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野分彩斗
デート 1-2:彼の家庭の事情
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きのこ蕎麦で昼食を済ませ、目についたカラオケボックスに入った。込み入った話なのでカフェやフードコートなどでは話せないし、公園などで話す気にもならない。その点、カラオケボックスという選択は無難とは言えた。
食事をしたばかりなので飲み物だけ調達し、適当な間を空けてソファに座る。まだ熱いコーヒーのカップから湯気がゆったりと立ち上った。
「別に無理に話さなくても、言いづらいなら詮索したりしないけど」
「まあ面白い話じゃないのは確かだな。知りたい理由は、興味本位?」
「どうかな、これでも心配してるつもりだよ」
露骨な牽制は不審ではなく躊躇の表われだ。話したい、けれど話して良いのか分からない。理解できているから、嫌な気分にもならずに柔らかな返答を探せた。野分が溜息を吐いて肩を下げる。
「悪い、わざと言わせた。そうだな、じゃあ、聞いて貰おうか。本音言うと、話したかった」
野分の声は静かだ。閉めきった扉の前を人が通り過ぎる。隣室からは賑やかに騒ぐ声が聞こえてくるのに、奇妙なほど遠く感じた。
氷川を見つめる瞳を見返し、僅かに目を細める。誰でも良いから聞いて欲しいのか、氷川だから話したいのかは分からない。それでも、野分の言葉に嘘がないことは読み取れた。
氷川自身はどちらかといえば冷淡な人間だと自覚しているし、彼が何を話してくれても、有益なことは言えないだろう。それでも、話すだけで楽になることもあるのだと知ってはいる。
薄く苦いコーヒーをひとくち飲み、氷川は笑みを作った。
「野分くんが話してもいいって思ってくれるなら、聞かせて」
努めて穏やかに促すと、彼は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「ありがとう」
――野分の父は、それなりに名前の通った企業の社長だ。初代は彼の曾祖父であり、二代目は彼の祖父だった。この祖父は、先年の六月に逝去している。現在、会社は彼の大伯父を会長CEOとし、彼の伯父や伯母が幹部を務めている。このことから分かる通り、完全なる同族経営の企業で、野分の父が社長になったのも唯一の直系の男子だったからではないかと野分は分析している。
同族経営企業の是非はこの際置いておく。同族経営だからといって全ての企業が問題を抱えているわけではないし、その社の体質は内部に入らなければ分からないからだ。
問題は会社ではなく、その逝去した祖父にあった。
「遺言書……公正証書遺言ってやつだったんだけど、開封したら、知らない名前が書いてあった。三女、茂木三奈子……祖父さんの子供は長女と次女の伯母二人に、うちの父親の三人だけだと、親族の皆が思ってた。まさか外に女作って、きっちり認知して、生活費やその女の葬式代も出して、しかも孫がいて教育費を生前贈与してたなんて、誰が思うよ」
ぐしゃりと野分が前髪を掻き乱す。
「あんな堅物の仕事人間の祖父さんでも、そんな風になるとはな」
苦い声に、思い出す。星空の下で、彼は吐き出すように言った。祖父とまともな話をしたことがない。雑談めいた話をした記憶がない。せめて、どんな形でもいい、生きていてくれたら。あの時の彼は遺言の内容を知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか、どちらにせよやるせない。
「それで、さっきの子が……」
「茂木亜巳。俺の従弟なんだと。顔を合わせたのは、今日で三度目だ。といっても、一回目は葬式で見かけただけで、どこの誰とも知らなかったけどな。社員か取引先の子供かと思ったら、全然違ったってわけ」
野分の驚愕を想像しようとして、断念した。氷川には考えられない境地であることは確かだ。ドラマのような経験をした当人は、苦い表情でかぶりを振り、独り言のような淡々とした声音で言葉を吐き出す。
