幾千の奇跡とひとつの未来

shirohigeとクロカミ

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第一部 あの夏へもう一度

第四話「歪世界」百合側-1

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私には、大好きな親友がいる。

小さい頃からずっと一緒で、
気づけば隣にいるのが当たり前になっていた存在。

親同士の関係とか、そんなことは正直どうでもよかった。
私にとって遥は――
ただ、いつもそこにいる“光”だった。

明るくて、優しくて、
私が沈みそうになるたび、何も言わずに照らしてくれる太陽。

その光は、ずっと私だけのものだと。
疑いもなく、信じていた。

……あの日までは。

「ねぇ!百合!ハグしよう!!」

唐突な声に振り返ると、
遥がいつもみたいに笑って立っていた。

「遥~、最近どしたの~。何かあったん?」

冗談めかして返す。
本当は、少しだけ引っかかっていた。

「百合が可愛いからだよ♪ もう♪」

「何それー。ウザいってー。はい、おいでー」

腕を広げると、遥は迷いなく飛び込んできた。

「うふふ♪ ありがとう♪」

胸に押し当てられた体温。
懐かしくて、安心するはずの温もり。

――なのに。

(……あれ?)

なぜか、胸の奥がきゅっと縮んだ。
理由のわからない違和感が、指先に残る。

人肌が恋しかっただけ?
何かあって、甘えたくなっただけ?

そう思おうとすれば、できた。
むしろ、頼られるのは嬉しかった。

私は遥の親友なんだから。
何があっても、私が支える。
私が守る。

その時は、本気でそう思っていた。

遥の腕が、私の背中で少しだけ強く絡む。
離れようとしないその力が、
なぜか、少しだけ怖かった。

(大丈夫だよね……)

自分に言い聞かせるみたいに、
私はそっと遥の背中を撫でた。

この温度が、
ずっと変わらないと――
信じたまま。

遥の体温は、昔と変わらなかった。
少し高くて、柔らかくて、安心する匂い。

それなのに――
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。

(……なんで、だろ)

抱きしめながら、私は理由も分からない違和感を押し殺す。
遥は相変わらず無邪気で、私の肩に顔を埋めて小さく笑っていた。

「ね、遥。どうして目を閉じてんの?」
「ーなんでもないよ~。」

「私はちゃんと隣にいるよ。
安心してね。」

「当たり前じゃん。何言ってんの」

遥の指が一瞬だけ――ぎゅっと、強く私の制服を掴んだ。

(やっぱり、何かあったんだ)

私はそれ以上踏み込まなかった。
聞かなくても、私がそばにいれば大丈夫。
そう信じていたから。

それからだった。

遥が、誰かの名前を口にする回数が増えたのは。

「ね、百合。ソウマってさ――」

その名前を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが小さく音を立てて崩れた気がした。

「……ふーん」

平然を装って返事をする。
でも、心臓は理由もなく早く打っていた。

(知らない)

その感情が、はっきりと形を持つ。

私の知らない遥。
私以外に向ける、その笑顔。

太陽は、いつだって私だけを照らしてくれる。
そう信じて疑わなかった。

――疑うなんて、考えたこともなかった。

「百合、聞いてる?」

「……あ、ごめん。聞いてるよ」

嘘だった。

遥の声が遠く感じる。
代わりに、胸の奥で黒いものが、ゆっくりと広がっていく。

(奪われる……?)

その考えを、私は必死で否定した。

違う。
遥はそんなことしない。
私達は特別なんだから。

それから、少しずつ。

ほんの少しずつ、遥は私の隣にいなくなった。

前は、放課後になれば当たり前みたいに一緒に帰っていた。
寄り道をして、どうでもいい話をして、
気づけば日が沈んでいる――そんな毎日。

それが、いつの間にか。

「ごめん、今日は用事あって」
「先帰ってていいよ」

そう言って、遥は笑った。
いつもと同じ、柔らかい笑顔で。

(用事、か)

私はその言葉を、何度も頭の中で転がした。
深い意味なんて、きっとない。
たまたま予定が重なっただけ。

……そう思わなきゃ、いけなかった。

最初のうちは、ちゃんと我慢できていた。
寂しい、なんて思っちゃいけない。
親友なんだから。
遥の世界が広がるのは、いいことのはず。

そう、何度も自分に言い聞かせた。

でも――

「今日も一緒に帰れないんだ」

そう気づくたび、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
それは悲しみというより、
“置いていかれる感覚”に近かった。

