嘘の多い異邦人と面倒見の良い諦観者たち

村川

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神森竜義

三学期 1

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 私立如水学院は進学校だが、情操教育を重視する観点から学力に偏らない教育を施している。そうはいっても高等科三年生になれば問答無用で大学受験用の勉強を叩き込まれるらしいが――高等科二年生の時点では、芸術科目も選択必修に含まれる。芸術科目は美術、書道、音楽、工芸から一科目選択で、週に二コマ、二時間制だ。その中から、氷川は書道を選択していた。子供の頃も書道教室には通っていたし、音楽や造形などよりは筆と墨のほうがよほど扱いやすい。
 授業と授業の合間にある休憩時間になって、氷川は教室内をくるりと見回した。書道を取っている知人友人は少なくない。クラスメイトでも文月を筆頭に数人がすぐ隣や前後の席にいるし、他クラスでも挨拶する程度の知人はいたが、今探しているのは一人だけだ。その人物の姿を窓際の席に見つけて、氷川は椅子を立った。
「神森くん」
 声を掛ける前から、彼はこちらに気付いていたはずだ。閉め切った窓の外は曇天のためか夕方に近い薄暗さで、ガラスには室内の様子がうっすらと映っている。窓に視線を向けていた神森が、ゆっくりと振り向いた。
「こんにちは、氷川くん」
「今日、何書いた?」
 先週、年明け最初の書道の授業では書き初めを書かされた――さすがに書道の課題は出されなかった――が、今日は自由題材だった。墨場必携からの引用に限らず、好きなものを持って来いと言われて、生徒銘々好みの作品を用意していた。
 神森の前に置かれた半紙には、やや細めの筆跡で“求仏施功早晩成。”と書かれていた。
「証道歌です。禅の……考え方を書いたもの、と言うと少し違うのですが、それが分かりやすいでしょうか」
 考えをまとめるようにゆっくり話して、神森が目を伏せた。
「佛を求め功を施さば早晩いつか成ぜん、と読みます。精進すればいつか悟りが開ける、という意味合いだと僕は解釈しています」
 悟りね、と氷川は胸の内で繰り返す。在家僧侶すら身内にいない氷川には理解できない世界だが、仏教などは修行のうちに料理も含まれるというし、神森には近しい文化なのかもしれない。氷川はあえて困惑と無理解を隠さず、苦笑を作った。
「ごめん、俺にはちょっと難しい話だった」
「構いません、僕にも禅は理解できませんから。この前に執着を捨てて精進すれば、と入りますが、悟りたいと考え、精進することが執着になりそうだと思えてしまうくらいで。氷川くんは何を題材にしましたか?」
 話題を世間話にスライドさせて、神森が氷川を見上げる。氷川は肩をすくめた。
「俺は神森くんと違って教養ないからね、西風の賦から一文引いただけ」
「冬来たりなば、春遠からじ、ですか?」
「そう。毎日寒いから、ついね。ま、寒いお陰で頭が冴えるってのもあるんだろうけど」
 氷川の言葉に、神森が用心深く、わずかに目を細める。氷川は何気なさを装って笑みを深めた。そして、高低差があるせいで見下ろす角度の神森に、首を傾げてみせる。
「橘くんと野分くんは課題テストの出来栄え良かったらしいよ、神森くんはどうだった?」
 神森がぴくりと眉を動かした。この話が本題で、ここまでが前置きだったと察したのだろう。不愉快そうな表情をすぐに消して、彼は困ったような笑みを作った。
「僕はいつも通りですよ。可もなく不可もなく、です」
「そうなんだ……期末は頑張ってたけど、今回はよかったの?」
 神森のいつも通りは、平均点前後を指す。飛び抜けて良くはないが、悪くもない、というラインだ。二学期の期末考査では努力が実って、平均よりも高い点数を取り、学年順位も普段よりも高かった。それはあの期末考査一回だけの結果でいいのだろうか。無論、評定は期末考査に依存する割合が高いはずだが、だからといって普段の小テスト等がどうでもいいものでもないだろうに。
 困惑半分、残念な思い半分で訊ねた氷川に、神森が苦い表情で首肯した。
「いいんです、僕のような凡庸な人間が寸分を惜しんで勉強した所で、結果はさして変わりません。やってもやらなくても同じなら、人様のお手を煩わせ、苦しい思いをしたくはありません」
 淡々と自身を卑下する神森に、氷川は眉をひそめた。神森が凡庸ならば、世界の九割超の人間はそれ以下ということになりかねないが、口には出さない。そんな揚げ足を取るのもためらわれるくらい、神森の雰囲気は余裕がないものだった。
