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第一部 あの夏へもう一度
第四話「歪世界」百合側-1
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私には、大好きな親友がいる。
小さい頃からずっと一緒で、
気づけば隣にいるのが当たり前になっていた存在。
親同士の関係とか、そんなことは正直どうでもよかった。
私にとって遥は――
ただ、いつもそこにいる“光”だった。
明るくて、優しくて、
私が沈みそうになるたび、何も言わずに照らしてくれる太陽。
その光は、ずっと私だけのものだと。
疑いもなく、信じていた。
……あの日までは。
「ねぇ!百合!ハグしよう!!」
唐突な声に振り返ると、
遥がいつもみたいに笑って立っていた。
「遥~、最近どしたの~。何かあったん?」
冗談めかして返す。
本当は、少しだけ引っかかっていた。
「百合が可愛いからだよ♪ もう♪」
「何それー。ウザいってー。はい、おいでー」
腕を広げると、遥は迷いなく飛び込んできた。
「うふふ♪ ありがとう♪」
胸に押し当てられた体温。
懐かしくて、安心するはずの温もり。
――なのに。
(……あれ?)
なぜか、胸の奥がきゅっと縮んだ。
理由のわからない違和感が、指先に残る。
人肌が恋しかっただけ?
何かあって、甘えたくなっただけ?
そう思おうとすれば、できた。
むしろ、頼られるのは嬉しかった。
私は遥の親友なんだから。
何があっても、私が支える。
私が守る。
その時は、本気でそう思っていた。
遥の腕が、私の背中で少しだけ強く絡む。
離れようとしないその力が、
なぜか、少しだけ怖かった。
(大丈夫だよね……)
自分に言い聞かせるみたいに、
私はそっと遥の背中を撫でた。
この温度が、
ずっと変わらないと――
信じたまま。
遥の体温は、昔と変わらなかった。
少し高くて、柔らかくて、安心する匂い。
それなのに――
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
(……なんで、だろ)
抱きしめながら、私は理由も分からない違和感を押し殺す。
遥は相変わらず無邪気で、私の肩に顔を埋めて小さく笑っていた。
「ね、遥。どうして目を閉じてんの?」
「ーなんでもないよ~。」
「私はちゃんと隣にいるよ。
安心してね。」
「当たり前じゃん。何言ってんの」
遥の指が一瞬だけ――ぎゅっと、強く私の制服を掴んだ。
(やっぱり、何かあったんだ)
私はそれ以上踏み込まなかった。
聞かなくても、私がそばにいれば大丈夫。
そう信じていたから。
それからだった。
遥が、誰かの名前を口にする回数が増えたのは。
「ね、百合。ソウマってさ――」
その名前を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが小さく音を立てて崩れた気がした。
「……ふーん」
平然を装って返事をする。
でも、心臓は理由もなく早く打っていた。
(知らない)
その感情が、はっきりと形を持つ。
私の知らない遥。
私以外に向ける、その笑顔。
太陽は、いつだって私だけを照らしてくれる。
そう信じて疑わなかった。
――疑うなんて、考えたこともなかった。
「百合、聞いてる?」
「……あ、ごめん。聞いてるよ」
嘘だった。
遥の声が遠く感じる。
代わりに、胸の奥で黒いものが、ゆっくりと広がっていく。
(奪われる……?)
