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橘祐也
打ち上げ 1
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打ち上げ会場に着いた氷川と戸田は、佐竹たちのきょとんとした顔に迎えられた。
「あれ、アキくんじゃん?」
田原が戸田を見つめたまま、不思議そうに言う。アキって誰だろう、考えながら、氷川は彼らに会釈した。
「お邪魔します。こちら、さっきドラム叩いてくれた戸田くんです」
「橘くんの友達で、サポートでドラム叩きました戸田秋典です。ええと……ご記憶いただいて光栄です。お久しぶりです。皆さんお元気そうで何よりです。押しかけてすみません」
「いや、うん、久しぶり。座って。戸田くんとアキくん、どっちで呼ぶ?」
「呼びやすいほうで大丈夫です。お邪魔します」
戸惑いながら、隣の空席を示す佐竹に従って、戸田がそちらに腰掛ける。困惑のまま固まった氷川に、江上が指で自分と今川の間を示した。
「まあ座って」
「ありがとうございます。戸田くんとお知り合いだったんですか?」
「だったみたい。よくライブやインストアイベントに来てくれてたんだよ。祐也の友達なのも知ってたけど、まさかあそこでドラム叩いてたのがそうとはね」
ジョッキを空けて、江上が苦笑する。お冷やを持ってきた店員に、烏龍茶二つと生ビール三つを頼んだ。氷川と戸田、江上と佐竹と田原の分だ。今川の烏龍茶はまだ半分くらい残っている。
「そういえば、皆さんどのあたりにいたんですか? 最前列にはいませんでしたよね」
「ああ、七列目くらいにいたけど、見つからなかった?」
「すみません、余裕がなくて探せませんでした」
一応フロア全体や橘たちの様子は見ていたが、個別の顔を見分けて探すことまではできなかった。できたのは、楽しんでくれている人と、つまらなさそうな人を見分け、冷めた顔をしている人に目を合わせることくらいだ。それさえ、必死だったから記憶は曖昧だが。
「そりゃそうだ。落ち着いてたし、よく頑張ってた。ああいうところでバラード唄える度胸は大したもんだ」
田原が軽やかに笑って、氷川の背中を軽く叩く。既にアルコールが回っているのか、テンションが高い。冷たい水を飲んで、氷川はそっと胸を抑えた。その時は勢いだけで乗り切ったが、今思い出すと眩暈がしそうだった。
「七列目くらいだと、あんまり見えないんですか?」
「いや、全然よく見えるよ。ただアキくん女装してたし、明るい所に出てこなかったから気付かなかったけど」
江上が苦笑して、出汁巻き卵をつまむ。確かに、橘は膝上丈のチェックのスカートを履き、肩下丈のウィッグを被っていた。実はノーメイクで、胸も平らだったが、薄暗がりの中では分からなかっただろう。そこまで考えて、氷川は江上をじっと見上げた。
「あの、江上さん」
「うん、どうかした。なにか注文する?」
「いえ、お知り合いだと気付いてなかったなら、戸田くんを呼んだのはどうしてですか?」
本当はもう少し、婉曲な訊き方もあっただろうが、酒席ならば多少不調法でも許されるのではと言う算段が働いた。直球で問いかけた氷川に、江上が目を細めた。
「どうしてだと思う?」
「……うちに、女生徒がいないのはご存知ですよね……?」
「もちろん」
ええと、と言葉に詰まる氷川を見下ろして、田原が江上の腕を叩いた。
「こら、いじめんな。上手かったからに決まってんだろ」
「……ですよね」
安堵と共に、弱い声でこぼす。そうであって欲しかったが、否定されたら色々な意味で立ち直れなかった。江上と田原がからからと笑い、今川も失笑した。戸田と佐竹は二人だけで盛り上がっている――というか、戸田が嬉しそうに佐竹に話しかけている。
