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神森竜義
文化祭のあとに
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その日は昼前まで陽介の相手をし、午後からは両親と紗織の案内で一日が過ぎた。とはいえ、父は担任の夏木を捕まえて話し込み、紗織は途中から声楽部の発表を観に行ってしまったため、半分は母と各教室を練り歩いたわけだが。
そうして文化祭は盛況の内に幕を下ろし、後夜祭もつつがなく終了した。
その振替休日の十一月五日、氷川は自室で勉強を進めていた。文化祭の準備期間中は、最低限の予習をするのが精一杯で、ろくに勉強できなかった。定期考査は来月の上旬実施でまだ一ヶ月あるが、頻繁に行なわれる小テストは待ってくれない。それに加えて、学業外の勉強もある。
氷川は随分と開いていなかったテキストを開いていた。やる気になったのは、文化祭で父と話す機会があったお陰だ。自分でも安易だとは思うが、それなりに気に掛けて貰えていたと思えば、期待されたレールに従うことへの抵抗感は薄れた。ままならない息子に手を焼いて、目に届かない場所に放り込んだわけではないと、そう信じたくなったのはおそらく、この学院で過ごした期間が精神を癒やしてくれたからだろう。
呼吸を整えて雑念を払い、ページをめくる。半年以上手をつけていなかったせいで、上手く頭に入らない。それでもどうにか過去に学んだ知識や感覚を取り戻そうと励んでいたが、ノックの音に集中が途切れた。
この部屋に来客があるのは珍しい。連絡事項はメールやインターネットの連絡網サービスを活用することが多いし、部屋に遊びに来るような友人もいない。一体誰だろうかと考えながら、テキストにしおりを挟んで席を立った。
はい、と応じて扉を開く。普通の住宅や集合住宅ならば不用心でできないが、この寮は出入りが管理されているので、警戒の必要は乏しい。そうして開いた戸口には、意外な人物の姿があった。
「神森くん……どうしたの」
「突然お邪魔してすみません」
「いや、大丈夫。入る? お茶もないけど」
戸口で立ち話もなんだしと促すと、神森は迷った末に頷いた。
「お邪魔します」
「どうぞ、適当にベッドにでも座って」
本当に適当にとしかいいようのない室内を見回して、神森は大人しくベッドに腰掛けた。
「綺麗ですね」
「物が少ないからね。掃除はしないと落ち着かないからしてるだけ」
「備え付けの家具だけなんですね。一人部屋なら、家具や家電を持ち込んでいるかと思っていました」
「そういう考えはなかったなあ。いつまで一人部屋かも分からないし」
「確かに、そうですね」
妙な時期に転入したせいで、予備の部屋を一人で使っているが、来年度にどうなるかは予測不可能だ。納得したのか、神森はそこで口を閉じた。備え付けの椅子に腰掛け、氷川は神森に向かい合った。
「今日はどうしたの、抜き打ち検査?」
「いいえ。陽介さんから伝言と、質問を預かってきました」
神森の再従兄の陽介は、昨日の朝、帰って行った。たまたま朝食の際に居合わせたので、そのまま見送り、流れで礼も言われたのにまだ何かあるのかと驚いた。
「なんて?」
「案内ありがとう、お世話になりました、竜義をよろしく、だそうです」
「それを本人に伝えさせるあたりが凄いな」
「まったくです。それから、宿泊券は寮とご実家、どちらに送付すればいいのか、と」
「ああ、あれ本当だったんだ」
その場の社交辞令だとばかり思っていたが、どうやら本当に招待してくれるらしい。そんな義理もないので、ありがたい以上に申し訳ない。しかしここで神森経由で断るのもおかしな話なので、素直に受け取るほうが無難だ。
「じゃあ、寮でお願いします、って伝えてくれる? 如水学院学生寮A棟909B号氷川泰弘宛で」
「わかりました。陽介さんがご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「迷惑なんて思ってないよ。こちらこそ、一緒に回れて楽しかった、って伝えて貰っても?」
「もちろんです。今、メールしておきます」
失礼、と断って神森がスマートフォンを取り出す。それを操作し始める神森から視線を外して、机の上を整える。開きっぱなしのノートや、咄嗟に置いたペンなどを見苦しくない程度に揃える。どうせ勉強を再開すれば散らばるので、気分的なことだ。簡単な作業はすぐに終わり、顔を上げると、神森も連絡を済ませた様子で氷川を見ていた。