その考えを、私は必死で否定した。
違う。
遥はそんなことしない。
私達は特別なんだから。
それから、少しずつ。
ほんの少しずつ、遥は私の隣にいなくなった。
前は、放課後になれば当たり前みたいに一緒に帰っていた。
寄り道をして、どうでもいい話をして、
気づけば日が沈んでいる――そんな毎日。
それが、いつの間にか。
「ごめん、今日は用事あって」
「先帰ってていいよ」
そう言って、遥は笑った。
いつもと同じ、柔らかい笑顔で。
(用事、か)
私はその言葉を、何度も頭の中で転がした。
深い意味なんて、きっとない。
たまたま予定が重なっただけ。
……そう思わなきゃ、いけなかった。
最初のうちは、ちゃんと我慢できていた。
寂しい、なんて思っちゃいけない。
親友なんだから。
遥の世界が広がるのは、いいことのはず。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
でも――
「今日も一緒に帰れないんだ」
そう気づくたび、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
それは悲しみというより、
“置いていかれる感覚”に近かった。
教室の窓から見える夕焼け。
あの空の下で、遥は今、誰と笑っているんだろう。
(……考えすぎ)
私は首を振る。
そんなの、考えるだけ無駄だ。
疑うなんて、最低だ。
親友なのに。
数日後、花火大会のポスターが校内に貼られた。
色とりどりの花火。
浴衣姿のイラスト。
「地元夏祭り」の文字。
その瞬間、胸が少しだけ明るくなった。
(……あ、そうだ)
毎年、遥と一緒に行っていた。
人混みではぐれないように手を引いて、
河川敷に並んで座って、同じ花火を見上げる。
今年も、きっと――
「遥、今年の花火大会さ」
そう声をかけようとして、
私は言葉を飲み込んだ。
遥は、誰かと電話をしていた。
少し離れた廊下で、
周りに聞こえないように、声を落として。
でも――
「うん、楽しみ」
「浴衣? うん、一緒に行こうって」
その言葉だけは、はっきり聞こえた。
心臓が、一拍遅れて鳴った。
(……一緒に?)
足が、床に縫い止められたみたいに動かない。
声をかけるタイミングを、完全に失っていた。
電話の向こうの相手の名前は、聞こえなかった。
でも――
もう、分かってしまった。
ソウマ。
遥が、あの名前を口にするときの、
少しだけ浮ついた声。
大切なものに触れるみたいな、柔らかさ。
それが、今の声と重なった。
「じゃあまたあとでね。..」
電話を切った遥は、
振り返って、私に気づいた。
「あ、百合。どうしたの?」
いつもの笑顔。
何も知らない顔。
「……ううん。なんでもない」
私は、笑った。
ちゃんと、笑えたはずだった。
「そっか」
遥はそれ以上、何も聞かなかった。
そして――
そのまま、別の友達の輪に戻っていった。
取り残されたのは、私だけ。
廊下の窓から見える空は、
やけに青くて、遠かった。
(……そっか)
花火大会。
遥は、もう――私と行くつもりはない。
胸の奥が、すうっと冷えていく。
でも、不思議と涙は出なかった。
怒りも、まだなかった。
代わりに浮かんだのは、
とても静かな思考だった。
(私が、ちゃんとしなきゃ)
遥は優しい。
だから、きっと言い出せなかっただけ。
私を傷つけたくなかったんだ。
だったら――
私が理解してあげなきゃ。
親友なんだから。
一番、近くにいる存在なんだから。
(守らなきゃ)
その言葉が、
いつの間にか、胸の中で根を張っていた。
遥の未来が、壊れないように。
間違った方向に行かないように。
――私が。
静かに。
確実に。
(大丈夫。まだ、間に合う)
自分に言い聞かせるように、私は連絡先を開いた。
遥の母親の名前が、そこにあった。
⸻
「……はい、もしもし」
受話器の向こうの声は、いつも通り落ち着いていた。
その“正しさ”が、少しだけ胸に刺さる。
「急にすみません。百合です」
「……あら、百合ちゃん。どうしたの?」
迷いはなかった。
これは“親友として、当然の行為”だと信じていたから。
「遥が最近、少し様子がおかしくて」
「それで……男の子と、よく一緒にいるみたいなんです」
沈黙。
一拍遅れて、息を呑む音。
「……男の子?」
「はい。ソウマっていう人です」
私は、知っていることを淡々と話した。
どこで会っているか。
どんな時間に連絡を取っているか。
祭りに、一緒に行く約束をしていたこと。
事実だけを、丁寧に。
「……そう。ありがとう、百合ちゃん」
その声には、困惑と、わずかな怒りが混じっていた。
それを聞いた瞬間、胸の奥が静かに落ち着いた。
(よかった)
これでいい。
遥は、守られる。
そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが静かに音を立てて沈んでいった。
黒い水が、ゆっくりと満ちていく感覚。