唐揚げをつまんで、氷川は佐竹に視線を向けた。童顔で、橘よりもやや小柄な佐竹も、戸田と並ぶときちんと大人の男に見える。髪は黒く短く、ラフな服装と相まって休日の社会人という感じだ。
「不勉強で申し訳ないんですけど、佐竹さんってどんなボーカルさんだったんですか?」
「んー、妖艶系?」
首を捻った今川が、目を眇めて疑問系で形容詞を上げる。妖艶系とはどんなものだ。氷川の乏しい知識ではマドンナしか浮かばない。妖艶、と鸚鵡返しに口にした氷川に、江上が苦笑した。
「ラストライブの映像、記録映像だけど公開してるから、良かったら見てみて。アドレスは祐也が知ってるから」
「ありがとうございます。すみません、ビジュアル系はあまり知らなくて」
「うん、見るからに。アキくんの女装びっくりした? あれもそれ系といえばそうだけど」
「驚きました。歌舞伎みたいですね」
「伝統芸能ではないけどね」
烏龍茶とビールがやって来た。運んでくれた店員に、おにぎりセットを追加注文する。戸田と話していた佐竹が、揚げ蕎麦二人前!と付け加えた。
「揚げ蕎麦ってなんですか?」
驚いた顔で、戸田が訊ねる。佐竹が話の腰を折ってごめんねと謝ってから、唇に笑みを掃いた。
「乾麺の蕎麦をそのまま揚げたやつ。美味しいんだよ」
「パスタフリットみたいな感じですか?」
「うん。あのね、実は現役の間はセーブしてて。やめて半年で三キロも増えちゃったんだよね……だから本当はまずいんだけど、でも美味しいから教えてあげたくて」
佐竹が哀愁を漂わせながら腹部を撫でる。真っ平らにしか見えないのに、悲しいことがあったようだ。戸田が不服そうな声を上げて、眉を寄せた。
「全然変わってないですよ」
「顔につかなかったからね。君たちも気をつけなさい、大人になって気を抜くと一気にくるよ。露出の多い衣装が着れなくなるからね」
露出とは。腹や足を出す予定は、今までもこれからもない。しかし、佐竹はとても真剣な表情で、氷川と戸田に言う。大真面目な佐竹に釣られて、氷川と戸田は神妙にうなずいた。今川と田原が複雑そうに顔を見合わせる。今川が烏龍茶を舐めて、でもさ、と推し量るように口を開いた。
「君たち今高二なんでしょ? 来年は受験、四年後は就活。生きてるだけで忙しいよ」
諦めることを決めた人が、寂しそうに告げる。彼の向かいに座る田原も、同じく手放すことを決めた人物だ。そして戸田の隣にいる佐竹もまた、この地を離れた。受験、就職活動、そして転勤。生きていく上で必須の、あるいは仕方のないイベントで、ハードルだ。寂しげな田原が手にしたビアグラスから、水滴が滑り落ちて彼の手を濡らす。
「両立は楽じゃない。想像よりもずっと、大変なことだ」
「そうだね、予め覚悟は必要かもしれない。諦めることを決めておくか、貫くことを決めておくか。二人とも、大学進学組なんでしょう?」
佐竹の問いを、氷川と戸田は揃って首肯する。戸田の家業や将来の展望は知らないが、何かしら定められた道筋があるのかもしれない。氷川自身、旧帝国大学までは期待されていなくとも、それなりに名前の通った大学の経済系の学部を卒業しなければならない。父が氷川に求めているのは、会計事務所の跡を継ぐこと、ただそれだけだ。とはいえ、会計士試験は難関で、言うほど容易くはないのだが。
音楽をやろうとも思っていない。しかし、彼らの忠告は何にでも当てはまるだろう。水を差すことはせずに、氷川は目礼した。
「ご忠告、ありがとうございます」
「考えておきますね」
ゲスト二人のトーンの落ちた返答に、年長者達が少々気まずそうに視線を交わす。江上が氷川の腕を叩いた。
「まあ、そう考え込むな。好きなこと、楽しいことに打ち込めるのも若い内の特権だよ。どっかで時計の針が回ってんのを意識しとけば、そうそう間違えない」