「なあ、俺には理解できねえよ。なんで茂木の娘は平気な顔してうちに顔を出せるんだ。茂木亜巳は笑顔で俺らに話しかけてくるんだ。歓迎されるわけがない、好かれるわけがないって、よく考えるまでもなく分かるだろうが」
大きく嘆息し、野分がカップの取っ手に指を絡める。口元に運び、顔をしかめた。
「不味いな」
「替えてくる?」
「いや、いい」
「そう……その、要するに不倫相手の女性は……」
「いわゆる玄人女だったらしいけど、もう死んでる。何年前だったか、その葬式の面倒も祖父さんがしたらしい。話を聞いて祖母さんは卒倒寸前だった。自分の娘と変わらない年齢の女に子供を産ませたのか、ってな。ぶっちゃけ、それ自体は古今東西どこでもある話ではある」
常よりも荒い口調で、野分はうんざりと吐き捨てる。一般論で誤魔化しても、不快さが消えるはずがない。祖母や伯母の嫌悪感はひとしおだろう。非嫡出子がいて、孫までいたなど、気分がいいわけがない。
玄人の女性とは、端的に表現すれば水商売の女性のことだ。今で言うキャバクラ嬢や泡姫、もう少し格調が高いクラブホステス、コンパニオンや芸妓などもひっくるめて玄人女性と表現したりするので、野分の祖父が入れ込んだ女性がどのような類いの女性かはわからない。だが何であるにしろ、いわゆる“商売女”に入れ揚げて子供を産ませたという結果には変わりがない。その人物のイメージが清廉であればあるほど、眉をひそめたくなるはずだ。
氷川は少しだけ座る位置をずらし、野分の腕を叩いた。
「どこにでもある話でも、自分の話は特別だよ。嫌な思いをしたでしょう」
「正直言えば、裏切られたと思った」
「というか、法律的に実際に不貞は裏切りだしね……慰謝料請求だってできるはずだけど、当事者が両方鬼籍に入っちゃってるんじゃそういう解決もできないか」
茂木三奈子という人物が不貞の結果生まれたとしても、その女性に責任を取れというのは違う気がするし、と胸中で付け足す。野分には言えないが、生まれた人物には罪はないと、氷川には思える。自分が生まれたことの責任は取れない。きっと野分もそれを理解しているから、苦しんでいるのだろうけれど。
腕を繰り返し撫でていると、少し落ち着いたのか、野分は深呼吸をして呼吸を整えた。
「それは祖母と祖父の……今となっちゃ祖母の問題だから、俺が口を出すことじゃない。まあ実際気分は悪いし、失礼だけど気持ち悪いけど、それ以上に、相続で揉めてんのが気分悪い」
冷めたコーヒーをひとくちで半分ほどに減らし、野分が顔をしかめた。
「揉めてる、んだね、やっぱり。公正証書遺言でも」
「ああ、法律で決まってる割合とは違う割合が指定されてる上に厄介な指示着きなもんだから、認められない、破棄しろ、しない、の言い合いだ。夏からずっとな」
「もしかして、年末に帰省しなかったのも?」
揉めていたせいなのか、言葉を濁しつつ訊ねると、野分は唇の端を歪めて頷いた。
「正解。誰も彼もが金、金、金だ」
野分がコーヒーを飲み干し、氷川に手を出した。カップを渡すと、彼はそれを受け取り、自分の前に置いた。
「それなりに仲良い親戚同士だったのが、今じゃ一致団結して対茂木戦線張ってる、けど、裏じゃそれ以外の分割の内容について言い合いしてるんだ。祖父さんが残したもんはそれなりの資産と、それ以上の揉め事だったよ」
肺を空にしようとするように長く息を吐き、野分は背もたれに身体を預けた。何も言えることがなく、氷川は緩く唇を噛む。聞くだけでも楽になるのではないかと、そんな安直な感情で話を促した自分に苛立ちさえ覚える。嫌な記憶と感情を呼び起こさせただけで、何の役にも立っていない。視線を落とすと、野分がこちらに手を伸ばした。軽く腕を引かれ、座る位置をもう少し近づける。
「気分悪い話聞かせて悪いな」
「話してって言ったの、俺じゃん。なのに、なんにも言えなくてごめん」
「いや、聞いて貰えて気が楽になった、し、氷川が聞きたいって言ってくれて嬉しかった」
ありがとうと微笑み、野分が氷川の手の甲にてのひらを重ねる。振りほどいていいものか迷っていると、絡めるように指の間に指を差し込まれた。咄嗟に手を引き、ついでに上体をそらす。野分は喉の奥で挽き潰したような笑いを漏らした。その反応と表情に安堵して、詰めていた息を吐いた。
