高校生とピアニスト

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5.俊ちゃん

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ーー『千秋』

隣家の2階の窓から名前を呼ばれた気がして目線を向ける。
アルミサッシの簡素な窓は閉め切られたままで、中の青いカーテンも、左右の重い布地がぴったりと重なっていてほんの隙間すら見えない。


あそこは

千秋の常に薄曇りだった人生を、唯一照らす光のような男の部屋だった。


ーー寺島貴文

10年前

日本を発ったあの日

結局最後まで口にできなかったさよならの代わりにそれまでの感謝の言葉を告げて、彼とこの玄関で別れてからはもう2度と会っていない……


…とでも言えれば、

主演:小岩井千秋
脚本:人生
演出:運命
演技指導:無し

…のふざけたヒューマンドラマに多少の格好もつくのだが、現実は情けなく、なんだかんだで彼が仕事でヨーロッパへ来た時に2度、さらに自分が日本へ里帰りするたびちょこちょことあっていて、結局何も振り切れていないままだった。


そのくせ…

はい、ここ重要。


聞いて下さい。

恋人だったわけでもないのだ。

一度だって彼から、好きだとか、付き合おうだなんて言われたこともないし、千秋も怖くて言ったことはない。

言えなかった。

言って、関係が壊れるのが怖かった。

そのくせ、今でも会えば体を重ねてしまう。
抱きしめられ、唇を重ね、全身を、心を、蕩かされる。
隣家寺島家の長男、寺島貴文とは、千秋にとってそんな男だった。

そしてそんな貴文には歳の離れた弟がいた。

名前は…

「……俊ちゃん……?」
俊ちゃん。

記憶の中にいる、小さな少年の名前を呟く。
買ってもらったばかりのまだピカピカの紺のランドセルを背負い、いつも体のどこかに擦り傷をつけていた人懐っこい男の子、『俊ちゃん』

「よかった。覚えてくれてんじゃん」
少しだけ大人びた口調なのに、どこか照れを含んだ声でそう言ったその少年の顔が、一瞬でぱっと明るくなった。

「……俊ちゃん…」
もう一度、確かめるように自然と呟いた千秋の声に、俊介が
「うん」と答える。
凛とした眉は凛々しく、堀深い目元は力強い。
貴文の、眼鏡の奥の目元も、確かこんなふうだった。



ーー隣家、寺島家に次男の俊介が産まれたのは千秋が10歳、貴文が11歳の頃だった。

千秋にとっては身近で生まれた初めての赤ん坊で、その時、千秋は生まれて初めて新生児というものを目にし、震える手で抱っこもさせてもらった。
小さかった。
可愛かった。
その俊介が、今自分と同じ目線に立ち、重たい段ボール箱を軽々と持ち上げている。

千秋が重たい玄関ドアをひらくと、俊介は躊躇いなく家の中に入り、手にした段ボール箱を小岩井家の玄関ホールにどさりと置いた。

その後、俊介はしっかりとした指を顎に当て、改めて千秋をまじまじと見つめる。

そしてこの一言だ。

「……え、………てか秋兄こんなんだった??」

眉を顰めて、真剣な顔で言われる。

「ひどい……」
千秋が呟く。

千秋は朝、鏡を見て、なんとなく老けたな、と自らに感じていたところだった。
老けたとは言っても、自分ではそう変わってはいないつもりだったのに。

そもそも、地の文でこんなことを言うのはどうかと思うから今まで言わずにいたけれど、千秋は極端に容姿が良かった。

白い肌も、男の割に華奢な躯体も、艶やかな黒髪も、羽根のようなまつ毛が縁取るくっきりとした目元も、神様がおろしたての筆でとびきり慎重に描いたような両眉も、それはそれは美しく整っていて、ドイツやイタリアでいた頃なんかは何度も妖精のようだと褒め称えられたものだ。
ピアニストとして舞台に立つ時だって、ピアノを弾く前にまず礼服姿の千秋自身をみて観客たちはため息を漏らす。

……あ、ちなみにこれは、純粋に演奏だけを聴いてもらいたいと思っている千秋にとっては不本意なのだが。

とにかく、中身と生き様は酷いものだが、こと容姿だけは貶されたことのない千秋にとって、今の俊介の開口一番「こんなんだった?」は、聞き捨てならない。

「いや、ひどいっていうか……そういうんじゃなくて…もっとさ、秋兄って、怖いぐらい綺麗っていうか、作りもんぽいって言うか、一般人は触るのもNG!てイメージだったんだけど……」
そこまで言って、俊介は少し黙った。

千秋を見つめ、なんだか呆然としている。

「?」

千秋が少し首を傾げると、俊介も、それに合わせて一瞬何か言おうと口を開いたが
「…いや、…やっぱいいや」と
独り言のように呟き、厚みのある手で自分の口を覆って言葉を止めてしまった。

「あと、残り運んじまうな」

少しだけ耳を赤くさせ、それを誤魔化すかのように少し俯いて再びダンボールを取りに俊介が玄関を出るためドアノブに手をかけた。

外の明るい光が、俊介に逆光を浴びせる。

千秋の誰にも伝えられない『助けて』をまるでヒーローのように聞きつけて、助けてくれている俊介のその背中は、どこかあの日見た、貴文の背中とも似ているような気がした。
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