「メールは送っておきました」
「ありがとう。陽介さんっていい人だね、話してても楽しかったし、兄弟校ってのを差し引いても、京都からわざわざ来てくれたんでしょ? 俺は親戚付き合いがあんまりないから、ちょっと羨ましいな」
兄弟校の豊智学院は神戸にあるが、陽介は京都の自宅から通学しているらしい。あちらは寮はあるものの、全寮制ではない。
それはさておき、身内は褒めておくに限る、そんな打算混じりに陽介への評価を告げると、神森は何故か眉を曇らせた。絶賛したのは意図的なものだが、嘘ではない。叔父との面識もろくにないレベルなので従兄弟や再従兄弟とはすれ違っても気付かないだろうが、陽介のような人物が身内にいたなら親しくしたいと思ったはずだ。
「それも伝えておきましょうか」
いささか暗い声で訊ねる神森に、氷川は眉を寄せた。
「言わなくていいけど……ごめん、おかしなことを言ったかな」
「そんなことはありません」
「言いたくなかったらいいんだけど、陽介さんと何かあったの?」
踏み込みすぎだろうかと考えつつ問いかける。神森は困ったように首筋を手を置いた。
「何か、というほどのことは……ただ、あまりに出来た人なものですから、彼を見ていると、自分ももっと精進しなくては襟を正したくなるんです」
苦笑いのわりに、相変わらず暗い声で神森が言う。言葉よりも強い屈折の気配に、氷川は軽く頷いた。同い年の身内となると、他人が思うよりも難しいこともあるのだろう。
「俺には神森くんも全然、出来た人に思えるけどな」
そんな風に濁した氷川に、神森は目を見張った。唇がわなななき、小さく息を吐く。ありがとうございますと軽く頭を下げてから、彼は仕切り直すように話題を変えた。
「勉強のお邪魔をしてしまいましたね。何の教科ですか?」
ベッドから立ち上がった神森が、氷川の隣に立つ。そして机を覗き込んで、え、と声を漏らした。
「会計学?」
テキストの表紙に書かれたままを読み上げる神森は、それがなんなのか分かっていない風だ。氷川は彼を見上げて、端的に答えた。
「簿記の科目だよ」
「簿記……受験対策ですか?」
「いや、普通に資格。しばらくサボってたから、取り返したくて勉強始めたんだよ」
半年という長い期間を、しばらくという単語で誤魔化した氷川に、神森は何故か感心したような視線を向けた。
「凄いですね。僕なんて学校の勉強も覚束ないのに」
「褒めてもらえるほど大したものじゃないよ。どうせ後々必要になる勉強だから、できる時にやってるだけ」
肩をすくめた氷川が、手振りでベッドを示すと、彼は大人しく座り直した。すぐ隣に立たれる威圧感から開放されて、こっそり息を吐く。そんな氷川の様子を気にせず、神森は小さく首を傾げた。
「氷川くんは、もう将来を決めているんですか」
その問いに、氷川は苦笑を浮かべる。この学院に通う生徒で、将来が決まっていない者は少ない。神森だって実家の料亭を継ぐのだろうし、野分も実家の企業に入るだろう。多くの生徒が、家督を継ぐ、官僚になる、政治家になる、そんな将来を当たり前に決めて生きている。氷川がその一人であっても意外性はないはずだ。
「決めてるっていうか、父の事務所を継いで会計士に、と言われてはいるよ」
そう答えると、神森は会計士、と口の中で繰り返した。
訝しげな表情から推察するに、神森はおそらく、会計士がどんなものかはよく知らないだろう。料亭や旅館の経営者が士業に世話になることはあっても、現時点の神森には縁遠い話のはずだ。逆にだからこそ、簡単にそれを口に出せた。最難関資格と表されることもあるそれを既定コースのように言えば、場合によっては反感を買う。氷川にとっては、父も祖父もしている仕事なので、理が非でもならなければならない道でしかないが、他者にはそんな家庭内の事情は無関係なのだから。
氷川は軽く肩をすくめ、テキストの表紙を撫でた。
「別に大学でも卒業してからでも勉強できるけど、前倒しして悪いことはない、って事務所で働いてる人も言ってたからね」
「そうでしたか。それで、簿記の勉強も」
「通り道だからね」
「凄いですね、僕は数字を見ているとうんざりしてしまいます」
苦く笑う神森は、どこまで本音か分からないことを言う。生徒会の仕事で、会計役員の橘ほどではなくとも予算や決算書類などを確かめる機会があるだろうに。