「間違えた結果が江上だもんな」
田原のからかうような言葉に、江上が顔をしかめる。
「間違えてないし。テックだって立派な仕事!」
「水商売に近いけどな」
「そんなん言ったら大手の版元だって水物だし」
表情ほど腹を立ててはいない声で江上が反駁する。だが、テックとはなんだろう、というか、江上は何をしている人なんだろう。考えてみれば、真っ当そうな黒髪の三人と異なり、江上だけは髪色が明るく、丈もミディアムでふわっとセットしていて、堅気っぽくはない。疑問が喉の辺りを浮き沈みする。考えながらおにぎりを囓った。海苔がぱりっとしていて美味しい。
「どうした、考え事か?」
江上とは逆隣に座った今川に訊ねられて、氷川はそちらに視線を向けた。未成年の彼は大人しく刺身をつついている。言い合う江上と田原の耳をはばかって、氷川は囁き声で話した。
「江上さんって学生さんと社会人さんどっちなのかな、ってのと、テック、ってなんなのかな、って考えてました」
彼らにとっては常識だろう疑問を口にしても、今川は笑うこともなく頷くだけだった。
「なるほど。テックはテクニシャン、ローディー、要するに楽器の面倒を見るスペシャリストってとこかな。ライブやレコーディングで欠かせない裏方。で、江上くんの身上はなあ……江上くんって今、専門生だよね?」
じゃれ合うような口喧嘩をものともせずに、今川が江上に確かめる。ぱちりと目をまたたき、江上が端的に答えた。
「そう。なんで?」
「氷川くんが知りたがってるから」
「ああ、そうか、言わなかったか。俺は音楽系の専門学校だよ、今二年生」
「音楽大学ではないんですね?」
「違う。専門学校は技術を習得する場所。大学は理論から勉強する場所、かね。質が違うんだよ」
軽い調子で説明して、江上がビールを飲む。しかし、音楽系の専門学校を卒業したからと言って、音楽で食べていけるとは思えない。介護や自動車の整備士のような専門職とは異なる業界だろう。裏方系ならばまだしも、表舞台は勉強したから立てるものではない。そんな疑問が顔に出たのだろう、江上は唇を歪めた。
「趣味や教養で稽古事に通ったりする程度の代物だけどね、友達できるし、その意味では悪くないよ」
「じゃあ、やっぱり、そこに通ったらミュージシャンになれる、とかは」
「ないよ。あるわけない。基礎を習って、人脈を広げるために通うだけ」
江上はいっそ冷淡なくらい容赦なく切り捨てて、チーズカツをつまんだ。目を丸くする氷川に、今川が苦笑する。
「専門卒のミュージシャンだってそりゃいるし、中で組んだバンドでいいとこ行けてる人だっている。でも、専門辞めた人も、そもそもそんなの行かなかった人も大勢いるんだ。わかってても、何か足がかりにしたくて行ってみる人もいるって所かな」
「メイクやエンジニアは技術職だから、習う価値はなくもないだろうがな。作曲だって理論や技術である程度のものは作れるけど、ある程度でしかないのものは、最低限にも売れない」
田原が肩をすくめてみせる。彼らは現実を知っている。だから、こんなにもシビアなのだろう。このテーブルを囲んでいるのは、夢見ることを諦めた大人達だ。江上の選科は知らないが、きっと同じなのだろう。それは寂しく、やるせないが、しかし社会で生きていく上で仕方がないことなのだろう。
沈んだ表情になってしまっただろう氷川を見て、佐竹が表情を崩した。
「悲しい顔しないで。僕は脱サラしてまで続けるほど、自信がなかった。田原と今川に覚悟決めろって言えるほど、確信がなかった。それだけのことなんだよ」
「佐竹さん……でも」