教室の窓から見える夕焼け。
あの空の下で、遥は今、誰と笑っているんだろう。

(……考えすぎ)

私は首を振る。
そんなの、考えるだけ無駄だ。
疑うなんて、最低だ。

親友なのに。

数日後、花火大会のポスターが校内に貼られた。

色とりどりの花火。
浴衣姿のイラスト。
「地元夏祭り」の文字。

その瞬間、胸が少しだけ明るくなった。

(……あ、そうだ)

毎年、遥と一緒に行っていた。
人混みではぐれないように手を引いて、
河川敷に並んで座って、同じ花火を見上げる。

今年も、きっと――

「遥、今年の花火大会さ」

そう声をかけようとして、
私は言葉を飲み込んだ。

遥は、誰かと電話をしていた。
少し離れた廊下で、
周りに聞こえないように、声を落として。

でも――

「うん、楽しみ」
「浴衣? うん、一緒に行こうって」

その言葉だけは、はっきり聞こえた。

心臓が、一拍遅れて鳴った。

(……一緒に?)

足が、床に縫い止められたみたいに動かない。
声をかけるタイミングを、完全に失っていた。

電話の向こうの相手の名前は、聞こえなかった。
でも――
もう、分かってしまった。

ソウマ。

遥が、あの名前を口にするときの、
少しだけ浮ついた声。
大切なものに触れるみたいな、柔らかさ。

それが、今の声と重なった。

「じゃあまたあとでね。..」

電話を切った遥は、
振り返って、私に気づいた。

「あ、百合。どうしたの?」

いつもの笑顔。
何も知らない顔。

「……ううん。なんでもない」

私は、笑った。
ちゃんと、笑えたはずだった。

「そっか」

遥はそれ以上、何も聞かなかった。
そして――
そのまま、別の友達の輪に戻っていった。

取り残されたのは、私だけ。

廊下の窓から見える空は、
やけに青くて、遠かった。

(……そっか)

花火大会。
遥は、もう――私と行くつもりはない。

胸の奥が、すうっと冷えていく。

でも、不思議と涙は出なかった。
怒りも、まだなかった。

代わりに浮かんだのは、
とても静かな思考だった。

(私が、ちゃんとしなきゃ)

遥は優しい。
だから、きっと言い出せなかっただけ。
私を傷つけたくなかったんだ。

だったら――
私が理解してあげなきゃ。

親友なんだから。
一番、近くにいる存在なんだから。

(守らなきゃ)

その言葉が、
いつの間にか、胸の中で根を張っていた。

遥の未来が、壊れないように。
間違った方向に行かないように。

――私が。

静かに。
確実に。

(大丈夫。まだ、間に合う)

自分に言い聞かせるように、私は連絡先を開いた。
遥の母親の名前が、そこにあった。



「……はい、もしもし」

受話器の向こうの声は、いつも通り落ち着いていた。
その“正しさ”が、少しだけ胸に刺さる。

「急にすみません。百合です」
「……あら、百合ちゃん。どうしたの?」

迷いはなかった。
これは“親友として、当然の行為”だと信じていたから。

「遥が最近、少し様子がおかしくて」
「それで……男の子と、よく一緒にいるみたいなんです」

沈黙。
一拍遅れて、息を呑む音。

「……男の子?」
「はい。ソウマっていう人です」

私は、知っていることを淡々と話した。
どこで会っているか。
どんな時間に連絡を取っているか。
祭りに、一緒に行く約束をしていたこと。

事実だけを、丁寧に。

「……そう。ありがとう、百合ちゃん」

その声には、困惑と、わずかな怒りが混じっていた。
それを聞いた瞬間、胸の奥が静かに落ち着いた。

(よかった)