冷たくて、でも不思議と落ち着く。
──いいこと、思いついちゃった。
ソウマと一緒にいる遥は、
もう、私の知っている遥じゃない。
あの人の目に映る遥。
あの人が大切にしようとしている“未来”。
それがある限り、
遥は私のところに戻ってこない。
だったら――
その場所ごと、壊してしまえばいい。
清らかで、守られて、
何も知らないままの遥じゃなくなれば。
もう、選ばれることもない。
もう、連れて行かれることもない。
壊れたら、終わりじゃない。
壊れたら……私が、拾えばいい。
親友として。
一番近い存在として。
「ふふ……待っててね、遥」
その声は、もう祈りじゃなかった。
願いでもなかった。
ただの、決意だった。
……花火大会当日。
百合は、少し早めに会場へ向かった。
金魚すくいの屋台。
夜風に揺れる提灯。
甘い匂いと、ざわめき。
その喧騒の端。
灯りの届かない場所に、
だらしなく座り込んだ数人の男たちがいた。
百合は、足を止める。
「ねぇ……暇そうだね」
甘く、柔らかい声。
ただ、それだけ。
視線が集まる。
空気が、わずかに変わる。
「面白い“遊び”があるんだけど」
「逃げるの、得意な子でさ」
言葉は多くなかった。
説明も、必要なかった。
男たちの笑い声が、
祭囃子に溶けて消える。
提灯の赤が、
一瞬だけ、滲んで見えた。
その色が、
あとで何を意味するのか──
百合は、もう考えないことにした。
百合は、少し離れた場所で立ち止まっていた。
人混みの外れ。
灯りが途切れ、川の気配が近づくあたり。
(……もうすぐ)
胸の奥が、妙に静かだった。
高鳴りも、不安もない。
ただ、予定通りに物事が進んでいるという確信だけ。
(大丈夫。ここからは、私の役目)
――遥が、壊れる。
そして、私が助ける。
それで、全部元に戻る。
遠くで、足音が重なった。
笑い声。
短い叫び声。
百合は、動かなかった。
聞こえないふりをした。
(すぐ終わる)
そう思った、その時。
──鈍い音。
乾いていて、重たい音。
地面と、何か硬いものがぶつかる音。
一瞬、胸がざわついた。
(……今の、なに?)
次の瞬間、
ばらばらと足音が散っていく気配。
笑い声はない。
罵声もない。
ただ、逃げる音だけが、夜に溶けていった。
「……?」
おかしい。
百合は、初めて足を動かした。
鼓動が、少しずつ早くなる。
(違う……こんなはずじゃ……)
川沿いの暗がり。
提灯の光が届かない場所。
そこに――
遥が、倒れていた。
浴衣が、乱れている。
髪が、土に触れている。
「……遥?」
声が、うまく出なかった。
喉が、ひりつく。
近づいて、膝をつく。
肩に触れる。
冷たい。
「……ねぇ、遥……?」
揺らしても、返事はない。
呼吸の気配も、ない。
視線が、ゆっくりと頭部に落ちる。
そこに、赤黒い染みが広がっているのを見て――
百合の世界が、音を失った。
(……え?)
理解が、追いつかない。
(違う……違う……)
これは、違う。
こうなるはずじゃなかった。
壊す、だけだった。
傷つける、だけだった。
殺すなんて――
「……ちが、う……」
声にならない声が、唇から漏れる。
助けるはずだった。
守るはずだった。
一緒に、戻るはずだった。
なのに。
遥は、もう、動かない。
百合は、ゆっくりとその場に座り込んだ。
遥の身体を抱き寄せることも、できなかった。
触れたら、全部が現実になる気がして。
(……私が)
その思考が、頭の奥で形を持ち始める。
(私が、やった……)
震える手で、口元を押さえる。
吐き気が込み上げる。
でも――
同時に、胸の奥で、別の感情が蠢いた。
逃げなきゃ。
隠さなきゃ。
このままじゃ、
全部、終わる。
百合は、ゆっくりと立ち上がった。
遥を、もう一度だけ見る。
その顔は、
あまりにも静かで、
まるで眠っているみたいだった。
「……ごめんね」
それが、最初で最後の言葉だった。
百合は、夜の闇へと背を向けた。
その瞬間から、
世界は、完全に歪み始めた。
小さい頃からずっと一緒で、
気づけば隣にいるのが当たり前になっていた存在。
親同士の関係とか、そんなことは正直どうでもよかった。
私にとって遥は――
ただ、いつもそこにいる“光”だった。
明るくて、優しくて、
私が沈みそうになるたび、何も言わずに照らしてくれる太陽。
その光は、ずっと私だけのものだと。
疑いもなく、信じていた。
……あの日までは。
「ねぇ!百合!ハグしよう!!」
唐突な声に振り返ると、
遥がいつもみたいに笑って立っていた。
「遥~、最近どしたの~。何かあったん?」
冗談めかして返す。
本当は、少しだけ引っかかっていた。
「百合が可愛いからだよ♪ もう♪」
「何それー。ウザいってー。はい、おいでー」
腕を広げると、遥は迷いなく飛び込んできた。
「うふふ♪ ありがとう♪」
胸に押し当てられた体温。
懐かしくて、安心するはずの温もり。
――なのに。
(……あれ?)
