嘘の多い異邦人と面倒見の良い諦観者たち

村川

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橘祐也

顔合わせ

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 氷川が考えていた以上に橘は本気だったらしく、その週末にはメンバーを確保して、次の週末のスタジオまで押さえていた。なんでも、以前のバンドで懇意にしていた練習スタジオらしい。
 十時からの予約の前に顔合わせをということで、朝九時に待ち合わせできるよう、早朝に寮を出た。氷川と橘の他に、戸田も一緒だ。いつ、どういう流れでそうなったのか知らないが、ごく当たり前に一緒に組むことになっていた。不満はない。
 バスと電車を乗り継いで、武蔵野市まで出る。ここも二十三区外だが、普段生活している学院周辺よりは格段に開けていて、人が多い。待ち合わせたチェーンのコーヒーショップの窓際席に江上ともう一人の姿を見つけて、窓の前で足を止める。橘がこんこんと窓を叩くと、彼らは顔を上げた。こちらを認めて苦笑した後、江上の連れが親指で店の入口を示す。入ってこい、の合図だ。
「学生の懐を安く見てるな……」
 引きつった笑顔で、橘が氷川と戸田を振り返る。戸田は江上の連れを見て、頬を朱に染めていた。また知っている人だったらしい。
「とりあえず入ろう。本日のコーヒーで粘ろうよ」
 橘と戸田の肩を押し、店内の二人に目礼してから、出入り口に向かった。日曜日の朝、ショップの開店時間よりも早いからか、店内は空いていた。ドリップコーヒーを購入して、江上たちのテーブルへ向かう。歩み寄ると、江上の連れがひらひらと手を振った。肩下まで伸ばした明るい茶色の髪を緩く結んだ、痩身の青年だ。年齢は江上よりもやや上だろうか、柔和な顔立ちだが、お世辞にも真面目そうには見えない。
 五人でテーブルを囲み、江上と橘が目配せし合う。そして橘が片手を軽く開いた。
「梨野さん、こちら、俺の同級生の氷川泰弘くんと、戸田秋典くんです。二人とも、彼は梨野良平さんだよ」
 簡潔な紹介を受けて、挨拶と握手を交わす。梨野は外見とは異なり、がっしりとした硬い手をしていた。彼はそこそこ名前の知れたバンドのローディーを勤めているらしい。
「ま、勉強させて貰ってるってとこかな」
 謙虚に笑う表情も優しそうで、強張っていた肩から力が抜けるのを感じた。
 大まかな話は聞いてるけど、と前置きして、コンセプトは、具体的な活動計画は、と話を進める。中心になるのが橘と江上で、的確に質問を差し挟んでいくのは梨野だ。経験の乏しい戸田と氷川はほとんど聴衆と化していた。
 一年でワンマンライブ、二、三年でフルアルバムと全国ツアー。絵空事のような単語が、チェーンのカフェのありふれたテーブルの上を行き交っている。大まかな活動計画――というより、目標だろうか――を定めてから、梨野が江上と橘と戸田を順に見遣った。
「で、さ。ビデオ見たけど、同期なしでいくの? 今時、完全同期なしはきついよ、音がスカスカなの皆慣れてないから、飽きられやすい」
 同期とは、同期演奏、打ち込み、シーケンスと呼んでいる類いのもので、楽器の生音以外に、予め用意した音をコンピューターで制御して流すものを示す。ギターとベースしか弦楽器がないのに、ピアノやストリングスやホーンなどが聞こえることがあれば、それが同期だ。基本的にドラマーが管理して流すので、この場合は戸田の仕事になる。体育館ではそんなものを流す設備は用意できなかったので、どこも生演奏で勝負していた。
 カフェオレを舐めていた戸田が、カップを置いてにこりと微笑んだ。
「見ていただいた映像は文化祭の余興みたいなものだったので同期なしでしたけど、そういう環境じゃなければあったほうがいいですよね。使えますよ」
「戸田くんって言ったね、バンド経験は?」
「部内だけですが、近所のライブハウスに出させて貰うこともありますし、そういう時は同期も使ったことがありますよ」
「そっか、じゃあ完全に未経験なのはそっちの、氷川くん? だけ?」
 梨野の瞳が横に滑って、氷川を捉える。虹彩と瞳孔の境界がはっきりした茶色の瞳が、値踏みするような色を帯びる。氷川は唇の端を上げた。
「はい。お荷物でしょうけど、追いつけるように頑張りますのでご指導ください」
「ふうん……俺のこと知らないのに、謙虚だね」