「大変だね。話を聞くだけでも、心労すごいだろうなって思うよ」
「まあな。聞いてたってうんざりだろ。お陰で兄貴と珍しくガチで話し合いまでしちまった」
「お兄さんって、文化祭の時にいらしてた、あの?」
真面目そうで穏やかそうな男性を思い出す。そうそう、と軽い調子を取り戻した野分が首肯する。
「後顧の憂いをなくすためにややこしい真似はしねえようにしようってだけだけどな」
「つまり、野分くんのお祖父さんみたいな?」
「おう。つか、もう、その意味じゃ一生独り身のが楽なんじゃね、みたいな気持ちもあるけど。兄貴は彼女いるし、将来的には社長だし、したら俺がふらふらしてても特に問題ねえしな」
野分が肩をすくめ平然と言う。投げやりな言葉に、氷川は眉を上げた。唇の端が引きつる。どうしてそんな発想になるのか、理解できなくはないが、安直かつ極端だ。
「楽って、そんな理由で」
「だって相続って本当面倒なんだぞ。法定通りならさくっと進むんだろうし、資産がなければ揉めることもそんなないだろうけど、下手に色々あるとまじでややこしい。それでも、守りたいものがあったり、遺したい相手がいたら面倒とか言ってらんないじゃん。だったら身一つのが譲りやすいしな」
軽く肩をすくめ、野分は平坦な声で話す。氷川は眉をひそめた。
別に今時、結婚と人生が直結しているなんて考えてはいない。それでも、野分の話し振りではまるで人生のいくらかを諦めているかのようだ。あるいは、その過半を。
こちらを見遣った野分が苦笑して、氷川の頬に手を伸ばした。少しかさついた温かな手が、柔らかく頬から顎を撫でる。
「そんな顔すんなよ。そういう大義名分があれば、氷川と一緒にいてもいい理由にもなるしってのもあるんだから」
囁く声は甘く、触れる手つきも優しい。だがその言葉はどの程度、真実なのだろう。水が低いほうへ落ちるように、易きに流れた結果の結論ではないのか。氷川は野分にとって都合の良い言い訳ではないのか。決心と、感情。どちらも本心だと仮定してすら、鶏卵前後論争めいた疑念は残る。
おそらく情けない表情になってしまっているだろう。そう自覚しながら、視線だけで野分を見上げた。
「……どんな顔してる?」
「同情してくれてる顔」
身を乗り出した野分が、氷川の頭部を引き寄せ、顔を近づける。カラオケボックスは防犯カメラがあるはずだと思い出した時には、唇が重なっていた。
食事をしたばかりなので飲み物だけ調達し、適当な間を空けてソファに座る。まだ熱いコーヒーのカップから湯気がゆったりと立ち上った。
「別に無理に話さなくても、言いづらいなら詮索したりしないけど」
「まあ面白い話じゃないのは確かだな。知りたい理由は、興味本位?」
「どうかな、これでも心配してるつもりだよ」
露骨な牽制は不審ではなく躊躇の表われだ。話したい、けれど話して良いのか分からない。理解できているから、嫌な気分にもならずに柔らかな返答を探せた。野分が溜息を吐いて肩を下げる。
「悪い、わざと言わせた。そうだな、じゃあ、聞いて貰おうか。本音言うと、話したかった」
野分の声は静かだ。閉めきった扉の前を人が通り過ぎる。隣室からは賑やかに騒ぐ声が聞こえてくるのに、奇妙なほど遠く感じた。
氷川を見つめる瞳を見返し、僅かに目を細める。誰でも良いから聞いて欲しいのか、氷川だから話したいのかは分からない。それでも、野分の言葉に嘘がないことは読み取れた。
氷川自身はどちらかといえば冷淡な人間だと自覚しているし、彼が何を話してくれても、有益なことは言えないだろう。それでも、話すだけで楽になることもあるのだと知ってはいる。
薄く苦いコーヒーをひとくち飲み、氷川は笑みを作った。
「野分くんが話してもいいって思ってくれるなら、聞かせて」
努めて穏やかに促すと、彼は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「ありがとう」
――野分の父は、それなりに名前の通った企業の社長だ。初代は彼の曾祖父であり、二代目は彼の祖父だった。この祖父は、先年の六月に逝去している。現在、会社は彼の大伯父を会長CEOとし、彼の伯父や伯母が幹部を務めている。このことから分かる通り、完全なる同族経営の企業で、野分の父が社長になったのも唯一の直系の男子だったからではないかと野分は分析している。