なぜか、胸の奥がきゅっと縮んだ。
理由のわからない違和感が、指先に残る。
人肌が恋しかっただけ?
何かあって、甘えたくなっただけ?
そう思おうとすれば、できた。
むしろ、頼られるのは嬉しかった。
私は遥の親友なんだから。
何があっても、私が支える。
私が守る。
その時は、本気でそう思っていた。
遥の腕が、私の背中で少しだけ強く絡む。
離れようとしないその力が、
なぜか、少しだけ怖かった。
(大丈夫だよね……)
自分に言い聞かせるみたいに、
私はそっと遥の背中を撫でた。
この温度が、
ずっと変わらないと――
信じたまま。
遥の体温は、昔と変わらなかった。
少し高くて、柔らかくて、安心する匂い。
それなのに――
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
(……なんで、だろ)
抱きしめながら、私は理由も分からない違和感を押し殺す。
遥は相変わらず無邪気で、私の肩に顔を埋めて小さく笑っていた。
「ね、遥。どうして目を閉じてんの?」
「ーなんでもないよ~。」
「私はちゃんと隣にいるよ。
安心してね。」
「当たり前じゃん。何言ってんの」
遥の指が一瞬だけ――ぎゅっと、強く私の制服を掴んだ。
(やっぱり、何かあったんだ)
私はそれ以上踏み込まなかった。
聞かなくても、私がそばにいれば大丈夫。
そう信じていたから。
それからだった。
遥が、誰かの名前を口にする回数が増えたのは。
「ね、百合。ソウマってさ――」
その名前を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが小さく音を立てて崩れた気がした。
「……ふーん」
平然を装って返事をする。
でも、心臓は理由もなく早く打っていた。
(知らない)
その感情が、はっきりと形を持つ。
私の知らない遥。
私以外に向ける、その笑顔。
太陽は、いつだって私だけを照らしてくれる。
そう信じて疑わなかった。
――疑うなんて、考えたこともなかった。
「百合、聞いてる?」
「……あ、ごめん。聞いてるよ」
嘘だった。
遥の声が遠く感じる。
代わりに、胸の奥で黒いものが、ゆっくりと広がっていく。
(奪われる……?)
その考えを、私は必死で否定した。
違う。
遥はそんなことしない。
私達は特別なんだから。
それから、少しずつ。
ほんの少しずつ、遥は私の隣にいなくなった。
前は、放課後になれば当たり前みたいに一緒に帰っていた。
寄り道をして、どうでもいい話をして、
気づけば日が沈んでいる――そんな毎日。
それが、いつの間にか。
「ごめん、今日は用事あって」
「先帰ってていいよ」
そう言って、遥は笑った。
いつもと同じ、柔らかい笑顔で。
(用事、か)
私はその言葉を、何度も頭の中で転がした。
深い意味なんて、きっとない。
たまたま予定が重なっただけ。
……そう思わなきゃ、いけなかった。
最初のうちは、ちゃんと我慢できていた。
寂しい、なんて思っちゃいけない。
親友なんだから。
遥の世界が広がるのは、いいことのはず。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
でも――
「今日も一緒に帰れないんだ」
そう気づくたび、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
それは悲しみというより、
“置いていかれる感覚”に近かった。
教室の窓から見える夕焼け。
あの空の下で、遥は今、誰と笑っているんだろう。
(……考えすぎ)
私は首を振る。
そんなの、考えるだけ無駄だ。
疑うなんて、最低だ。
親友なのに。
数日後、花火大会のポスターが校内に貼られた。
色とりどりの花火。
浴衣姿のイラスト。
「地元夏祭り」の文字。
その瞬間、胸が少しだけ明るくなった。
(……あ、そうだ)
毎年、遥と一緒に行っていた。
人混みではぐれないように手を引いて、
河川敷に並んで座って、同じ花火を見上げる。
今年も、きっと――
「遥、今年の花火大会さ」
そう声をかけようとして、
私は言葉を飲み込んだ。
遥は、誰かと電話をしていた。
少し離れた廊下で、
周りに聞こえないように、声を落として。
でも――
「うん、楽しみ」
「浴衣? うん、一緒に行こうって」
その言葉だけは、はっきり聞こえた。
心臓が、一拍遅れて鳴った。
(……一緒に?)