「プロになれなくても、趣味で続けていくことは出来る。音楽はそういうものだから、悲しいことじゃない。皆ともずっと友達だし。やれるだけのことはやったから、後悔はしてないんだ。ただ先達として、君たちも少しでも悔いの少ない道を進んで欲しくて、お説教しちゃっただけ。ああ、恥ずかしいな」
佐竹が頬を押さえて、通りすがりの店員に、生ビール追加!と叫んだ。
「あれ、アキくんじゃん?」
田原が戸田を見つめたまま、不思議そうに言う。アキって誰だろう、考えながら、氷川は彼らに会釈した。
「お邪魔します。こちら、さっきドラム叩いてくれた戸田くんです」
「橘くんの友達で、サポートでドラム叩きました戸田秋典です。ええと……ご記憶いただいて光栄です。お久しぶりです。皆さんお元気そうで何よりです。押しかけてすみません」
「いや、うん、久しぶり。座って。戸田くんとアキくん、どっちで呼ぶ?」
「呼びやすいほうで大丈夫です。お邪魔します」
戸惑いながら、隣の空席を示す佐竹に従って、戸田がそちらに腰掛ける。困惑のまま固まった氷川に、江上が指で自分と今川の間を示した。
「まあ座って」
「ありがとうございます。戸田くんとお知り合いだったんですか?」
「だったみたい。よくライブやインストアイベントに来てくれてたんだよ。祐也の友達なのも知ってたけど、まさかあそこでドラム叩いてたのがそうとはね」
ジョッキを空けて、江上が苦笑する。お冷やを持ってきた店員に、烏龍茶二つと生ビール三つを頼んだ。氷川と戸田、江上と佐竹と田原の分だ。今川の烏龍茶はまだ半分くらい残っている。
「そういえば、皆さんどのあたりにいたんですか? 最前列にはいませんでしたよね」
「ああ、七列目くらいにいたけど、見つからなかった?」
「すみません、余裕がなくて探せませんでした」
一応フロア全体や橘たちの様子は見ていたが、個別の顔を見分けて探すことまではできなかった。できたのは、楽しんでくれている人と、つまらなさそうな人を見分け、冷めた顔をしている人に目を合わせることくらいだ。それさえ、必死だったから記憶は曖昧だが。
「そりゃそうだ。落ち着いてたし、よく頑張ってた。ああいうところでバラード唄える度胸は大したもんだ」
田原が軽やかに笑って、氷川の背中を軽く叩く。既にアルコールが回っているのか、テンションが高い。冷たい水を飲んで、氷川はそっと胸を抑えた。その時は勢いだけで乗り切ったが、今思い出すと眩暈がしそうだった。
「七列目くらいだと、あんまり見えないんですか?」
「いや、全然よく見えるよ。ただアキくん女装してたし、明るい所に出てこなかったから気付かなかったけど」
江上が苦笑して、出汁巻き卵をつまむ。確かに、橘は膝上丈のチェックのスカートを履き、肩下丈のウィッグを被っていた。実はノーメイクで、胸も平らだったが、薄暗がりの中では分からなかっただろう。そこまで考えて、氷川は江上をじっと見上げた。
「あの、江上さん」
「うん、どうかした。なにか注文する?」
「いえ、お知り合いだと気付いてなかったなら、戸田くんを呼んだのはどうしてですか?」
本当はもう少し、婉曲な訊き方もあっただろうが、酒席ならば多少不調法でも許されるのではと言う算段が働いた。直球で問いかけた氷川に、江上が目を細めた。
「どうしてだと思う?」
「……うちに、女生徒がいないのはご存知ですよね……?」
「もちろん」
ええと、と言葉に詰まる氷川を見下ろして、田原が江上の腕を叩いた。
「こら、いじめんな。上手かったからに決まってんだろ」
「……ですよね」
安堵と共に、弱い声でこぼす。そうであって欲しかったが、否定されたら色々な意味で立ち直れなかった。江上と田原がからからと笑い、今川も失笑した。戸田と佐竹は二人だけで盛り上がっている――というか、戸田が嬉しそうに佐竹に話しかけている。