「橘くんと江上さんが頼んだ方なら、確かでしょうから」
 皮肉に聞こえないように気をつけながら応えると、梨野は楽しそうに表情を和らげた。
「うん、信頼関係があるなら何よりだ。じゃあ早速だけど、君は専門の先生に師事して鍛えて貰いなさい。あと毎日、三十分から一時間は走り込みをすること。筋トレも、腹筋背筋は毎日三百回を目標に、三十回から。腕立て伏せは百回を目標に、五回から。今日帰ったら始めること。身体が出来れば声量も上がるし、ボーカルは体力ないと使えないからね」
 なかなか厳しい身体作りの指導に、氷川は目をまたたいた。そういう方向から来られるとは思っていなかった。実際、話を受けてから、腹筋と背筋は日課にしてはいたが。
「専門の先生って、ボイストレーニングですよね、お勧めはありますか?」
「学校の先生でいいんじゃないの? そこの声楽部、成績良くて有名だし。ロックは専門外だろうけど、基礎くらいは習えるでしょ」
 梨野がこともなげに言う。当然のように言い放つが、部活動の顧問がそう簡単に、部外者の個人レッスンを受け持ってくれるとは思えない。
「オペラみたいな歌い方が身についたらどうするんですか」
「それはそれで悪くないな。1/fゆらぎを出せるようになったら完璧」
「訓練で出るようになるものなんですか?」
「どうだろう」
 氷川の問いに、梨野が首を傾げる。髪が一筋さらりと流れた。冗談のようなやりとりに、江上と橘が可笑しそうに肩を揺らす。戸田が気を惹くようにテーブルを指でつついた。
「声楽部の先生が駄目だったら、軽音部の先生に相談してみるよ。指導の頼りにはならないけど、口添えくらいはしてくれると思う」
「うん、その時はよろしくね」
「よし、じゃあどうしようもなかったら俺らのツテでどうにかするから、まずは身近な範囲で探してね。それとさ、そっち二人は作曲できるの?」
 話がまとまったと見て取って、江上が話を切り替えた。四本の指で、氷川と戸田を示す。氷川はかぶりを振った。戸田も首を横に振って、てのひらを顔の前で広げた。
「考えたこともないです」
「僕も作曲はしたことないですし、できる気がしないです」
「そっか、まあそんなもんだよな」
 江上があっさりと理解を示す。見るからに役立たずですみませんと縮こまった氷川と戸田に、梨野が笑い声を漏らした。橘が慰めるように、氷川の肩に肩を触れさせる。
「そのうち、できるようになったらやればいいんだよ。なんかフレーズ思いついた、みたいなレベルからさ。俺だって最初はそうだったし、作っても没ばっかり喰らったし」
「そうそう、それに必ずしも作曲できなきゃってわけじゃないから。三人いればそれなりにバリエーションできるし、コンポーザーが増えて採用率が下がったら、印税も減るし」
「気が早いぞ」
 にこやかに言う梨野に、江上が呆れたように切り返す。梨野が目を細めた。
「何言ってんの、そうなる気概と確信があって俺を誘ったんでしょ?」
「それは、そうだけど」
 梨野の鋭い声色にたじろいだように、江上が言葉を濁す。その視線が迷うように氷川と戸田に向けられて、氷川は緩く唇を噛んだ。プレッシャーを与えないように気遣われるのは、客人扱いのようで居心地が悪い。確かに氷川は誘われて頷いた側だが、ただ御輿に乗るだけの飾りになりたいと思ったわけではない。やりたいと、その衝動だけは自分の内側からもわき上がったものなのだから。
 氷川は目を閉じ息を吐いてから、梨野を見据えた。
「梨野さん」
 呼びかけると、強い意志を宿した瞳が氷川に向けられる。橘が戸惑うように氷川の腕に触れる。その手にてのひらを重ねて、唇に笑みを掃いた。
 諦めるために走るつもりはない。期限を区切るのは見切りを付けるためだが、最初から終わらせるために全力疾走できるほど、達観できてはいない。可能性があるからこそ、走るのだ。
「俺たちもそのつもりです。一緒に行きましょう」
「曲も作れないくせに強気だね。いいよ、悪くなさそうだ」
 驚いたように目を見張った梨野が、にやりと唇を歪める。それは優しそうな顔立ちや雰囲気にそぐわない、勝ち気な表情だった。
「改めてよろしく、氷川、戸田」
 穏やかな声が、情熱を宿して掠れる。真剣さの増した声と、距離の消えた呼び名に、氷川は頬を緩めた。戸田が嬉しそうに、はい、と応じる。氷川は座り直して頭を下げた。
「よろしくお願いします」

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