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野分彩斗
先輩に相談事
しおりを挟む夕食を済ませて帰寮し、シャワーを浴びる。本当は冬場は湯船に浸かったほうがいいのだろうが、野分と再遭遇してしまったらまともに対応できる自信がなかった。
野分の実家の問題に関しては、氷川には言えることもできることもなく、従って考えても仕方がない。薄情と非難されるかもしれないが、それが現実だ。だから思考は自然ともっと自分に関わりの深い部分に行く。
結婚する気はないから都合が良い。
都合が良いし、結婚しない。
その二つは両立可能だが、やはりどちらが重いかで意味合いが変化してくる。ゲイでもない野分が男の自分に好意を向けてくれるなら、きちんと対応しなければならないと考えていた。実際はわりと流されがちだが、それはそれとして、誠実に考えるべきだと思っていた。
けれど、その感情の根底が揺らぐというなら。
シャワーを止め、湯気の中で鏡を覗き込む。熱めのお湯を頭から浴びたせいで頬が上気しているのが、曇っていてもわかった。
人差し指で何度も触れられた唇をなぞる。野分はスキンシップが手慣れている。今まで、多くの女性と接し、遊んできたのが分かる。柔らかく触れ合うだけのキスが気持ちが良いものであることなど、氷川は想像さえしたことがなかった。
顔をしかめ、てのひらで額をぱたぱたと叩いて邪念を振り払うと、シャワールームを後にした。乱雑に髪を拭き、部屋着を着込んで廊下に出る。なんとなくまっすぐ部屋に戻る気にならず、共有スペースのベンチに腰を落ち着けた。大きく取られた窓の外は夜の闇に沈んでいる。さすがに今日は学校に残っている教員もいないのか、私道の向こうに見える校舎は保安灯がついているだけだった。
「こんばんは」
不意に声を掛けられて、顔を上げる。着替えを抱えた谷口が上機嫌で微笑み、氷川の隣を視線で示した。
「座っていい?」
「どうぞ。センターお疲れさまでした」
ありがとうと腰掛けた谷口が、着替えなどの一式を脇に置いて首を左右に揺らした。
「手応えはばっちりですか?」
「何その訊き方。まあ悪くないよ、うん、自己採点では余裕で大丈夫って感じ」
「それなら本当に余裕ですね、さすが谷口先輩です」
わざと尊大な言い方をする谷口を、そのまま素直に賞賛すると、彼は咳き込むように失笑した。特に愉快なことを言ったわけでもないのに、上半身を倒し、声もなく肩を震わせる。氷川は手を伸ばして、その薄い背中を撫でた。
「氷川くんって普段しらっとしてるのに、たまに凄い変で面白いね」
「谷口先輩なんてこの学校で一番頭良いじゃないですか、体調さえ問題なければ余裕で当たり前でしょう」
「うん、そのナチュラルに褒めてくれる感じプレッシャー半端なくて好きだな」
「……どうも」
「ま、本番はこれからだけどね。前期で決めて引継やんなきゃだし」
真面目な表情で頷き、それから谷口は氷川に目を向けた。またたき一つで雰囲気が柔らかく、話しやすそうになる。彼は僅かに肩を斜めにし、氷川を覗き込むようにした。穏やかな暖色の蛍光灯を浴びて、瞳が焦げ茶色に見えた。
「それで、氷川くんはどうしたの、何か悩み事?」
落ち着いた声音は、廊下に響かないようにか低く小さめだ。氷川は頬を撫で、首を傾けた。
「そんな感じします?」
「する。よかったら話してみなよ、一年とはいえ長く生きてるんだから役に立つかもよ」
「プライベートの、結構どうでもいいような話ですよ?」
「いい息抜きになるね」
勉強で忙しい谷口の、貴重な時間を割いて貰うような話では決してない。そう遠慮しようとした氷川を軽い調子でいなし、谷口が唇に楽しげな笑みを掃く。おそらく意図的に、話しやすい空気を作ってくれているのだろう。
誰かに聞いて欲しいほど、吐き出したいほど、重い悩みではない。それでも、ここまで言ってくれるならば、聞いて貰ってもいいような気がしてきた。そんな感情のままに、無難な問いから口にした。
「谷口先輩って、恋人います?」
「え、なに、恋バナ? 氷川くんが?」
谷口が目を丸くし、僅かに声のトーンを上げる。ええと、と氷川は耳の下をこすった。
「おかしいですかね」
「おかしくはないけど、意外。彼女の話なの?」
「いえ、あの……好きって言ってくれる人がいまして」
「自慢か。それで?」
「とてもありがたいんですけど、でも詳しく話を聞いていくとなんというか……好意というより、俺が都合が良いだけみたいに感じてしまって……どう、考えるべきかと」
谷口は細かく感想を挟みながらも、話の腰を折ることはない。女性相手だと勘違いされるのは無理もないことなのでそのまま流し、考えていたことを言葉にする。その悩みは、音にしてしまうと驚くほど些細なことのように感じて、氷川は視線を下げた。
谷口は左腕をみぞおちあたりに置き、右手でゆっくり顎を撫でる。しばし黙考したあと、そうだなと呟くように言った。
「女の子はどうしても打算的になりやすいもんだけどね、妊娠出産って命がけの大仕事だし、猫と違って一度に妊娠できるのは一人の男の子供だけだ。だから少しでもいい男、優秀な種を見つけなきゃいけないし、どうしてもやっぱり、凄く好きだけど駄目な男より、そこそこ気に入ってて優秀な男を選びやすいもんだろうと思うし」