これでいい。
遥は、守られる。

そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが静かに音を立てて沈んでいった。

黒い水が、ゆっくりと満ちていく感覚。
冷たくて、でも不思議と落ち着く。

──いいこと、思いついちゃった。

ソウマと一緒にいる遥は、
もう、私の知っている遥じゃない。

あの人の目に映る遥。
あの人が大切にしようとしている“未来”。

それがある限り、
遥は私のところに戻ってこない。

だったら――
その場所ごと、壊してしまえばいい。

清らかで、守られて、
何も知らないままの遥じゃなくなれば。

もう、選ばれることもない。
もう、連れて行かれることもない。

壊れたら、終わりじゃない。
壊れたら……私が、拾えばいい。

親友として。
一番近い存在として。

「ふふ……待っててね、遥」

その声は、もう祈りじゃなかった。
願いでもなかった。

ただの、決意だった。

……花火大会当日。

百合は、少し早めに会場へ向かった。

金魚すくいの屋台。
夜風に揺れる提灯。
甘い匂いと、ざわめき。

その喧騒の端。
灯りの届かない場所に、
だらしなく座り込んだ数人の男たちがいた。

百合は、足を止める。

「ねぇ……暇そうだね」

甘く、柔らかい声。
ただ、それだけ。

視線が集まる。
空気が、わずかに変わる。

「面白い“遊び”があるんだけど」
「逃げるの、得意な子でさ」

言葉は多くなかった。
説明も、必要なかった。

男たちの笑い声が、
祭囃子に溶けて消える。

提灯の赤が、
一瞬だけ、滲んで見えた。

その色が、
あとで何を意味するのか──
百合は、もう考えないことにした。

百合は、少し離れた場所で立ち止まっていた。

人混みの外れ。
灯りが途切れ、川の気配が近づくあたり。

(……もうすぐ)

胸の奥が、妙に静かだった。
高鳴りも、不安もない。
ただ、予定通りに物事が進んでいるという確信だけ。

(大丈夫。ここからは、私の役目)

――遥が、壊れる。
そして、私が助ける。

それで、全部元に戻る。

遠くで、足音が重なった。
笑い声。
短い叫び声。

百合は、動かなかった。
聞こえないふりをした。

(すぐ終わる)

そう思った、その時。

──鈍い音。

乾いていて、重たい音。
地面と、何か硬いものがぶつかる音。

一瞬、胸がざわついた。

(……今の、なに?)

次の瞬間、
ばらばらと足音が散っていく気配。

笑い声はない。
罵声もない。

ただ、逃げる音だけが、夜に溶けていった。

「……?」

おかしい。

百合は、初めて足を動かした。
鼓動が、少しずつ早くなる。

(違う……こんなはずじゃ……)

川沿いの暗がり。
提灯の光が届かない場所。

そこに――

遥が、倒れていた。

浴衣が、乱れている。
髪が、土に触れている。

「……遥?」

声が、うまく出なかった。
喉が、ひりつく。

近づいて、膝をつく。
肩に触れる。

冷たい。

「……ねぇ、遥……?」

揺らしても、返事はない。
呼吸の気配も、ない。

視線が、ゆっくりと頭部に落ちる。
そこに、赤黒い染みが広がっているのを見て――

百合の世界が、音を失った。

(……え?)

理解が、追いつかない。

(違う……違う……)

これは、違う。
こうなるはずじゃなかった。

壊す、だけだった。
傷つける、だけだった。

殺すなんて――

「……ちが、う……」

声にならない声が、唇から漏れる。

助けるはずだった。
守るはずだった。
一緒に、戻るはずだった。

なのに。

遥は、もう、動かない。

百合は、ゆっくりとその場に座り込んだ。
遥の身体を抱き寄せることも、できなかった。

触れたら、全部が現実になる気がして。

(……私が)

その思考が、頭の奥で形を持ち始める。

(私が、やった……)

震える手で、口元を押さえる。
吐き気が込み上げる。

でも――
同時に、胸の奥で、別の感情が蠢いた。

逃げなきゃ。
隠さなきゃ。

このままじゃ、
全部、終わる。

百合は、ゆっくりと立ち上がった。

遥を、もう一度だけ見る。

その顔は、
あまりにも静かで、
まるで眠っているみたいだった。

「……ごめんね」

それが、最初で最後の言葉だった。

百合は、夜の闇へと背を向けた。

その瞬間から、
世界は、完全に歪み始めた。
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