高校生とピアニスト

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9.記憶

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俊介の記憶の中の「秋兄」は恐ろしく綺麗な人だった。

骨格こそ男のそれではあったけれど、長い手足はひどく華奢で、ほっそりとした首筋から指先までのラインには儚げという言葉がしっくりとくる色っぽさがあった。
肌は白く、白い額の上を黒い前髪がさらりと流れる。
瞳の色も深い黒。
作り物のように美しいその瞳は、あの頃俊介が抽斗の中に大切に閉まっていた宝物のガラス玉ともよく似ていた。

そんなどこか現実離れした「お隣の秋兄」は、時々俊介の世界にもやって来ていた。

今思えば兄の貴文と千秋がそれぞれ通っていた高校は電車の沿線もまるで違ったというのに、一体どこでどう待ち合わせていたのか、濃紺のブレザー姿の兄がそれとはまるで違う臙脂色の制服を着た千秋を時々うちに連れ帰って来ることがあったのだ。
家に入ると兄はいつでも千秋の一歩前を進み、リビングの家族には一瞥もくれずに2階の自室へと続く台所横の中階段を登る。
そんな中、千秋だけは毎回必ずそこで足を止め、リビングのテレビを見ている俊介に「俊ちゃん、こんにちは」と丁寧に声をかけてくれていた。

俊介はそんなことまるで覚えていないけれど、いつか母親が「秋ちゃんは本当にお行儀がいいから、あんたが0歳の時からいつもああやって声をかけてくれてるんだよ」と感心したように言っていた。
これもまた、今となれば、「0歳相手に普通に挨拶すんな!」とツッコミたくなるようななんとも千秋らしい習慣だが、その時は、ふぅん、程度で聞き流していた。

俊介にはそんなことよりも、目の前で展開している猫とネズミの痛快なドタバタ劇……つまりは、夕方の再放送アニメの内容の方が大事だったのだ。

「千秋」

痛快なBGMを背景にテレビの中でフライパンに押しつぶされてぺたんこになっている茶色いネズミの姿を、思わずリビングで足を止めて幼い俊介と共に眺めてしまっていた千秋の名前を2階から静かに兄が呼ぶ。

それにはっとした顔をして階段の上を見上げ、テレビの前の俊介に軽く手を振ってから兄の後を追うように階段を登る千秋の細い背中を俊介は過去に何度も見たような記憶があった。

ひらひらと振られる、細く、長い指が印象的だった。

「ほんと、お兄ちゃんと秋ちゃんは仲がいいねぇ」

台所で夕飯の支度をしながら、母がそう言った。
母の方に意識を向けた俊介の耳に、何かを煮込む鍋の音と、包丁のトントンといった小気味のいいリズムが流れ込む。

いつもと変わらない日常の風景だ。
けれどその言葉が、俊介にはなぜか妙に引っかかった。

仲がいい——

母はそう言ったけれど、俊介には、そうは思えない瞬間がいくつもあった。

俊介は、時々兄の部屋から帰る秋兄の目が赤いことを知っていたのだ。

(兄ちゃんは秋兄をいじめているのかな)


幼い頃、俊介は何度かそう思ったことがあった。

あの日階段を降りて来た秋兄の目が赤く濡れていたのも、
また別の日に、玄関で、兄ちゃんから引き止めるように手を掴まれた秋兄の唇が震えていたのも、
また別の日に、台所の横で兄ちゃんから髪に触れられた秋兄が、今にも泣き出しそうな目をして兄ちゃんを見ていたのも……

知っているのは多分テレビを見ているふりをしていた俊介だけで、俊介は、それは誰にも言ってはいけない気がしてそっと心の中にしまっていた。

それが、10年経った今になって、千秋の名前を呼ぶ兄の声の記憶が心の抽斗の小さな取っ手を不意に引く。
仕舞い込まれていた何もかもが、堰を切ったように溢れ出てくる。


濡れていた。
震えていた。
怯えていた。

それを見て、たしかにあの時は、秋兄は兄ちゃんにいじめられてるのかもしれないと思って抱えきれない不安に思わず目を伏せた。

けれど

思い出す千秋の顔は、なぜかどれもが違って見えるのだ。

濡れた睫毛はきらきらしていて、
震える唇は赤く、
伏せた目線は、微かに笑っていた気さえする——

なぜだろう。
そんな記憶に胸の奥が、じわじわと疼く。
背中から、下腹部へと甘い熱が広がっていく。

俊介は、ベッドの上でただひとり、
その熱の正体も掴めないまま、無意識に自分の身体へと手を伸ばしていた。
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