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橘祐也
文化祭 2:橘の昔なじみ
しおりを挟む文化祭が行なわれていても寮の食堂が開いているのは、文化祭に参加せずに勉強する最上級生のためだという。国内有数の進学校には、イベントにうつつを抜かしている時間もないような生徒もいるし、勉強のほうが楽しいからとイベントごとに不参加を決め込む生徒もいる。そんな彼らのおかげで、氷川達は落ち着いて食事を摂ることができていた。
橘の前の仲間達とは、寮の入口で合流した。学生寮は原則女人禁制で、母親や姉妹ですら入館は許されないから、彼らのファンが入ってくることはないだろう。学校関係者以外は、男性であっても身分証明書の提示が必須という厳格なセキュリティに助けられた。
小柄なボーカリストが佐竹、長身のギタリストが江上、ベーシストが今川、ドラマーは田原と名乗った。今川は大学受験を控えて息抜き、田原は内定が得られてようやく一息着けた所らしい。
唐揚げ定食をつつきながら、今川が思い出したように橘に視線を向けた。
「そういえばさ、やっぱりいたよ」
「会った?」
主語がなくとも通じたらしく、ほうれん草のクリームペンネにフォークを刺したままで橘が訊ねる。今川と田原が頷いた。
「ああ。皆さんいるってことは本当なんですねーとか言われてさ。ただ遊びに来ただけって可能性も考えろっつうの」
田原が忌々しそうに魚のフライに割り箸を刺す。料理に罪はないから許してあげて欲しい。
「誰?」
佐竹の問いに、今川が何人かの名前を挙げる。名前を聞いて、佐竹が顔をしかめた。居心地悪くグラタンをつついていると、隣に座った江上が腕に触れた。
「悪いな、内輪の話してて。見学してたらうちの常連……毎回来てた子たちに会っちゃって」
「橘くんを見に来る女の子がいるってことですか?」
「そういうこと。祐也から聞いたかもしれないけど、まあ……ちょっと変わった文化圏にいたからさ。悪いけど、氷川くんも絡まれるかも。悪気はあるだろうけど、適当に流してやってよ」
「……努力しますね」
悪気はあるのか。仮にもファン相手に酷い言いぐさだ。呆れを隠して答えると、それでも伝わったのか、江上が苦笑した。
「祐也のファンはおっとりした子や姉みたいに見守るスタンスの子が多いからいいんだけど、佐竹さんのファンは過激だからねえ」
水を向けられて、佐竹がサラダから箸を離した。行儀良く箸袋で作った箸置きに箸を置いて、江上と橘を順に見てから、氷川に視線を向けた。童顔に浮かぶ苦笑いの表情が可愛らしい。
「ごめんね、僕のせいで」
「佐竹さんのせいではないでしょう」
本心から伝えると、彼はでも、と口ごもる。田原が嘆息した。
「要するにさ、うちの中で一番最初に動きがあったのが祐也だから、皆して見定めに来るわけよ。で、佐竹さんのファンとしちゃあ、祐也が選んだ奴が佐竹さんと比べてどんなか、気になって仕方がないと」
「ありそうな話ですね」
げんなりするが、本当にどこにでもあるような話だ。今川が唐揚げに箸を突き刺した。
「高校生の文化祭バンドに、見定めるも何もないだろうにね」
忌々しげに吐き捨てる今川の台詞は、確かにその通りだ。気を遣ってくれていることも分かる。しかし、なんとなく面白くない。適当に同意の相槌を打って、グラタンを掬った。他人事のような態度が気になったのか、佐竹が生姜焼きを飲み込んで氷川を覗き込んだ。
「氷川くんも音楽やってたりした?」
「いいえ。どうしてですか?」
「落ち着いてるから、経験者かなって」
「落ち着いてますかね」
言われて少し考えてみるが、そんな自覚はない。そわそわしているし、緊張もしている。もう一口とグラタンを掬うと、ベシャメルソースに溶けたチーズが細く伸びた。
「うん。いくら文化祭でも、初ステージ前に平然とご飯食べるんだもん、凄いよ。僕なんてお腹痛くてなんにも食べれなかったし」
「ああ、そういうのはないですね。音楽というか、コンクールには何回か出たことがあるんです」
「そうなんだ、ピアノとか?」
「合唱ですね。小中と四年くらい、学校の合唱部に入ってて」
言い止して、氷川はつきそうになった溜息を呑み込んだ。あまりいい思い出ではない。活動は楽しかったけれど、辞めた経緯が良くなかった。
――男のくせに合唱なんて。
――気持ち悪い。
嫌な記憶がふわりと浮上する。それを抑え込んで、パンをグラタン皿の上で千切った。佐竹がなるほどねと納得した風に言う。
「そうだったんだ。声変わりで辞めたの?」
「そんな感じです。なので、人前に出るのはまあ、苦手ですけど、未経験でもないんです。落ち着いて見えるとしたらそのせいでしょうね」
「それ、俺聞いてない」
隣に座った橘が、きのこをフォークで掬いながら唇を尖らせる。首を傾げると、彼はフォークを置いた。
「合唱やってたって、知らなかった」
「言ってなかったからね。でも、ボーカル経験ないのは本当だし、独唱でもないよ」
「それでも、言ってくれたらよかったのに。音楽の授業だけで身につく発声じゃないとは思ったけど」
悔しそうに橘が顔をしかめる。そんなに無念がることがあっただろうか。不可解に思いつつ、橘に向き直った。
「ごめんね。なんか、恥ずかしくて」
「どうして? 何も恥ずかしくないよ」
「ちゃんと音楽やってる人に、昔ちょっとだけ合唱を囓ったことがあります、なんて言いづらくてさ」
本音を嘘で綺麗にコーティングして、贈り物のように差し出す。
言わなかった理由は、思い出したくなかったからだ。けれど、引きずり出された過去は、思うほど氷川に痛みをもたらさなかった。時間が傷を癒やしたのかもしれない。
橘は息を吐いて、投げ出したフォークを持ち直した。
「まあ、それならそれでいいけど。実はピアノが弾けるとか、ギターが弾けるとかあったら今言ってね。音楽関係で隠し事したら怒るからね」
じっとりした視線を注いだまま、彼らしくない重い声音で宣言されて、氷川はこくこくと頷いた。橘は怒らせると案外怖そうだと、初めて知った。
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