高校生とピアニスト

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6.貴文

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木枯らしが千秋の部屋の窓を叩きつける。

自室のベッドの中で、隠れるように貴文と二人、毛布に潜り込んだまま千秋は窓枠に切り取られた寒々しい曇天の空を見上げていた。

もう何度、貴文とこんな時間を過ごしているのだろうか。

春になれば、もう会うこともないかもしれない、自分の人生に唯一の光を差し込み続けていた男と過ごす、残された時間に虚しさだけが募る。

せめて、彼の恋人としてこんな時間を過ごせているのなら多少は幸せも噛み締められていたのかもしれない。
まだ、彼との関係に名前が付かないまま、ベッドの上で足を開かされる自分はあまりに惨めで、滑稽だった。

ぬるりと引き出す感触だけを残して、貴文の体が自分の中から離れる。

「もっと」なんて言えるはずもない。

貴文も、何も言わず、ただ『お終い』を告げるかのように、急激に熱を冷ます千秋の頬に一度だけかるく唇を寄せ、ベッドの中で体を起こした。

隣のレッスン室からショパンの練習曲が聞こえる。

毎回決まったこの時間に体を重ねるのはそれが午後の教室の時間だからだ。
今だけは、母は隣の部屋から出てくることはない。

作品10第3番ホ長調

子供の頃、海外で音楽の仕事をする父から海外公演の土産だと渡されたその曲の楽譜には
「Tristesse」(悲しみ)のタイトルがつけられていた。

邦題は「別れの曲」ということを知ったのはいくつの時だっただろうか。

少なくともまだ「別れ」と「悲しみ」を同じ引き出しの中には入れていないような頃だった。

お世辞にも上手いとは言えない「別れの曲」だった。
何度もつっかえ、何度も同じ小節を行き来している。

なんだか自分の人生にBGMをつけられた気がしておかしかった。

ベッドの中で少し笑うと貴文がシャツのボタンをとめながら、「どうした?」と聞いてきた。

「ショパンが…」

「ショパン?」

「……この曲ね、」

(別れの曲って、いうんだけど)

タイトルを口にしようとして喉でつかえた。


「別れ」を音にすることができなかった。

先に口にしたのは、貴文だった。

「ああ…別れの曲だって……前にお前に教えてもらったな」
ボタンを止める指先を一つ、一つと下に進めながら、貴文は言う。

「弾いてくれたこと、あっただろ」

貴文に、好きだなんて言葉は結局一度も言えなかった。

言ってはいけない気がしていた。
それを言ってしまうと、これまで彼と過ごした日々の全てが終わってしまう気がして……

だから、代わりに、何度も音に乗せて送った。

その中に別れの曲があったかどうかは正直もう覚えていないけど、彼が自分の奏でるピアノを聴いていてくれている時は、出来るだけ、指先に想いを乗せて、音を紡いだ。

この音は、あなたへの感謝の祈りだと

貴文はいつも黙って千秋のピアノを聴いてくれていた。

「お前の音が好きだよ」なんて言って。

涙が、耳元に落ちる。
貴文の指先が、黙って千秋のその涙を拭った。
隣の部屋から漏れ聞こえる別れの曲は、また別の小節を何度も行き来し始めていた。
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