嘘の多い異邦人と面倒見の良い諦観者たち

村川

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橘祐也

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 氷川の父は、どこにもでもいるような家庭を顧みない仕事人間だった。繁忙期には仕事でほとんど家におらず、余裕がある時期でも会合だのセミナーだのでやはり家にいない。会計士の誰もがそうではないと今は知っているが、氷川にとってはやはり父のイメージが強い。
 求められる仕事であることは理解している。けれど自分は、ああはなりたくない。
 そんな氷川の心境を多少なりとも察する所があったのか、橘が困ったように指を組み合わせた。
「そっか……音楽で生計立てられたとしても、やっぱりプライベートなんてろくにないだろうから、こっちにしときなよ、とは言えなくなっちゃったな」
「そっか、同じなんだね」
「ん。仕事なら義務だから、楽しいだけじゃいられないし……それは、なんであってもね。だったら俺は、一番好きな、心底やりたいことを仕事にしたいって思ったんだけど」
「それが、音楽?」
「そう。氷川くんと、音楽やりたい、バンドやりたい。駄目かな」
 熱を孕んだ希求に、唾を飲んだ。
「……俺も、橘くんとやるの楽しかったよ。だけど」
 真剣だというならばなおさら、楽しかっただけでは決められない。ぐずぐずと言葉に迷ってコーヒーカップを揺らす。橘が細く息を吐いて座り直す。大きな茶色の瞳が、探るように氷川を見つめた。そして慎重に予防線を張り巡らせる。
「もちろん、無条件で人生を預けて欲しいなんて言わない。大学出るまでに生計を立てられる見通しが立たなかったら、諦める。なんなら氷川くんのご両親の説得もするよ。だから高校の一年半と大学の四年、俺に貸してくれない?」
 橘の声はどこまでも優しく穏やかなのに、奇妙なほど甘い。いっそ蠱惑的なほどの誘惑にぐらつきながら、なおも二の足を踏むのは、覚悟を問われていると理解できていたからだ。
 わかっていた。氷川のためらいは、自分自身の怯懦きょうだ所以ゆえんしている。
 暴言への恐怖は、彼の隣にいて一度も現実になってはいないというのに、それでもこの足を竦ませる。宴席や路上ライブ、文化祭といった、その時の勢いで押し通せるものごとなら、まだいい。嘲られたら二度とやらない、という逃げを打てる。しかし、橘の誘いはそういった自棄でこなせるものではない。責任が生ずれば、安易に逃亡さえ出来ない。そうして悪意に怯んで喉が閉じてしまえば、更なる醜態を晒すことになる。一度経験した負の連鎖への恐怖は、なかなか癒えてくれなかった。
「橘くんは、どうしてそんなに音楽が好きなの?」
 返答を引き延ばすような問いかけに、答えを急かすことなく、橘はくるりと目を回した。思い出すように、考えるように口を閉じ、瞼を半ば下ろす。
「そうだなあ……ギターを始めたのは辰彦さんの影響だよ。小さい頃って無条件に年上がやってることに憧れるでしょ? 俺もやりたいって言ったら、使ってない、安いギターをくれてね、基礎も教えてもらって。でも、バンド組みたいって思ったのは、こっちに来てからだったんだよね。中一の三月にあの地震と津波があって、それから、かな」
 頭の中で話を組み立てながら、橘がゆっくりと言葉を選んでいく。冷めたカフェラテを舐めるように飲みながら、氷川は橘の声に耳を傾けた。
 ――お偉い学者や思想家は、押しつけがましく音楽の力を語り、実際にそれで生活しているミュージシャンは音楽の無力さを嘆く。確かに、音はただの振動でしかなく、物理的な力は、大きな災害、惨劇の前では無に等しい。押し寄せる泥水や土砂をどうすることもできない。けれど、人の心ならば動かすことが出来る。寄り添い、励まし、慰め、勇気を鼓舞する力がある。
 常の彼よりもいささか皮肉っぽさの滲む声で話し、彼はだから、と言葉を繋いだ。
「俺自身が救われたから、そういう風に在ることに憧れたんだ。烏滸おこがましいかもしれないけど、でも、俺は信じてるんだよ。音楽は人を救える。幸せにするパワーがあるって」
 渇いた喉を潤すように、橘がカップの中身を減らす。
 それこそ雑誌のコピーにでもなっていそうな台詞に、氷川は何も言えずに橘を見返した。彼は甘いコーヒーをペーパーで拭ってから、その唇に笑みを掃いた。予言めいた、確信に満ちた声が、その唇からそっと滑り出す。言い淀むことすらなく、橘は断定した。
「氷川くんの歌には、力があるよ。埋もれさせたままにしておくのは勿体ないって、俺は思ってる。ねえ、氷川くんが何に悩んでるか、何を不安に思ってるか、教えてよ」
 カップを離れた手が、コースターに縋る指先に触れる。橘の手は熱く、少しだけ震えていて、彼が見た目と異なりとても緊張していることを知った。橘の情熱に延焼させられて、身体の内側が焼けるような錯覚に陥る。氷川はそっと、燻された息を吐いた。
「……俺、合唱やってた話、したよね」
 もう痛みさえなく、傷痕に触れられる。それなのにどうしてか、話そうとすると喉が引きつった。橘がうん、と頷いて続きを促した。
「やめたの、声変わりのせいじゃないんだ。気持ち悪い、って言われて……それを思い出すと、声がまともに出なくなった。変声期ってことにして、逃げたんだ」
 この話は、誰にも言ったことがない。些細なことだと励まされるのが怖かった。そう思う程度にはくだらないことだと理解してなお、切り裂かれた傷が苦しかった。だからずっと、音楽はただ、受け取るだけの接触しかしてこなかったのだ。それなのにこうやって引きずり出されるのだから、因果なものだ。
「……今でも、思い出すと、声が出なくなる?」
「分からない。文化祭の時は、ならなかった」
 沈痛な面持ちで訊ねた橘に、氷川はかぶりを振った。それでも彼の表情は晴れない。
「そっか……嫌な思い、したね。理不尽なこと言われたんだね、つらかったね、氷川くん。でもさ、分かってるんでしょ。気持ち悪くなんてないよ。すっごく、綺麗だよ」
 硬い指先が、ぎゅっと指の背を掴む。一般的な距離を逸脱した接触に、他のテーブルや通行人の目が気になったが、振りほどく気にはならなかった。ぬるい体温に、切実な心情が滲んでいたからかもしれない。
「今は、もう、歌うことは好きじゃない?」
 不安げに問われて、氷川は何も考えずに否定を口にしていた。
「好きだよ。考えたことなかったけど、やってみてわかった」
 橘の隣で声を出した時、彼の書いた曲を練習している時、当たり前に呼吸がしやすかった。音の中でメロディに声を乗せると、楽しくて嬉しくて胸が躍った。あの興奮と歓喜を、好きと言わなければ、好きなものなど存在しない。
 氷川の返答に、橘の指がわななく。体温が上がって、すがるように力が強くなかった。
「だったら……ねえ、俺と一緒にやろうよ」
 懇願にも似た、切実なほどに真摯な誘いが鼓膜を震わせる。世界が閉ざされるような錯覚の中で、氷川は呼吸を止めた。
 ここまで言われて、自身も同じ望みを抱いていると気付いていて、首を横に振れる人間はいない。

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