。チェック機構なんだからもっと人手が欲しいともね。でも、まあ、結論から言うと、案ずるより産むが易し? 書類はチェック項目あるからそう大変じゃないし、会計監査もテキスト通りだよ。何日もかかって面倒だけど、やれば多少なりと自信にもなる。経験だと思って頑張れ」
「……激励ありがとうございます」
「うん、アドバイスにはなってないね我ながら」
 迷った末に軽く頭を下げた氷川に、谷口は軽やかな笑い声を上げた。とはいえ実際、それしか言いようが無かっただろう。氷川が吐露したのは不安やためらいであって、具体的なアドバイスを望む類いのものではない。
「ま、結局さ、引き受けた以上はやるしかないよ」
 谷口の言は身も蓋もないが、真実でもある。やるしかないし、やる以上は完璧を期するまでだ。理性は理解している。納得していないのは感情だ。それもこれも、野分が氷川に向ける感情に過分なものがあるかのように振る舞うためで、それが故に野分の鑑識眼を信じ切れないせいだった。だが、野分が感情と理性を切り離した判断ができるというなら、不安を覚える必要はない。野分が感情的な人間かをよく見極めれば、この懸念はどちらに転ぶにせよ結論を出せる。
 そこまで判断できると、僅かにだが胸が軽くなった。
「やるだけやるしかない、ですか」
「そうそう、開き直りが大事だよ。気は晴れた?」
 谷口が満足そうに氷川の腕を叩く。氷川は大きく頷いた。
「はい。お陰様で」
 実際、谷口と話す内に整理がついた。考え込んでいた内容とは別件だが、こちらも悩んではいたので、進捗があっただけでも助かった。谷口が嬉しそうに表情を緩める。
「ああ、いいなあ、氷川くん、先輩のお陰ですって言って」
 弾んだ声で求められ、氷川は目をまたたいた。少し変わった人だ、そんな失礼な感想を抱きつつ、求められた言葉を口にする。
「え、ええ、谷口先輩のお陰で頑張れそうです」
「うん、良かった。いや、変なこと言ってごめんね、僕は体育祭でも球技大会でも役に立たないし、部活も委員会もやってなかったし、先輩って言われたことがなくてね。なんかいいね、くすぐったくて恥ずかしいけど気分いい」
 少女のような笑い声を漏らす谷口は、言葉通り楽しげだ。公立中学出の氷川には分からない感慨だが、あえて水を差す必要もない。
「あの、谷口先輩。受験でお忙しいとは思いますが、また……試験の後でも、ご指南ください」
「卒業式より後になっちゃうけど、退寮期限までは残って出来るだけ教えるよ。年度末の分もちゃんとやる。本当は今のうちにやってあげられたらいいんだけど」
 申し訳なさそうに付け加える谷口に、氷川はあわてて手を振った。そこまでの無茶を言うつもりは無い。彼が本当は寸刻を惜しむほど忙しいと、理解しているつもりだ。
「それこそ、余計な仕事を抱えたせいで悔いが残ったら困りますから」
「そうだね、氷川くんに責任転嫁しないためには、待って貰わなきゃ。さて、と」
 随分と身勝手な氷川の言い様に怒るでもなく、谷口は穏やかに頷いた。そして壁の時計を見遣ると、缶ボトルを手に腰を上げる。
「息抜きはお終い。またね」
「あ、……話を聞いていただけて、助かりました。ありがとうございました」
 背中を追いかけるように声を掛けると、彼は振り向かないまま軽く手を振り、階段に消えた。
 思わず溜息を吐く。谷口は明言しなかったが、彼の受験先も予想はできている。科類は別として、第一志望は国内最高位の大学に違いない。忙しいだろうに弱音を吐いて、心配させてしまったかもしれない。申し訳ないことをした。後悔しながらベンチを離れ、自販機に向かい合った。
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