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7.ピアノ
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小岩井家のリビングにピアノの音が静かに広がる。
静かな調べだった。
静かで、穏やかな旋律に深い悲しみと切なさが滲む、そんな響きだ。
10年前、自身の体よりも先に留学先へ送ったこの白いセミコンのグランドピアノは、10年の月日を共に海外で暮らし、帰りは千秋よりも随分遅れて空輸便で帰ってきた。
向こうで輸送費の見積もりを見たときには、一瞬、「この金額なら、日本で新品が買えるな」と苦笑したものだった。
でも──艶を失い、黒鍵の角はすり減り、木の素地が浮かび上がっているこの子を置いてこようなどという発想は、千秋の中には一切浮かばなかった。
美しい楽器としての価値はもうないかもしれない。
けれど、千秋にとっては、このピアノはもう身体の一部のような存在だ。
脚を外され、木箱に詰められていく姿を見送ったときは、さすがに胸がざわついたけれど──
こうして今、かつてと同じリビングで、大きな狂いもなく音を奏でてくれている。
その事実が、何よりもうれしかった。
唯一の聴取者である俊介は、曲目も、作曲者名も、こまかいことは一切興味もなさそうに、一応耳はそちらに意識を向けながらもこの家の輸入家具然としたハイバックのソファに制服のままの体を投げ出し、目線をスマホのアプリゲームに落としている。
今この部屋に響いている旋律が、
欧州で揉まれた一流ピアニストの指先が、まるで神技のように繊細に、複雑に紡ぎ出しているものであることなど──もちろん俊介には、知るよしもない。
さて、そんな俊介だが、数週間前に譜面の詰まったダンボール箱を玄関から家の中まで運んだあの日から、だいたい週に2度か3度はこうして放課後にやって来て、依然として進まずにいた千秋の引越し荷物の片付けや、家の整理を手伝っていた。
おかげで引越し作業は予定よりもスムーズに進み、今はもう部屋に未開封の段ボール箱や不用品が積み上げられていることもないのだが、その後も変わらず俊介はやって来て、俊介の母・珠子がパートから戻るまでのわずかな時間を、こうしてソファで何をすると言うわけでもなくスマホゲームをしたり、持ち込んできた漫画雑誌を見たりして過ごしている。
千秋にしてみれば、「一体何をしに来ているのかな?」と、思わないこともなかったけれど、思った以上にやることの多い日本での再出発の作業に千秋が煮詰まった頃にフラリとやってきて、色々と自分の話を聞いてくれる俊介の存在は、千秋にとって案外心地が良く、千秋はこの時間が好きだった。
まだ、ピアノは続けていて、今は仕事として弾いているのだと言うこと
海外で、いろんな人に迷惑をかけて、今ここでこうしているのだということ
それでも、日本で自分が挑戦してみたかったこと……
この短い期間で俊介には、どれもすこしずつではあったけれど、不思議と全て話していた。
俊介は話がドイツへ飛んだあたりから、「お?…おお…」なんて、目が泳ぎ出し、今一つピンと来ていなさそうな顔で聞いていたけれど、そのくらいが千秋にとっても話しやすくて良かったのだ。
そんなこんなで、今日も俊介は特に意味もなくそこにいる。
ピアノの音が、少しだけ強くなった。
俊介は画面から目を離し、ふと千秋の横顔を見やる。
綺麗だった。
丁寧で、上品で──自分の毎日にはなかった空気が、そこには確かにあった。
ひんやりと、心地良さそうな気がしてひっそりと鼻から息を吸い込んだ。
そうだ。
ここに俊介は、呼吸をするためにやってきていた。
静かな調べだった。
静かで、穏やかな旋律に深い悲しみと切なさが滲む、そんな響きだ。
10年前、自身の体よりも先に留学先へ送ったこの白いセミコンのグランドピアノは、10年の月日を共に海外で暮らし、帰りは千秋よりも随分遅れて空輸便で帰ってきた。
向こうで輸送費の見積もりを見たときには、一瞬、「この金額なら、日本で新品が買えるな」と苦笑したものだった。
でも──艶を失い、黒鍵の角はすり減り、木の素地が浮かび上がっているこの子を置いてこようなどという発想は、千秋の中には一切浮かばなかった。
美しい楽器としての価値はもうないかもしれない。
けれど、千秋にとっては、このピアノはもう身体の一部のような存在だ。
脚を外され、木箱に詰められていく姿を見送ったときは、さすがに胸がざわついたけれど──
こうして今、かつてと同じリビングで、大きな狂いもなく音を奏でてくれている。
その事実が、何よりもうれしかった。
唯一の聴取者である俊介は、曲目も、作曲者名も、こまかいことは一切興味もなさそうに、一応耳はそちらに意識を向けながらもこの家の輸入家具然としたハイバックのソファに制服のままの体を投げ出し、目線をスマホのアプリゲームに落としている。
今この部屋に響いている旋律が、
欧州で揉まれた一流ピアニストの指先が、まるで神技のように繊細に、複雑に紡ぎ出しているものであることなど──もちろん俊介には、知るよしもない。
さて、そんな俊介だが、数週間前に譜面の詰まったダンボール箱を玄関から家の中まで運んだあの日から、だいたい週に2度か3度はこうして放課後にやって来て、依然として進まずにいた千秋の引越し荷物の片付けや、家の整理を手伝っていた。
おかげで引越し作業は予定よりもスムーズに進み、今はもう部屋に未開封の段ボール箱や不用品が積み上げられていることもないのだが、その後も変わらず俊介はやって来て、俊介の母・珠子がパートから戻るまでのわずかな時間を、こうしてソファで何をすると言うわけでもなくスマホゲームをしたり、持ち込んできた漫画雑誌を見たりして過ごしている。
千秋にしてみれば、「一体何をしに来ているのかな?」と、思わないこともなかったけれど、思った以上にやることの多い日本での再出発の作業に千秋が煮詰まった頃にフラリとやってきて、色々と自分の話を聞いてくれる俊介の存在は、千秋にとって案外心地が良く、千秋はこの時間が好きだった。
まだ、ピアノは続けていて、今は仕事として弾いているのだと言うこと
海外で、いろんな人に迷惑をかけて、今ここでこうしているのだということ
それでも、日本で自分が挑戦してみたかったこと……
この短い期間で俊介には、どれもすこしずつではあったけれど、不思議と全て話していた。
俊介は話がドイツへ飛んだあたりから、「お?…おお…」なんて、目が泳ぎ出し、今一つピンと来ていなさそうな顔で聞いていたけれど、そのくらいが千秋にとっても話しやすくて良かったのだ。
そんなこんなで、今日も俊介は特に意味もなくそこにいる。
ピアノの音が、少しだけ強くなった。
俊介は画面から目を離し、ふと千秋の横顔を見やる。
綺麗だった。
丁寧で、上品で──自分の毎日にはなかった空気が、そこには確かにあった。
ひんやりと、心地良さそうな気がしてひっそりと鼻から息を吸い込んだ。
そうだ。
ここに俊介は、呼吸をするためにやってきていた。
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