唐揚げをつまんで、氷川は佐竹に視線を向けた。童顔で、橘よりもやや小柄な佐竹も、戸田と並ぶときちんと大人の男に見える。髪は黒く短く、ラフな服装と相まって休日の社会人という感じだ。
「不勉強で申し訳ないんですけど、佐竹さんってどんなボーカルさんだったんですか?」
「んー、妖艶系?」
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「うん、見るからに。アキくんの女装びっくりした? あれもそれ系といえばそうだけど」
「驚きました。歌舞伎みたいですね」
「伝統芸能ではないけどね」
烏龍茶とビールがやって来た。運んでくれた店員に、おにぎりセットを追加注文する。戸田と話していた佐竹が、揚げ蕎麦二人前!と付け加えた。
「揚げ蕎麦ってなんですか?」
驚いた顔で、戸田が訊ねる。佐竹が話の腰を折ってごめんねと謝ってから、唇に笑みを掃いた。
「乾麺の蕎麦をそのまま揚げたやつ。美味しいんだよ」
「パスタフリットみたいな感じですか?」
「うん。あのね、実は現役の間はセーブしてて。やめて半年で三キロも増えちゃったんだよね……だから本当はまずいんだけど、でも美味しいから教えてあげたくて」
佐竹が哀愁を漂わせながら腹部を撫でる。真っ平らにしか見えないのに、悲しいことがあったようだ。戸田が不服そうな声を上げて、眉を寄せた。
「全然変わってないですよ」
「顔につかなかったからね。君たちも気をつけなさい、大人になって気を抜くと一気にくるよ。露出の多い衣装が着れなくなるからね」
露出とは。腹や足を出す予定は、今までもこれからもない。しかし、佐竹はとても真剣な表情で、氷川と戸田に言う。大真面目な佐竹に釣られて、氷川と戸田は神妙にうなずいた。今川と田原が複雑そうに顔を見合わせる。今川が烏龍茶を舐めて、でもさ、と推し量るように口を開いた。
「君たち今高二なんでしょ? 来年は受験、四年後は就活。生きてるだけで忙しいよ」
諦めることを決めた人が、寂しそうに告げる。彼の向かいに座る田原も、同じく手放すことを決めた人物だ。そして戸田の隣にいる佐竹もまた、この地を離れた。受験、就職活動、そして転勤。生きていく上で必須の、あるいは仕方のないイベントで、ハードルだ。寂しげな田原が手にしたビアグラスから、水滴が滑り落ちて彼の手を濡らす。
「両立は楽じゃない。想像よりもずっと、大変なことだ」
「そうだね、予め覚悟は必要かもしれない。諦めることを決めておくか、貫くことを決めておくか。二人とも、大学進学組なんでしょう?」
佐竹の問いを、氷川と戸田は揃って首肯する。戸田の家業や将来の展望は知らないが、何かしら定められた道筋があるのかもしれない。氷川自身、旧帝国大学までは期待されていなくとも、それなりに名前の通った大学の経済系の学部を卒業しなければならない。父が氷川に求めているのは、会計事務所の跡を継ぐこと、ただそれだけだ。とはいえ、会計士試験は難関で、言うほど容易くはないのだが。
音楽をやろうとも思っていない。しかし、彼らの忠告は何にでも当てはまるだろう。水を差すことはせずに、氷川は目礼した。
「ご忠告、ありがとうございます」
「考えておきますね」
ゲスト二人のトーンの落ちた返答に、年長者達が少々気まずそうに視線を交わす。江上が氷川の腕を叩いた。
「まあ、そう考え込むな。好きなこと、楽しいことに打ち込めるのも若い内の特権だよ。どっかで時計の針が回ってんのを意識しとけば、そうそう間違えない」
「間違えた結果が江上だもんな」
田原のからかうような言葉に、江上が顔をしかめる。
「間違えてないし。テックだって立派な仕事!」
「水商売に近いけどな」
「そんなん言ったら大手の版元だって水物だし」
