高校生とピアニスト

文字の大きさ
7 / 11

7.ピアノ

しおりを挟む
小岩井家のリビングにピアノの音が静かに広がる。


静かな調べだった。

静かで、穏やかな旋律に深い悲しみと切なさが滲む、そんな響きだ。

10年前、自身の体よりも先に留学先へ送ったこの白いセミコンのグランドピアノは、10年の月日を共に海外で暮らし、帰りは千秋よりも随分遅れて空輸便で帰ってきた。

向こうで輸送費の見積もりを見たときには、一瞬、「この金額なら、日本で新品が買えるな」と苦笑したものだった。

でも──艶を失い、黒鍵の角はすり減り、木の素地が浮かび上がっているこの子を置いてこようなどという発想は、千秋の中には一切浮かばなかった。

美しい楽器としての価値はもうないかもしれない。

けれど、千秋にとっては、このピアノはもう身体の一部のような存在だ。

脚を外され、木箱に詰められていく姿を見送ったときは、さすがに胸がざわついたけれど──
こうして今、かつてと同じリビングで、大きな狂いもなく音を奏でてくれている。
その事実が、何よりもうれしかった。


唯一の聴取者である俊介は、曲目も、作曲者名も、こまかいことは一切興味もなさそうに、一応耳はそちらに意識を向けながらもこの家の輸入家具然としたハイバックのソファに制服のままの体を投げ出し、目線をスマホのアプリゲームに落としている。


今この部屋に響いている旋律が、
欧州で揉まれた一流ピアニストの指先が、まるで神技のように繊細に、複雑に紡ぎ出しているものであることなど──もちろん俊介には、知るよしもない。


さて、そんな俊介だが、数週間前に譜面の詰まったダンボール箱を玄関から家の中まで運んだあの日から、だいたい週に2度か3度はこうして放課後にやって来て、依然として進まずにいた千秋の引越し荷物の片付けや、家の整理を手伝っていた。

おかげで引越し作業は予定よりもスムーズに進み、今はもう部屋に未開封の段ボール箱や不用品が積み上げられていることもないのだが、その後も変わらず俊介はやって来て、俊介の母・珠子がパートから戻るまでのわずかな時間を、こうしてソファで何をすると言うわけでもなくスマホゲームをしたり、持ち込んできた漫画雑誌を見たりして過ごしている。

千秋にしてみれば、「一体何をしに来ているのかな?」と、思わないこともなかったけれど、思った以上にやることの多い日本での再出発の作業に千秋が煮詰まった頃にフラリとやってきて、色々と自分の話を聞いてくれる俊介の存在は、千秋にとって案外心地が良く、千秋はこの時間が好きだった。


まだ、ピアノは続けていて、今は仕事として弾いているのだと言うこと

海外で、いろんな人に迷惑をかけて、今ここでこうしているのだということ

それでも、日本で自分が挑戦してみたかったこと……

この短い期間で俊介には、どれもすこしずつではあったけれど、不思議と全て話していた。

俊介は話がドイツへ飛んだあたりから、「お?…おお…」なんて、目が泳ぎ出し、今一つピンと来ていなさそうな顔で聞いていたけれど、そのくらいが千秋にとっても話しやすくて良かったのだ。


そんなこんなで、今日も俊介は特に意味もなくそこにいる。


ピアノの音が、少しだけ強くなった。

俊介は画面から目を離し、ふと千秋の横顔を見やる。

綺麗だった。
丁寧で、上品で──自分の毎日にはなかった空気が、そこには確かにあった。


ひんやりと、心地良さそうな気がしてひっそりと鼻から息を吸い込んだ。



そうだ。

ここに俊介は、呼吸をするためにやってきていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

イケメン大学生にナンパされているようですが、どうやらただのナンパ男ではないようです

市川
BL
会社帰り、突然声をかけてきたイケメン大学生。断ろうにもうまくいかず……

タトゥーの甘い檻

マリ・シンジュ
BL
執着系わんこ攻(大学生)× 高潔な美形教授受(30代) どのお話も単体でお楽しみいただけます。 ​「先生、ここ……僕の瞳を入れるから。ずっと、僕だけを見てて」 ​真面目な大学教授・新城が、大学生の・羽生にだけ許した、あまりにも淫らな「わがまま」。 ​それは、誰にも見えない内腿の奥深くに、消えないタトゥーを刻むこと。 「下書き」と称して肌を赤く染めるペン先の冷たさ。 アトリエの無機質なライトの下、四つん這いで晒される大人の矜持。 ​ずっと年下の青年の、必死で、残酷で、純粋な独占欲。 愚かだと知りながら、新城はその熱に絆され、ゆっくりと「聖域」を明け渡していく――。 ​「……お前のわがままには、最後まで付き合う」 ​針が通るその時、二人の関係は一生消えない「共犯」へと変わる。 執着攻め×年上受け、密やかに刻まれる秘め事のお話。

情けない男を知っている

makase
BL
一見接点のない同僚二人は週末に飲みに行く仲である。

従僕に溺愛されて逃げられない

大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL! 俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。 その傍らには、当然のようにリンがいる。 荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。 高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。 けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。 当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。 居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。 さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。 主従なのか、恋人なのか。 境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。 従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。

兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?

perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。 その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。 彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。 ……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。 口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。 ――「光希、俺はお前が好きだ。」 次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。

まさか「好き」とは思うまい

和泉臨音
BL
仕事に忙殺され思考を停止した俺の心は何故かコンビニ店員の悪態に癒やされてしまった。彼が接客してくれる一時のおかげで激務を乗り切ることもできて、なんだかんだと気づけばお付き合いすることになり…… 態度の悪いコンビニ店員大学生(ツンギレ)×お人好しのリーマン(マイペース)の牛歩な恋の物語 *2023/11/01 本編(全44話)完結しました。以降は番外編を投稿予定です。

【完結】かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい

日向汐
BL
続編・番外編はTwitter(べったー)に載せていきますので、よかったらぜひ🤲 ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆ 過保護なかわいい系美形の後輩。 たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡ そんなお話。 ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆ 【攻め】 雨宮千冬(あめみや・ちふゆ) 大学1年。法学部。 淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。 甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。 【受け】 睦月伊織(むつき・いおり) 大学2年。工学部。 黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。

【完結】※セーブポイントに入って一汁三菜の夕飯を頂いた勇者くんは体力が全回復します。

きのこいもむし
BL
ある日突然セーブポイントになってしまった自宅のクローゼットからダンジョン攻略中の勇者くんが出てきたので、一汁三菜の夕飯を作って一緒に食べようねみたいなお料理BLです。 自炊に目覚めた独身フリーターのアラサー男子(27)が、セーブポイントの中に入ると体力が全回復するタイプの勇者くん(19)を餌付けしてそれを肴に旨い酒を飲むだけの逆異世界転移もの。 食いしん坊わんこのローグライク系勇者×料理好きのセーブポイント系平凡受けの超ほんわかした感じの話です。

処理中です...