「ま、得手不得手と経験じゃない? 俺は料理なんて全然したことないし、無理だから、神森くんが魔法みたいにご飯作ってくれたの感動したしさ」
「そんなにお褒めいただくほどの腕前ではありませんが……経験は、確かにそうですね」
謙遜なのかどうか、神森は簡単に言う。そして腰を上げた。
「長々とお邪魔してしまってすみません。そろそろ失礼します」
「ああ、うん。お構いもしませんで失礼しました」
流れで慣用句を口にすると、神森が可笑しそうに笑みを漏らした。
神森を見送って、部屋の鍵を閉める。ただの習慣だが、閉じた空間にほっとした。どうも自分は相変わらず、一人の時間が好きらしい。溜息と深呼吸の中間のような息を吐いて、机に戻った。陽介に言及した時の神森の様子は少し気になったが、氷川が不躾に訊ねていいことでもないだろう。身内の問題はややこしい。
少なくとも嫌っている様子では、なかったが。
まとわりつく思考を振り払うように軽く頭を振り、氷川はテキストを開いた。
陽介からの手紙は、その週の内に届いた。蜻蛉とススキの柄の透かしが入った和紙の二重封筒に、達筆な毛筆で氷川泰弘様と表書きされていて、格式の高さを思わせる。中の便箋は同じ柄が薄い色で印刷されたもので、こちらはボールペンで書かれた丁寧な文字が並んでいた。
頭語から始まり、時候の挨拶、過日の礼、同封物の説明、挨拶文、結語とお手本のような手紙だ。謹啓、謹言なんて自分宛の手紙では初めて見た。これが同い年の高校生が書いたものかと思えば、神森の言葉が理解できた気になってしまう。確かにこれは、襟を正さねばと思わされる。
そして同封されていたのは、人数指定のない宿泊招待券だった。ご一行様、一泊二食無料宿泊券。時期は一月中旬から二月下旬となっている。受験シーズンと重なりそうだが、そうそう受験生が泊まれるような宿ではなさそうだ。
それにしてもと、便箋に視線を落とす。竜義をよろしくお願いします、という文言は、同い年の再従弟の同期生に対して用いるに適切なのだろうか。考えながら、氷川は財布を手に取った。礼状を送るために、レターセットと切手を調達しなければならない。
身支度をしながら、ふと、卓上に置いた宿泊券に目をやる。美しい写真を用いた、上質紙の招待状。これは両親に予定を聞いてみるのが無難だとして。
「冬の京都か……」
氷川は小さく呟き、失笑した。
冬の京都は凍えるほど寒いだろう。けれど、きっと、とても美しいだろう。
そうして文化祭は盛況の内に幕を下ろし、後夜祭もつつがなく終了した。
その振替休日の十一月五日、氷川は自室で勉強を進めていた。文化祭の準備期間中は、最低限の予習をするのが精一杯で、ろくに勉強できなかった。定期考査は来月の上旬実施でまだ一ヶ月あるが、頻繁に行なわれる小テストは待ってくれない。それに加えて、学業外の勉強もある。
氷川は随分と開いていなかったテキストを開いていた。やる気になったのは、文化祭で父と話す機会があったお陰だ。自分でも安易だとは思うが、それなりに気に掛けて貰えていたと思えば、期待されたレールに従うことへの抵抗感は薄れた。ままならない息子に手を焼いて、目に届かない場所に放り込んだわけではないと、そう信じたくなったのはおそらく、この学院で過ごした期間が精神を癒やしてくれたからだろう。
呼吸を整えて雑念を払い、ページをめくる。半年以上手をつけていなかったせいで、上手く頭に入らない。それでもどうにか過去に学んだ知識や感覚を取り戻そうと励んでいたが、ノックの音に集中が途切れた。
この部屋に来客があるのは珍しい。連絡事項はメールやインターネットの連絡網サービスを活用することが多いし、部屋に遊びに来るような友人もいない。一体誰だろうかと考えながら、テキストにしおりを挟んで席を立った。
はい、と応じて扉を開く。普通の住宅や集合住宅ならば不用心でできないが、この寮は出入りが管理されているので、警戒の必要は乏しい。そうして開いた戸口には、意外な人物の姿があった。
「神森くん……どうしたの」
「突然お邪魔してすみません」
「いや、大丈夫。入る? お茶もないけど」
戸口で立ち話もなんだしと促すと、神森は迷った末に頷いた。
「お邪魔します」
「どうぞ、適当にベッドにでも座って」
本当に適当にとしかいいようのない室内を見回して、神森は大人しくベッドに腰掛けた。
「綺麗ですね」
「物が少ないからね。掃除はしないと落ち着かないからしてるだけ」