同族経営企業の是非はこの際置いておく。同族経営だからといって全ての企業が問題を抱えているわけではないし、その社の体質は内部に入らなければ分からないからだ。
問題は会社ではなく、その逝去した祖父にあった。
「遺言書……公正証書遺言ってやつだったんだけど、開封したら、知らない名前が書いてあった。三女、茂木三奈子……祖父さんの子供は長女と次女の伯母二人に、うちの父親の三人だけだと、親族の皆が思ってた。まさか外に女作って、きっちり認知して、生活費やその女の葬式代も出して、しかも孫がいて教育費を生前贈与してたなんて、誰が思うよ」
ぐしゃりと野分が前髪を掻き乱す。
「あんな堅物の仕事人間の祖父さんでも、そんな風になるとはな」
苦い声に、思い出す。星空の下で、彼は吐き出すように言った。祖父とまともな話をしたことがない。雑談めいた話をした記憶がない。せめて、どんな形でもいい、生きていてくれたら。あの時の彼は遺言の内容を知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか、どちらにせよやるせない。
「それで、さっきの子が……」
「茂木亜巳。俺の従弟なんだと。顔を合わせたのは、今日で三度目だ。といっても、一回目は葬式で見かけただけで、どこの誰とも知らなかったけどな。社員か取引先の子供かと思ったら、全然違ったってわけ」
野分の驚愕を想像しようとして、断念した。氷川には考えられない境地であることは確かだ。ドラマのような経験をした当人は、苦い表情でかぶりを振り、独り言のような淡々とした声音で言葉を吐き出す。
「なあ、俺には理解できねえよ。なんで茂木の娘は平気な顔してうちに顔を出せるんだ。茂木亜巳は笑顔で俺らに話しかけてくるんだ。歓迎されるわけがない、好かれるわけがないって、よく考えるまでもなく分かるだろうが」
大きく嘆息し、野分がカップの取っ手に指を絡める。口元に運び、顔をしかめた。
「不味いな」
「替えてくる?」
「いや、いい」
「そう……その、要するに不倫相手の女性は……」
「いわゆる玄人女だったらしいけど、もう死んでる。何年前だったか、その葬式の面倒も祖父さんがしたらしい。話を聞いて祖母さんは卒倒寸前だった。自分の娘と変わらない年齢の女に子供を産ませたのか、ってな。ぶっちゃけ、それ自体は古今東西どこでもある話ではある」
常よりも荒い口調で、野分はうんざりと吐き捨てる。一般論で誤魔化しても、不快さが消えるはずがない。祖母や伯母の嫌悪感はひとしおだろう。非嫡出子がいて、孫までいたなど、気分がいいわけがない。
玄人の女性とは、端的に表現すれば水商売の女性のことだ。今で言うキャバクラ嬢や泡姫、もう少し格調が高いクラブホステス、コンパニオンや芸妓などもひっくるめて玄人女性と表現したりするので、野分の祖父が入れ込んだ女性がどのような類いの女性かはわからない。だが何であるにしろ、いわゆる“商売女”に入れ揚げて子供を産ませたという結果には変わりがない。その人物のイメージが清廉であればあるほど、眉をひそめたくなるはずだ。
氷川は少しだけ座る位置をずらし、野分の腕を叩いた。
「どこにでもある話でも、自分の話は特別だよ。嫌な思いをしたでしょう」
「正直言えば、裏切られたと思った」
「というか、法律的に実際に不貞は裏切りだしね……慰謝料請求だってできるはずだけど、当事者が両方鬼籍に入っちゃってるんじゃそういう解決もできないか」
茂木三奈子という人物が不貞の結果生まれたとしても、その女性に責任を取れというのは違う気がするし、と胸中で付け足す。野分には言えないが、生まれた人物には罪はないと、氷川には思える。自分が生まれたことの責任は取れない。きっと野分もそれを理解しているから、苦しんでいるのだろうけれど。
腕を繰り返し撫でていると、少し落ち着いたのか、野分は深呼吸をして呼吸を整えた。
「それは祖母と祖父の……今となっちゃ祖母の問題だから、俺が口を出すことじゃない。まあ実際気分は悪いし、失礼だけど気持ち悪いけど、それ以上に、相続で揉めてんのが気分悪い」
