嘘の多い異邦人と面倒見の良い諦観者たち

村川

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橘祐也

文化祭の前に 5:氷川の知らない橘の世界

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 電車で移動する間中を、橘から借りた携帯音楽プレイヤーでの短期集中学習に費やし、現地で向井と早坂と合流した。隣県にある大型商業施設は、周辺では他のイベントも開催されていて賑やかだ。秋晴れに似合わない、パンクっぽい服装の女性や、ロリータなどが目立つ。そんな一種異様な雰囲気を気にも留めず、昼食を食べ終えた橘は前のバンドのメンバーも来ているからとそちらに向かってしまった。残された氷川は、向井と早坂に異文化ライブでの振る舞いについてレクチャーを受けた。
 暗転したら終わるまで座らないことから、周囲が一糸乱れぬマスゲームを始めた時の対処、禁止事項や注意事項。
「まあ、変わった世界だろうけど、楽しんでって。はいこれ氷川くんの分のチケット」
 向井が微笑んで券を差し出す。渡されたチケットには、もう少しで五桁という数字が印字されていて、氷川は受け取ったまま硬直した。
「あの、これ、代金はどなたに……?」
「いい、いい、奢り」
「いえ、そんな、さすがにこれは」
 高い。財布の中に諭吉はいただろうかと本気でうろたえる氷川に、向井は軽く笑って肩を叩いた。
「本当いいよ。定価割れて譲って貰ったもんだし。でもまあ、もし気になるなら、祐也の勧誘、本気で考えてやってよ。こんなとこに連れてくるくらい、君に入れ込んでるんだから」
「でも俺、ビジュアル系は本当に何も知らないんです」
「それは重要なポイントじゃない」
 弁明する氷川に、早坂が切り捨てるように告げる。氷川は眉を寄せた。
 向井はこんな所と言ったが、橘にも、向井と早坂にとっては楽しみにしていたものに違いない。それなのに氷川は、今から見るバンドの名前すらまともに知らなかったのだ。属するジャンルについてもまるで知らない。共感以前に、知識どころか関心も乏しかった。それなのに、どうして同じ場所に立てるだろう。同じものを見られるとは、思えない。
「橘くんは、ビジュアル系が好きだって、やりたいって言ってました」
「そこに拘るなら、最初から知ってる範囲で探すよ。あいつは単純に氷川くんを気に入って誘ったんだ。ジャンルには固執しないだろ。そう言ってなかった?」
「言われました。だから余計に、難しくて」
 やりたいことを諦めるほどの価値が自分にあるとは思えない。早坂に諭すように言われ、氷川は視線を落とした。
「うん。そうやって考えて、氷川くんが自分で決めるのが、あいつか一番納得のいく、喜ぶことだと思うよ」
 向井がぽんと氷川の肩を叩いた。
「悩めよ。少年」