「備え付けの家具だけなんですね。一人部屋なら、家具や家電を持ち込んでいるかと思っていました」
「そういう考えはなかったなあ。いつまで一人部屋かも分からないし」
「確かに、そうですね」
妙な時期に転入したせいで、予備の部屋を一人で使っているが、来年度にどうなるかは予測不可能だ。納得したのか、神森はそこで口を閉じた。備え付けの椅子に腰掛け、氷川は神森に向かい合った。
「今日はどうしたの、抜き打ち検査?」
「いいえ。陽介さんから伝言と、質問を預かってきました」
神森の再従兄の陽介は、昨日の朝、帰って行った。たまたま朝食の際に居合わせたので、そのまま見送り、流れで礼も言われたのにまだ何かあるのかと驚いた。
「なんて?」
「案内ありがとう、お世話になりました、竜義をよろしく、だそうです」
「それを本人に伝えさせるあたりが凄いな」
「まったくです。それから、宿泊券は寮とご実家、どちらに送付すればいいのか、と」
「ああ、あれ本当だったんだ」
その場の社交辞令だとばかり思っていたが、どうやら本当に招待してくれるらしい。そんな義理もないので、ありがたい以上に申し訳ない。しかしここで神森経由で断るのもおかしな話なので、素直に受け取るほうが無難だ。
「じゃあ、寮でお願いします、って伝えてくれる? 如水学院学生寮A棟909B号氷川泰弘宛で」
「わかりました。陽介さんがご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「迷惑なんて思ってないよ。こちらこそ、一緒に回れて楽しかった、って伝えて貰っても?」
「もちろんです。今、メールしておきます」
失礼、と断って神森がスマートフォンを取り出す。それを操作し始める神森から視線を外して、机の上を整える。開きっぱなしのノートや、咄嗟に置いたペンなどを見苦しくない程度に揃える。どうせ勉強を再開すれば散らばるので、気分的なことだ。簡単な作業はすぐに終わり、顔を上げると、神森も連絡を済ませた様子で氷川を見ていた。
「メールは送っておきました」
「ありがとう。陽介さんっていい人だね、話してても楽しかったし、兄弟校ってのを差し引いても、京都からわざわざ来てくれたんでしょ? 俺は親戚付き合いがあんまりないから、ちょっと羨ましいな」
兄弟校の豊智学院は神戸にあるが、陽介は京都の自宅から通学しているらしい。あちらは寮はあるものの、全寮制ではない。
それはさておき、身内は褒めておくに限る、そんな打算混じりに陽介への評価を告げると、神森は何故か眉を曇らせた。絶賛したのは意図的なものだが、嘘ではない。叔父との面識もろくにないレベルなので従兄弟や再従兄弟とはすれ違っても気付かないだろうが、陽介のような人物が身内にいたなら親しくしたいと思ったはずだ。
「それも伝えておきましょうか」
いささか暗い声で訊ねる神森に、氷川は眉を寄せた。
「言わなくていいけど……ごめん、おかしなことを言ったかな」
「そんなことはありません」
「言いたくなかったらいいんだけど、陽介さんと何かあったの?」
踏み込みすぎだろうかと考えつつ問いかける。神森は困ったように首筋を手を置いた。
「何か、というほどのことは……ただ、あまりに出来た人なものですから、彼を見ていると、自分ももっと精進しなくては襟を正したくなるんです」
苦笑いのわりに、相変わらず暗い声で神森が言う。言葉よりも強い屈折の気配に、氷川は軽く頷いた。同い年の身内となると、他人が思うよりも難しいこともあるのだろう。
「俺には神森くんも全然、出来た人に思えるけどな」
そんな風に濁した氷川に、神森は目を見張った。唇がわなななき、小さく息を吐く。ありがとうございますと軽く頭を下げてから、彼は仕切り直すように話題を変えた。
「勉強のお邪魔をしてしまいましたね。何の教科ですか?」
ベッドから立ち上がった神森が、氷川の隣に立つ。そして机を覗き込んで、え、と声を漏らした。
「会計学?」
テキストの表紙に書かれたままを読み上げる神森は、それがなんなのか分かっていない風だ。氷川は彼を見上げて、端的に答えた。
「簿記の科目だよ」
「簿記……受験対策ですか?」
「いや、普通に資格。しばらくサボってたから、取り返したくて勉強始めたんだよ」
半年という長い期間を、しばらくという単語で誤魔化した氷川に、神森は何故か感心したような視線を向けた。
「凄いですね。僕なんて学校の勉強も覚束ないのに」