足が、床に縫い止められたみたいに動かない。
声をかけるタイミングを、完全に失っていた。
電話の向こうの相手の名前は、聞こえなかった。
でも――
もう、分かってしまった。
ソウマ。
遥が、あの名前を口にするときの、
少しだけ浮ついた声。
大切なものに触れるみたいな、柔らかさ。
それが、今の声と重なった。
「じゃあまたあとでね。..」
電話を切った遥は、
振り返って、私に気づいた。
「あ、百合。どうしたの?」
いつもの笑顔。
何も知らない顔。
「……ううん。なんでもない」
私は、笑った。
ちゃんと、笑えたはずだった。
「そっか」
遥はそれ以上、何も聞かなかった。
そして――
そのまま、別の友達の輪に戻っていった。
取り残されたのは、私だけ。
廊下の窓から見える空は、
やけに青くて、遠かった。
(……そっか)
花火大会。
遥は、もう――私と行くつもりはない。
胸の奥が、すうっと冷えていく。
でも、不思議と涙は出なかった。
怒りも、まだなかった。
代わりに浮かんだのは、
とても静かな思考だった。
(私が、ちゃんとしなきゃ)
遥は優しい。
だから、きっと言い出せなかっただけ。
私を傷つけたくなかったんだ。
だったら――
私が理解してあげなきゃ。
親友なんだから。
一番、近くにいる存在なんだから。
(守らなきゃ)
その言葉が、
いつの間にか、胸の中で根を張っていた。
遥の未来が、壊れないように。
間違った方向に行かないように。
――私が。
静かに。
確実に。
(大丈夫。まだ、間に合う)
自分に言い聞かせるように、私は連絡先を開いた。
遥の母親の名前が、そこにあった。
⸻
「……はい、もしもし」
受話器の向こうの声は、いつも通り落ち着いていた。
その“正しさ”が、少しだけ胸に刺さる。
「急にすみません。百合です」
「……あら、百合ちゃん。どうしたの?」
迷いはなかった。
これは“親友として、当然の行為”だと信じていたから。
「遥が最近、少し様子がおかしくて」
「それで……男の子と、よく一緒にいるみたいなんです」
沈黙。
一拍遅れて、息を呑む音。
「……男の子?」
「はい。ソウマっていう人です」
私は、知っていることを淡々と話した。
どこで会っているか。
どんな時間に連絡を取っているか。
祭りに、一緒に行く約束をしていたこと。
事実だけを、丁寧に。
「……そう。ありがとう、百合ちゃん」
その声には、困惑と、わずかな怒りが混じっていた。
それを聞いた瞬間、胸の奥が静かに落ち着いた。
(よかった)
これでいい。
遥は、守られる。
そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが静かに音を立てて沈んでいった。
黒い水が、ゆっくりと満ちていく感覚。
冷たくて、でも不思議と落ち着く。
──いいこと、思いついちゃった。
ソウマと一緒にいる遥は、
もう、私の知っている遥じゃない。
あの人の目に映る遥。
あの人が大切にしようとしている“未来”。
それがある限り、
遥は私のところに戻ってこない。
だったら――
その場所ごと、壊してしまえばいい。
清らかで、守られて、
何も知らないままの遥じゃなくなれば。
もう、選ばれることもない。
もう、連れて行かれることもない。
壊れたら、終わりじゃない。
壊れたら……私が、拾えばいい。
親友として。
一番近い存在として。
「ふふ……待っててね、遥」
その声は、もう祈りじゃなかった。
願いでもなかった。
ただの、決意だった。
……花火大会当日。
百合は、少し早めに会場へ向かった。
金魚すくいの屋台。
夜風に揺れる提灯。
甘い匂いと、ざわめき。
その喧騒の端。
灯りの届かない場所に、
だらしなく座り込んだ数人の男たちがいた。
百合は、足を止める。
「ねぇ……暇そうだね」
甘く、柔らかい声。
ただ、それだけ。
視線が集まる。
空気が、わずかに変わる。
「面白い“遊び”があるんだけど」
「逃げるの、得意な子でさ」
言葉は多くなかった。
説明も、必要なかった。
