高校生とピアニスト

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8.呼び名

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「…秋兄」
ソファの上で俊介が声を上げた。
目線は依然としてスマートフォンに向けられたままだ。

「…ん?」

「その曲知ってる」

それが主題のクライマックスであろうと、感動的なコーダであろうと、俊介はまるで気に留める様子もなく、さらりと口を挟む。

スマートフォンの画面上にとめどなく降り注ぐカラフルなキャラクターたちをとめどなく指先で弾いて消滅させながら、俊介がまるで独り言のようにそういうと、千秋は指の動きもテンポも落とさず
「…え?…ああ……そうなんだ」
とだけ返した。
「携帯か、切り餅のCMだよな」
「そうなの……?ごめん知らない…」

演奏は途切れず続いている……とはいえ、俊介の声により、先ほどまでの深い集中力はスッパリと両断されたわけなのだが、千秋の目元には、苛立ちよりも安堵が滲む。

聞いてくれていたのか。

ならば今弾いていたこの曲が、彼が全く知らない曲より、知っている1曲で良かったと思う。

……ただ、携帯と切り餅じゃ、だいぶCMとしての毛色が違う気がするのだけど、その記憶は確かなもの?俊ちゃん。

「……秋兄さ、」
携帯と切り餅のCM、2パターンを脳内で想定していた千秋に向けて再び俊介が口を開いた。

「……何、俊ちゃん」
「………」
呼びかけたきり、次が続かず黙り込む。
沈黙の隙間を、ピアノの音が静かに埋めてゆく。

部屋に沈黙が落ちたまま千秋の目線と指先が楽曲を数小節分進めた頃、

「…………ていうかさ、なんかもう、秋兄って呼ぶの照れるんだけど????!」

突然俊介が、手にしていたスマートフォンをソファに叩きつけるようにして体を起こし、ピアノ椅子に腰掛ける千秋の背中に向けて声を張り上げた。

突然のことに、今回ばかりは流石に千秋の指もぴたりと止まる。

「…えぇ……??」
思わずそんな声を漏らし、戸惑いの面持ちで俊介の方を振り返る。

何の前触れもなく俊介から文句をぶつけられることには、そろそろ慣れてきていたつもりだった。
「片付けの要領が悪い」とか「一般常識がない」とか「物の場所くらい覚えろ」とか——再開してからこれまでのほんの僅かな時間の中で、10も年下の俊介から苦情を投げかけられることがすでに何度もあったからだ。

そんな中、今回の苦情対象はまさかの「呼び名」だった。

「照れるって言われても……」
「しかもお前が俺を″俊ちゃん”」とか呼ぶから、もうなんかアホの兄弟みてえじゃねえか」
「……そうかな」
「そうなの!」
俊介はそう断言するが、千秋はまだ一人で
「………そうかな…?」
なんて納得のいかなそうな顔をして、ピアノの前で眉を寄せている。

確かに俊介は、いつのまにか記憶の中でランドセルを背負う”俊ちゃん″ではなくなって、もうすでに時折り男らしさすら感じられる少年に育っていたけれど、千秋にとっては、彼がお隣のあの子というのなら、いつまで経ってもこの子は”俊ちゃん″だった。
呼び名というものは、そう簡単に更新できるようなものではない。

「じゃあ……何、″俊介くん”って呼んだらいいの?」
少し面倒くさそうなため息をつきながらしぶしぶと千秋が言う。

「……」

俊介は真顔になって、すぅっと考え込み、ふいに言った。

「……いまの、もっかい」

「?……”俊介くん”?」

もう一度、千秋が首を傾けながら真顔でその呼び名を口にする。
俊介はそれを聞いて、そっと目を閉じた。

声に集中しているのがよくわかる。
できることなら、さっきピアノを弾いている間にも是非この顔をして欲しかった。

「もっかい、呼んでみて」
「俊介くん」
今度は少し柔らかく、呼びかけるようにその名前を口にしてみた。

「………」
目を閉じたまま、腕をくみ、天を仰いで唇をひねる俊介。
無言のまま何かを感じ取ろうとしている横顔に、千秋はとうとう呆れたように声をかける。

「……ねぇ、俊ちゃん…」
意味がわからないんだけど…

千秋がいい加減そう言おうとして、いつも通りに名前を呼ぶと

「…うん。やっぱそっち」

と、俊介が腕を組んだまま目を開いていった。

「もー…なんなんだよ……」
千秋の表情にさすがに呆れと面倒くささがにじむ。

「″俊ちゃん″のままでいい…知らんかった、むしろ”俊ちゃん”がいいわ…。いいな、”俊ちゃん″……」

1人でぶつぶつと呟き、愕然とする俊介。
”俊介くん”も新鮮で悪くはなかった。
ただ、千秋の静かな声で”俊ちゃん”と甘く呼ばれる響きは、自分で思っているよりもずっと胸にきた。


「よしわかった、じゃあ俺が呼び方変える。今の実験でわかったけど、つまり”秋兄”ってのがよくないんだよ、それがガキくさいんだよ、多分」
「……好きにしたらいいけど」

「……じゃあ、えっと……」
俊介の、意志の強そうなはっきりとしたアーモンド型の目が千秋を捉える。
男らしさと、少年らしさのちょうど中間のような瞳。
眉はしっかりと凛々しく整っていて、見つめられるとドキッとする。

「……秋……」

「……」
俊介の唇が動いて、あまり聞きなれない響きで千秋を呼ぶ。
千秋の心臓がまた少し跳ねる。
それは千秋の目に焼きついたままの貴文の目線とも、よく似ている気がした。



俊介はそれまで真剣だった顔つきを突然くしゃっと苦笑いにかえて、

「あれ……お前、秋のあと何っつーんだっけ…?? 秋助? 秋吉?」

俊介がふいに苦笑いを浮かべた。
彼の目元から、さっきまでの真剣さが一瞬で抜け落ちる。

「…えええ……ほんとひどい…」

「ごめんって!俺はずっと”秋兄”としか呼んだことなかったし、母さんも父さんも「秋ちゃん」としか言わねーしさ!…あ、秋か?!もしかして名前、秋だけ??」

一応、言い訳のつもりなのか、苦笑いを浮かべたまま早口で言う俊介。
ピアノの椅子の上で、ため息をつく千秋。
苦笑いしている俊介に目線も向けず、ぽつりと答えた。

「……ううん、…千秋」

『千秋』
俊介の記憶の中に、秋兄をそう呼ぶ、貴文の声が聞こえた気がした。その声は、どういうわけだか俊介の胸に引っかかり、そこをチリチリと焦がす。

「…ちあき…」

「初めまして。よろしくね。」
ひどくそっけなく、また、よそよそしい口調で千秋が言った。
「あれ、おこってる?!」
「別に」
ピアノの方に向き帰り、また譜面に目線を落とす千秋。


お互いの心の中に何か新しい感情が生まれ始めていることに、この時点ではまだ2人とも気付いてはいなかった。
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