話す内容は客観的かつ、容赦がない。生物学的本能の観点から考えれば確かにそうだろうが、それでは本能で相手を選んでいることになってしまう。人間も生き物である以上、男も女もそういう部分はあるのかもしれないが。
「夢がないですね」
迷った末に述べた感想に、谷口が笑うように息を吐いて右手を軽く広げた。
「恋愛に夢見てられるのは子供だけだよ。お父さんが弁護士の女の子なんて、結婚相手見繕うために法学部に入るなんて話まであるからね。真偽は知らないけど」
「完璧に打算的な行動ですね」
「ね。氷川くんが告白された子もそんな感じ?」
少女のような笑みを漏らした谷口が、氷川の瞳を覗き込む。氷川は言葉に詰まって視線をそらした。
敢えて逃げ道を探すならば、告白はされていない。というより、明白な言葉は聞いていない。だが、言われていないから分からないなどと屁理屈を捏ねるほど、往生際が悪いつもりもない。言わずとも好意を伝えられているし、理解していることを先方も知っている。だからこその相談であり、谷口の表現は本質的には正しい。
氷川は目を細め、首を捻った。完全な打算、ではないだろう。そもそも野分には氷川を選ぶ理由がない――そう考えかけて、一点思い出す。氷川の父は野分の実家の企業の会計監査を行なっているはずだ。全く利害関係がないわけでもない。自分で思うよりは、使えると思って貰えている節もある。だから全く計算がないとは言えないが、それでも、二人を繋ぐ関係性は恋愛である必要はないのも確かだ。むしろ友人同士であるほうが、安定性や、世間や身内に隠す必要がないことなど、総合的に考えて有益なはずだ。寂しさを埋めるならば一時の遊び相手で充分で、将来に渡って影を落とす可能性のある相手を選ぶ必要はない。
違うと思うが分からない。そんな結論しか導き出せなくて、氷川は苦笑した。それでも、青田買いを狙う女性ほどではないはずだと、希望的観測を弾き出す。
「そこまでじゃない、ですね」
「そっか。それで、氷川くんはその子のこと好きなの?」
曖昧に否定した氷川に、いかにも興味津々といった様子で谷口が質問を重ねる。氷川は数秒自問し、ゆるく頭を横に振った。
「正直、それもよくわかんないです」
「でも、打算なんだなあって思うと考えちゃうくらいは気になってる、と」
「……多分」
改めて言われると素直に頷きづらい。僅かに苦い返答に、谷口がおかしそうに喉の奥で笑いを漏らした。そして氷川の肩を軽く小突く。だが紡がれた声と言葉は思いがけない真摯なものだった。
「僕はね、氷川くん、好きって感情の純粋さは必ずしも、その人とお付き合いする基準ではないと思う。色々なことを総合的に考えて、一緒に居たいと思う人と一緒にいるのが幸せなことだよ。恋愛的に好きじゃなくても、一緒に居て心地いい人と結婚するのは決して、不誠実な行為じゃないでしょう?」
「はい」
確かにそうだ。氷川は昔から、紗織にこう言われている。もし泰弘くんが三十歳になってもまだ未婚で結婚したい相手がいなくて、私もそうだったら結婚しようね。紗織はレズビアンだし、氷川も彼女のことは姉のようにしか考えていない。だからこそ、入籍しても問題なくやっていけるだろうと予想していた。子供はできないだろう。だがその選択は別に非道徳なものでも、不誠実なものでもないはずだ。人と人を結ぶ情は、必ずしも強い好意だけによって成り立っていない。
首肯した氷川に頷き返し、まあ、と谷口が首筋を撫でる。
「そうは言っても納得しづらいだろうけどね、打算かも、計算かも、都合がいいだけかも、って部分だけに囚われないで、氷川くんがどうしたいか、その子をどう思ってるか考えて欲しいかな」
「俺が、どう思っているか」
「その子はどういう事情であれ、氷川くんのことが好きなのも本当だと思うんでしょう? だったら後は大事なのは、氷川くんの感情だけだと、僕は思うよ」
落ち着いた声音で話す谷口に、小さく頷く。感情で動くのは恐ろしい。間違える可能性が高いし、その責任は全て自分の判断の甘さに帰結してしまう。けれど時にそれが正解だということも事実だ。氷川の感情の在処は未だ見えていないし、あるいは定まってすらいないのかもしれないが、それは氷川自身の問題だ。
いつの間にか伏せていた目を上げる。彼は満足げに微笑み、さてと、と軽く首を傾けた。
「どうかな、少しは整理ができた?」
「はい、とても」
素直にそう応じると、谷口が意外そうに眉を上げた。
「そう? 年上ぶってても全然相談乗れてないなって、自分で呆れてたんだけどね」
「え、すごくすっきりしましたよ。絡まってた糸がほどけた感じです」
「そっか、良かった。なら協力のお礼に、結論が出たら報告してね」
谷口が楽しげに身体を揺らして言ってくる。現実問題として、詳しいことは決して言えない。けれど、大まかなことなら体裁を整えれば話すことも出来るだろう。
「そうですね、色々落ち着いたら。忙しいのに話聞いて貰ってありがとうございました」
「いやいや、結構強引に聞き出したし、うん、いい気分転換になったかな。じゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
反動をつけてベンチを離れた谷口が、あ、と声を上げて振り向いた。
「湯冷めしないうちに帰りなね」
保護者めいた物言いに笑みを漏らし、氷川ははい、と頷いた。シャワールームに向かうらしき谷口を見送り、氷川は表情を消す。
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