表情ほど腹を立ててはいない声で江上が反駁する。だが、テックとはなんだろう、というか、江上は何をしている人なんだろう。考えてみれば、真っ当そうな黒髪の三人と異なり、江上だけは髪色が明るく、丈もミディアムでふわっとセットしていて、堅気っぽくはない。疑問が喉の辺りを浮き沈みする。考えながらおにぎりを囓った。海苔がぱりっとしていて美味しい。
「どうした、考え事か?」
江上とは逆隣に座った今川に訊ねられて、氷川はそちらに視線を向けた。未成年の彼は大人しく刺身をつついている。言い合う江上と田原の耳をはばかって、氷川は囁き声で話した。
「江上さんって学生さんと社会人さんどっちなのかな、ってのと、テック、ってなんなのかな、って考えてました」
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「なるほど。テックはテクニシャン、ローディー、要するに楽器の面倒を見るスペシャリストってとこかな。ライブやレコーディングで欠かせない裏方。で、江上くんの身上はなあ……江上くんって今、専門生だよね?」
じゃれ合うような口喧嘩をものともせずに、今川が江上に確かめる。ぱちりと目をまたたき、江上が端的に答えた。
「そう。なんで?」
「氷川くんが知りたがってるから」
「ああ、そうか、言わなかったか。俺は音楽系の専門学校だよ、今二年生」
「音楽大学ではないんですね?」
「違う。専門学校は技術を習得する場所。大学は理論から勉強する場所、かね。質が違うんだよ」
軽い調子で説明して、江上がビールを飲む。しかし、音楽系の専門学校を卒業したからと言って、音楽で食べていけるとは思えない。介護や自動車の整備士のような専門職とは異なる業界だろう。裏方系ならばまだしも、表舞台は勉強したから立てるものではない。そんな疑問が顔に出たのだろう、江上は唇を歪めた。
「趣味や教養で稽古事に通ったりする程度の代物だけどね、友達できるし、その意味では悪くないよ」
「じゃあ、やっぱり、そこに通ったらミュージシャンになれる、とかは」
「ないよ。あるわけない。基礎を習って、人脈を広げるために通うだけ」
江上はいっそ冷淡なくらい容赦なく切り捨てて、チーズカツをつまんだ。目を丸くする氷川に、今川が苦笑する。
「専門卒のミュージシャンだってそりゃいるし、中で組んだバンドでいいとこ行けてる人だっている。でも、専門辞めた人も、そもそもそんなの行かなかった人も大勢いるんだ。わかってても、何か足がかりにしたくて行ってみる人もいるって所かな」
「メイクやエンジニアは技術職だから、習う価値はなくもないだろうがな。作曲だって理論や技術である程度のものは作れるけど、ある程度でしかないのものは、最低限にも売れない」
田原が肩をすくめてみせる。彼らは現実を知っている。だから、こんなにもシビアなのだろう。このテーブルを囲んでいるのは、夢見ることを諦めた大人達だ。江上の選科は知らないが、きっと同じなのだろう。それは寂しく、やるせないが、しかし社会で生きていく上で仕方がないことなのだろう。
沈んだ表情になってしまっただろう氷川を見て、佐竹が表情を崩した。
「悲しい顔しないで。僕は脱サラしてまで続けるほど、自信がなかった。田原と今川に覚悟決めろって言えるほど、確信がなかった。それだけのことなんだよ」
「佐竹さん……でも」
「プロになれなくても、趣味で続けていくことは出来る。音楽はそういうものだから、悲しいことじゃない。皆ともずっと友達だし。やれるだけのことはやったから、後悔はしてないんだ。ただ先達として、君たちも少しでも悔いの少ない道を進んで欲しくて、お説教しちゃっただけ。ああ、恥ずかしいな」
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