「不躾なの承知で訊くけど、誰かに何か言われでもしたの?」
 そう問いかけると、神森が息を吐くように失笑した。
「本当に不躾ですね、あなたらしくない」
 詰る声音には鋭さがなく、かといって普段のように穏やかに凪いでもいない。
 神森にどんな理由があろうと、他人の事情だ。無遠慮に踏み込むのが良策とは言えない。だが、どうしても気に掛かるのだ。自分程度では烏滸がましいとしても、彼を心配しているのだと、認めないわけにはいかなかった。
「そうかもね、でも気になるんだよ、二学期は一緒に勉強した仲だし……頑張ったら、結果はついてきたでしょ? 勿体ないよ」
「あの程度の結果では、意味がありません」
「そんなことない、きちんと続ければ、努力に見合う成果が出るはずだよ。神森くんのこの字、凄く上手いよね、真面目そうな性格が出てて。これってきちんと練習したから、こんなに上手に書けるようになったんじゃないの? 勉強だって一緒だよ」
 本当は、努力が必ず実るものではないと知っている。たとえば氷川がどんなに努力しても、東京大学の医学部に現役合格できるとは思えない。これから毎日走り込みをしたとしても、マラソン選手にはなれないだろう。しかし神森は現状、あまり真剣に勉学に向き合っている風ではない。それでいてこの学院の平均値程度の成績を維持できているならば、努力すれば高みを目指せるはずだという氷川の認識は、決して的外れではないはずだ。
 しかし神森はうんざりした風にかぶりを振った。
「僕程度がどれほど研鑽を積んだところで、たかが知れていますよ」
 彼の語尾に被さるように、授業開始の合図音が響く。鐘の音に紛れさせるように、氷川は神森に囁いた。
「僕程度、ね……それ、誰かに言われたの」
 神森ががたりと音を立てて席を立った。いっそ蒼白なほどの無表情で、氷川を睨め付ける。
「失礼します」
 神森は端的な断りを入れ、机の間をすり抜けて廊下へ向かう。氷川は咄嗟にその背を追った。教師の呼び止める声が聞こえたが、答えている余裕はまるでなかった。
 神森は無駄のない所作で廊下へ出ると、迷いなく高等科校舎棟へと早足で歩き出す。こんな場合でも走らないのが生真面目な彼らしいが、笑っていい場面ではない。歩みを速めて、氷川も隣に並んだ。廊下を走るな、などの余計な問答は避けたいが、逃すような愚も犯せない。
「神森くん、待って」
 神森の手首をぱしりと掴むと、彼は素直に足を止めた。そして氷川に冷めた視線を向ける。
「あなたはそういう不調法をしない方だと思っていました」
「普段はしないね。なんだか、神森くんのことは気になるんだよ。でも、嫌な思いさせてごめん」
 振り払われる前に手を放し、頭を下げる。神森が嘆息した。
「……教室に戻りますか」
「ちょっと、入りにくいね」
 授業が再開されるまさにそのタイミングで飛び出してきたのだ、ここで戻るのは相当な強心臓の持ち主でなければ気まずさを感じるだろう。それは神森も同様だったのか、彼は軽く頷くだけで、特別教室棟に戻ろうとは言わなかった。
「生徒会室と、二学年の教室、どちらがいいですか?」
「生徒会室のほうが近いね。鍵持ってるの?」
「いつもポケットに入れたままです」
 ぽんぽんとブレザーのポケットを叩いて、神森が歩みを再開する。氷川はその半歩後ろに並んだ。
「体調不良でもないのに授業に出ないなんてとんでもない、って言うかと思った」
「ええ、普段なら」
 先程の氷川と同じ言葉で返して、神森が足を止めた。生徒会室は普通の教室と同じ作りの部屋だが、後ろ側の戸が締め切りになっている。前側の戸の鍵を開くと、彼はちらりと氷川を振り返った。
「愚痴に付き合ってくださるのでしょう?」
 氷川は目をまたたき、先に入室した神森の背中を見つめる。一呼吸分の間を置いて、それが先程の話の続きをしてもいいという許可だと気付いた。止まったままだった足を動かして、生徒会室に入る。暖房の入っていなかった室内は、廊下と同じくらい冷え冷えとしていた。一足先に入室した神森がエアコンを操作して暖房を入れ、吹き出し口の側に立つ。きっちり戸を閉め切って、氷川もその隣に並んだ。
「話してくれるなら喜んで聞くけど……もしかしたら、鬱陶しいこと言っちゃうかも」
 いささか控えめに表現した氷川に、神森が肩をすくめてみせる。アメリカ人のような仕草は、純正日本人といった風情の彼にはいかにも不釣り合いだ。
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