 まだ明るい内に入場し、ステージ左手のスタンド席に着いた。数万人を収容できるアリーナは、八割程度埋まっているようだ。四連番の座席は、聞けば元々は向井と早坂、大友と千葉のものだったという。橘たちの手元にあった何組ものチケットを上手く融通し合い、足りない分は調達して、四連番は氷川と橘、向井と早坂の席になった。アリーナ後方で大友と千葉が手を振る。向かいの上手側スタンドの前方でも大きく手を振る人たちがいて、橘はあれが前に一緒に組んでた人たちだよと教えてくれた。元々は彼らと見る予定だったらしい。申し訳ないことをした。
 定刻きっかりに暗転すると、客席が沸いた。ダンスビート調の登場SEの間に下がったテンションは、第一音と共に破裂して、大歓声が途切れる。なによりもその悲鳴の大きさと高さに驚いているうちに、スクリーンが上がった。
 歌が、特別上手いとは思わない。
 ギターが、際立って素晴らしい、とも思わない。
 ドラムがベースが、目を見張るほど優れているわけでもない。
 それでも、たった五人でアリーナを統制する様は圧巻だった。
 気付けば息を呑んで、ステージを凝視していた。トラブルにざわめいても、なんなく乗り越えて、ボーカルは腕を上げるだけで客席を支配する。そう、支配だ。どこかローテンションでのんびりした曲間のトークや、男にしては妙に可愛らしい所作とは裏腹に、彼らは場を支配していた。
 橘は、こんなことをしろと、こんなものになれと、そう言うのか。
 氷川はごくりと唾を飲んだ。
 場内が明るくなって、銀テープが舞う。もう、ライブも終盤だ。ぴったりのタイミングでジャンプする観客らが座席を揺らす。不安定な足元に怯えたわけではないが、氷川は橘に肩をぶつけた。アリーナの観客が銀テープを持った手を挙げると、光を写して揺らめく様が、夜の海のようだった。
 ビジュアル系はアイドルに近いものだと思っていた。実際、客席の男女比率を考えれば、それは間違っていないだろう。だが、これはアイドルのコンサートではない。ロックバンドの、会場を制圧するような圧倒的なライブだ。
 こんな景色を、自分は橘に見せることができるのだろうか。
 彼の隣にいて。ここまで、行けるのだろうか。
 突発的なトリプルアンコールで会場中を燃焼させ、客席灯がついたのは十九時だった。まだ、学校では文化祭の準備をしているだろう時間だ。ぐったりと席に座り込んだ氷川の肩を叩いて、橘がアリーナを指差した。
「銀テ拾ってくるね! そしたらご飯食べて帰ろう!」
「俺らの分もよろしく」
 向井が橘に手を振る。それに頷いて、橘が階段を下りていった。観客達はほとんどがまだ帰ろうとしない。この空間を惜しむように足を止めている。
 前情報まるでなしでもわかった。今日見たバンドは何年も活動していなくて、そしてこれからも活動の見通しが立っていないこと。これだけの人数を動員できるのに、これだけの人に心を寄せられているのに、ステージ上の彼らさえ慈しむように曲を奏でていたのに、ままらないということ。会場警備スタッフと話す橘の横顔を見ながら、氷川は隣に座る人物を呼んだ。
「向井さん、俺、今日、ここに来て良かったんですか?」
「なんで?」
「だって、まるで部外者ですし」
「それが後ろめたいんだ?」
「ええ、少し」
 向井が氷川を覗き込んで、目を細めた。彼は仙台で会った時と同じように、パンクな服装だ。じゃらじゃらとウォレットチェーンやネックレスをつけていて、動くと金属が擦れ合う音が聞こえる気さえする。それは他の観客たちとどこか似た雰囲気で、彼の装いはこの界隈としてはそう奇異なものではないらしい。派手な人々の中で、氷川ばかりが場違いなように感じる。
「真面目だな。それ言ったら祐也だって音源揃えてないし、俺らさえリアルタイム世代じゃないのに。全然知らなくても、感じるものはあったでしょ」
「はい。凄かったです」
「ああ。そうやって何か受け取れたなら、それで充分だよ」
 言い聞かせるような向井の言葉に、氷川は頷いた。
「お待たせ! 貰ってきたよ」
 アリーナから戻ってきた橘が、きらきら光る銀テープを向井と早坂、そして氷川にも手渡してくれる。観客が持ち帰って保管することを前提に、印字されたテープをそっと巻いて、鞄に落とした。
「ありがとう」
「どういたしまして。さ、大友さんたちと合流して、夕飯食べて帰ろ」
「前のバンドのメンバーさんは?」
「他の仲間と打ち上げするって。本当は氷川くん紹介したかったけど、また今度ね」
 パーカーを着込んだ橘は、やはり少し残念そうだ。だからといって謝るのも違う気がして、氷川は了承だけを告げる。
「そっか。じゃあ、行こう」
「うん。どこで合流します?」
「駅でいいだろ」
「凄い人混みだし、無理だろ。店決めて現地集合のほうがマシだ」
 向井の提案に呆れた表情で早坂が言う。実際、待ち合わせをするには向かない程度には人が多いだろう。都内に向かう列車も混雑しているに違いない。
 まだ観客の残る会場を後にして、明るくて人の多い夜道を歩く。見回してみると確かに、大人の女性が多い。昼間は年齢層を気にしなかったが、服装こそ若いものの、おそらく二十代半ばから三十代くらいだろう、きちんとした大人たちだ。それが、ライブのどこが良かった、どこが良くなかった、あそこがひどかった、と幸せそうに語り合っている。
 混雑する上りではなく、下りのホームで列車を待つ。未成年が二人いるため、ファミリーレストランでも見繕おうという話にまとまったらしい。予約をしていないので、空いているだろう場所を探すのだ。
 下り方面に数駅戻った駅の近くのファミリーレストランで大友と千葉と合流し、夕食を摂った。千葉は大泣きしたらしく化粧崩れを気にしていたけれど、とても幸せそうだった。その席で彼らに聞いた件のバンドの経緯は、根の深そうな人間関係のトラブルの図式で、橘の言葉の意味をようやく知った。奇跡のようなもの――確かにそうだった。
 彼らと別れ、学院の地元に戻った頃には門限の二十三時まで二十分もない時刻になっていた。バス停から学院までの街路灯に照らされた夜道をゆっくり歩く。
「氷川くん、今日はつきあってくれてありがとう」
 少し掠れた声で、橘が言う。酷使した首が痛いのか、首筋に手を当てて、やけに姿勢良く歩いている。
「こちらこそ、いいライブ見せてもらったよ。思ってたより全然、ロックバンドだったし」
「そうかな。楽しんでもらえたなら、嬉しいよ」
 笑った橘が、痛そうに顔をしかめる。忙しないが、痛みばかりはどうしようもないものだ。そして彼は物言いたげに氷川を見て、口を閉ざした。何を言いたいのか、何を聞きたいのか、分かるような気はした。
 ねえ、どう思った。ビジュアル系をやってもいい気になった?
 まだバンドをやるかどうかも決めていない。とてもやれる気がしない。
 聞こえない問いかけへの返答を飲み込んで、氷川は空を見上げた。頭上には月のない星空が広がっていた。

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