「褒めてもらえるほど大したものじゃないよ。どうせ後々必要になる勉強だから、できる時にやってるだけ」
肩をすくめた氷川が、手振りでベッドを示すと、彼は大人しく座り直した。すぐ隣に立たれる威圧感から開放されて、こっそり息を吐く。そんな氷川の様子を気にせず、神森は小さく首を傾げた。
「氷川くんは、もう将来を決めているんですか」
その問いに、氷川は苦笑を浮かべる。この学院に通う生徒で、将来が決まっていない者は少ない。神森だって実家の料亭を継ぐのだろうし、野分も実家の企業に入るだろう。多くの生徒が、家督を継ぐ、官僚になる、政治家になる、そんな将来を当たり前に決めて生きている。氷川がその一人であっても意外性はないはずだ。
「決めてるっていうか、父の事務所を継いで会計士に、と言われてはいるよ」
そう答えると、神森は会計士、と口の中で繰り返した。
訝しげな表情から推察するに、神森はおそらく、会計士がどんなものかはよく知らないだろう。料亭や旅館の経営者が士業に世話になることはあっても、現時点の神森には縁遠い話のはずだ。逆にだからこそ、簡単にそれを口に出せた。最難関資格と表されることもあるそれを既定コースのように言えば、場合によっては反感を買う。氷川にとっては、父も祖父もしている仕事なので、理が非でもならなければならない道でしかないが、他者にはそんな家庭内の事情は無関係なのだから。
氷川は軽く肩をすくめ、テキストの表紙を撫でた。
「別に大学でも卒業してからでも勉強できるけど、前倒しして悪いことはない、って事務所で働いてる人も言ってたからね」
「そうでしたか。それで、簿記の勉強も」
「通り道だからね」
「凄いですね、僕は数字を見ているとうんざりしてしまいます」
苦く笑う神森は、どこまで本音か分からないことを言う。生徒会の仕事で、会計役員の橘ほどではなくとも予算や決算書類などを確かめる機会があるだろうに。
「ま、得手不得手と経験じゃない? 俺は料理なんて全然したことないし、無理だから、神森くんが魔法みたいにご飯作ってくれたの感動したしさ」
「そんなにお褒めいただくほどの腕前ではありませんが……経験は、確かにそうですね」
謙遜なのかどうか、神森は簡単に言う。そして腰を上げた。
「長々とお邪魔してしまってすみません。そろそろ失礼します」
「ああ、うん。お構いもしませんで失礼しました」
流れで慣用句を口にすると、神森が可笑しそうに笑みを漏らした。
神森を見送って、部屋の鍵を閉める。ただの習慣だが、閉じた空間にほっとした。どうも自分は相変わらず、一人の時間が好きらしい。溜息と深呼吸の中間のような息を吐いて、机に戻った。陽介に言及した時の神森の様子は少し気になったが、氷川が不躾に訊ねていいことでもないだろう。身内の問題はややこしい。
少なくとも嫌っている様子では、なかったが。
まとわりつく思考を振り払うように軽く頭を振り、氷川はテキストを開いた。
陽介からの手紙は、その週の内に届いた。蜻蛉とススキの柄の透かしが入った和紙の二重封筒に、達筆な毛筆で氷川泰弘様と表書きされていて、格式の高さを思わせる。中の便箋は同じ柄が薄い色で印刷されたもので、こちらはボールペンで書かれた丁寧な文字が並んでいた。
頭語から始まり、時候の挨拶、過日の礼、同封物の説明、挨拶文、結語とお手本のような手紙だ。謹啓、謹言なんて自分宛の手紙では初めて見た。これが同い年の高校生が書いたものかと思えば、神森の言葉が理解できた気になってしまう。確かにこれは、襟を正さねばと思わされる。
そして同封されていたのは、人数指定のない宿泊招待券だった。ご一行様、一泊二食無料宿泊券。時期は一月中旬から二月下旬となっている。受験シーズンと重なりそうだが、そうそう受験生が泊まれるような宿ではなさそうだ。
それにしてもと、便箋に視線を落とす。竜義をよろしくお願いします、という文言は、同い年の再従弟の同期生に対して用いるに適切なのだろうか。考えながら、氷川は財布を手に取った。礼状を送るために、レターセットと切手を調達しなければならない。
身支度をしながら、ふと、卓上に置いた宿泊券に目をやる。美しい写真を用いた、上質紙の招待状。これは両親に予定を聞いてみるのが無難だとして。
「冬の京都か……」
氷川は小さく呟き、失笑した。
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