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野原のマフィンと親指少女

(七)

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 親指少女は、ふるふると首を横に振る。
 ちがうらしい。じゃあ。

「親指ちゃんのこと無視したの、怒ってる?」

 少女はむっとした顔で頷いた。なるほど、そっちか。

 和菓子屋の親子とはじめて会ったとき、穂乃花は親指少女に構ってあげられなかった。そのうえ、少女がいるのに「いない」と言ったのだ。あのときは自分のことで精一杯だったが、今思い出すと親指少女にはひどいことをしたと思う。誰だって、そこにいることを「いない」と否定されたくないだろう。

「ごめん。無視したかったわけじゃないの。視えてるって周りの人に思われて怖がられるのが苦手で……なんて、ただの言い訳なんだけど。ごめんね」

 穂乃花は頭を下げて、膝の上に乗せた自分の手を見つめる。本当に、こういうのが苦手だ。嫌われたらどうしよう。悶々として二、三分はじっとしていたと思う。親指少女がとんっと跳ねて、穂乃花の膝に乗った。くいくいっと袖を引かれる。

「なあに?」

 親指少女は自分が背負っている小さな籠を示す。今日はまだ、いつもの実が入っていない。それから、ついてきてというような仕草があった。

「……あ、赤い実を取ってくるの、手伝ってってこと?」

 少女は頷く。手伝ったら許してあげる。そんな顔だった。穂乃花はすぐさま頷いた。

「うん、行こう! めちゃくちゃ摘もう!」

 穂乃花は少女を肩に乗せて玄関に向かう。靴箱の上に植物のツルで編んだ籠が乗っているのだ。柔らかいアイボリーの色がかわいらしく、造花を入れてインテリアにしていた。千代がいた頃から置いてあるものだ。籠から造花を取り出して空にすると、家の中に叫ぶ。

「雪斗さーん、親指ちゃんと出かけてきます!」
「はーい、行ってらっしゃい。気をつけてね」

 すこし笑い声を含んだ優しい声を背中に受けて、少女の指さす先へ足を進めた。

 家をぐるりと回って、電話ボックスサイズの社の前に来たとき、親指少女はぺこりと頭を下げた。「ほらあなたも」と目でうながされて、穂乃花もお辞儀をする。龍神の社だ。朝お供えしたサンドイッチは、まだそこにある。

 穂乃花は山の中に踏み込んだ。木の葉のすき間から届く光の下、鳥のさえずりを聞きながら道を進む。あっという間に自分がいる場所が分からなくなった。案内役である親指少女がいなくなれば、きっと家にはもどれない。でも怖いとは思わなかった。

「あ、鹿!」

 鹿は、あ、どうも、という顔で穂乃花を見て、くるんと背を向ける。美尻アンド美脚だ。うらやましい。ふっふっふー、ふっふっふーん。なんだか楽しくなって鼻歌を披露しながら二曲、三曲と続けるうち、風の匂いが変わり始めた。きっともうじき、人の世を越える。

 ちらりと、視界の端に黒い影のようなものが映った。こちらの様子をうかがうそれは、ふつうの人の目には映らない類の存在だろう。

 ――ちょっと、やな感じ。

 鳥肌が立つような異様な空気があった。人の世から外れようとすると、当然そういったあやしい者も増える。穂乃花はその影から目を逸らして、歩き続けた。
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