冷めたコーヒーをひとくちで半分ほどに減らし、野分が顔をしかめた。
「揉めてる、んだね、やっぱり。公正証書遺言でも」
「ああ、法律で決まってる割合とは違う割合が指定されてる上に厄介な指示着きなもんだから、認められない、破棄しろ、しない、の言い合いだ。夏からずっとな」
「もしかして、年末に帰省しなかったのも?」
揉めていたせいなのか、言葉を濁しつつ訊ねると、野分は唇の端を歪めて頷いた。
「正解。誰も彼もが金、金、金だ」
野分がコーヒーを飲み干し、氷川に手を出した。カップを渡すと、彼はそれを受け取り、自分の前に置いた。
「それなりに仲良い親戚同士だったのが、今じゃ一致団結して対茂木戦線張ってる、けど、裏じゃそれ以外の分割の内容について言い合いしてるんだ。祖父さんが残したもんはそれなりの資産と、それ以上の揉め事だったよ」
肺を空にしようとするように長く息を吐き、野分は背もたれに身体を預けた。何も言えることがなく、氷川は緩く唇を噛む。聞くだけでも楽になるのではないかと、そんな安直な感情で話を促した自分に苛立ちさえ覚える。嫌な記憶と感情を呼び起こさせただけで、何の役にも立っていない。視線を落とすと、野分がこちらに手を伸ばした。軽く腕を引かれ、座る位置をもう少し近づける。
「気分悪い話聞かせて悪いな」
「話してって言ったの、俺じゃん。なのに、なんにも言えなくてごめん」
「いや、聞いて貰えて気が楽になった、し、氷川が聞きたいって言ってくれて嬉しかった」
ありがとうと微笑み、野分が氷川の手の甲にてのひらを重ねる。振りほどいていいものか迷っていると、絡めるように指の間に指を差し込まれた。咄嗟に手を引き、ついでに上体をそらす。野分は喉の奥で挽き潰したような笑いを漏らした。その反応と表情に安堵して、詰めていた息を吐いた。
「大変だね。話を聞くだけでも、心労すごいだろうなって思うよ」
「まあな。聞いてたってうんざりだろ。お陰で兄貴と珍しくガチで話し合いまでしちまった」
「お兄さんって、文化祭の時にいらしてた、あの?」
真面目そうで穏やかそうな男性を思い出す。そうそう、と軽い調子を取り戻した野分が首肯する。
「後顧の憂いをなくすためにややこしい真似はしねえようにしようってだけだけどな」
「つまり、野分くんのお祖父さんみたいな?」
「おう。つか、もう、その意味じゃ一生独り身のが楽なんじゃね、みたいな気持ちもあるけど。兄貴は彼女いるし、将来的には社長だし、したら俺がふらふらしてても特に問題ねえしな」
野分が肩をすくめ平然と言う。投げやりな言葉に、氷川は眉を上げた。唇の端が引きつる。どうしてそんな発想になるのか、理解できなくはないが、安直かつ極端だ。
「楽って、そんな理由で」
「だって相続って本当面倒なんだぞ。法定通りならさくっと進むんだろうし、資産がなければ揉めることもそんなないだろうけど、下手に色々あるとまじでややこしい。それでも、守りたいものがあったり、遺したい相手がいたら面倒とか言ってらんないじゃん。だったら身一つのが譲りやすいしな」
軽く肩をすくめ、野分は平坦な声で話す。氷川は眉をひそめた。
別に今時、結婚と人生が直結しているなんて考えてはいない。それでも、野分の話し振りではまるで人生のいくらかを諦めているかのようだ。あるいは、その過半を。
こちらを見遣った野分が苦笑して、氷川の頬に手を伸ばした。少しかさついた温かな手が、柔らかく頬から顎を撫でる。
「そんな顔すんなよ。そういう大義名分があれば、氷川と一緒にいてもいい理由にもなるしってのもあるんだから」
囁く声は甘く、触れる手つきも優しい。だがその言葉はどの程度、真実なのだろう。水が低いほうへ落ちるように、易きに流れた結果の結論ではないのか。氷川は野分にとって都合の良い言い訳ではないのか。決心と、感情。どちらも本心だと仮定してすら、鶏卵前後論争めいた疑念は残る。
おそらく情けない表情になってしまっているだろう。そう自覚しながら、視線だけで野分を見上げた。
「……どんな顔してる?」
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