男たちの笑い声が、
祭囃子に溶けて消える。
提灯の赤が、
一瞬だけ、滲んで見えた。
その色が、
あとで何を意味するのか──
百合は、もう考えないことにした。
百合は、少し離れた場所で立ち止まっていた。
人混みの外れ。
灯りが途切れ、川の気配が近づくあたり。
(……もうすぐ)
胸の奥が、妙に静かだった。
高鳴りも、不安もない。
ただ、予定通りに物事が進んでいるという確信だけ。
(大丈夫。ここからは、私の役目)
――遥が、壊れる。
そして、私が助ける。
それで、全部元に戻る。
遠くで、足音が重なった。
笑い声。
短い叫び声。
百合は、動かなかった。
聞こえないふりをした。
(すぐ終わる)
そう思った、その時。
──鈍い音。
乾いていて、重たい音。
地面と、何か硬いものがぶつかる音。
一瞬、胸がざわついた。
(……今の、なに?)
次の瞬間、
ばらばらと足音が散っていく気配。
笑い声はない。
罵声もない。
ただ、逃げる音だけが、夜に溶けていった。
「……?」
おかしい。
百合は、初めて足を動かした。
鼓動が、少しずつ早くなる。
(違う……こんなはずじゃ……)
川沿いの暗がり。
提灯の光が届かない場所。
そこに――
遥が、倒れていた。
浴衣が、乱れている。
髪が、土に触れている。
「……遥?」
声が、うまく出なかった。
喉が、ひりつく。
近づいて、膝をつく。
肩に触れる。
冷たい。
「……ねぇ、遥……?」
揺らしても、返事はない。
呼吸の気配も、ない。
視線が、ゆっくりと頭部に落ちる。
そこに、赤黒い染みが広がっているのを見て――
百合の世界が、音を失った。
(……え?)
理解が、追いつかない。
(違う……違う……)
これは、違う。
こうなるはずじゃなかった。
壊す、だけだった。
傷つける、だけだった。
殺すなんて――
「……ちが、う……」
声にならない声が、唇から漏れる。
助けるはずだった。
守るはずだった。
一緒に、戻るはずだった。
なのに。
遥は、もう、動かない。
百合は、ゆっくりとその場に座り込んだ。
遥の身体を抱き寄せることも、できなかった。
触れたら、全部が現実になる気がして。
(……私が)
その思考が、頭の奥で形を持ち始める。
(私が、やった……)
震える手で、口元を押さえる。
吐き気が込み上げる。
でも――
同時に、胸の奥で、別の感情が蠢いた。
逃げなきゃ。
隠さなきゃ。
このままじゃ、
全部、終わる。
百合は、ゆっくりと立ち上がった。
遥を、もう一度だけ見る。
その顔は、
あまりにも静かで、
まるで眠っているみたいだった。
「……ごめんね」
それが、最初で最後の言葉だった。
百合は、夜の闇へと背を向けた。
その瞬間から、
世界は、完全に歪み始めた。
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叙勲パーティが王宮で開かれ、ベルーナに王子は一目ぼれするが、周囲は身分違いで猛反対される。
【完結】断罪された占星術師は、処刑前夜に星を詠む
佐倉穂波
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星は、嘘をつかない。嘘をついていたのは——わたし自身だった。
王宮の卜部に勤める十七歳の占星術師リュシア・アストレアは、ある日、王太子妃候補の婚儀に「凶」の星を読んだ。星が告げるままに報告したに過ぎなかったのに、翌朝には牢に入れられていた。罪状は「占星術を用いて王家を惑わせ、王太子暗殺を画策した」こと。
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処刑前夜に視た予言を、誰が信じるというのか。それでも、若き宰相クラウス・ベルシュタインは深夜の牢へ足を運び、断罪された少女の言葉に耳を傾けた。
二人の出会いは、運命をどう変えていくのかーー。
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