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あったかシチューと龍神さま
(十二)
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「すごい、旅行がタダだね! いいなあ」
交通費がかさむのが旅行の厄介なところだ。目的地に着くまでの時間も楽しくはあるけれど、出費は痛い。
親指少女が次もあるよ、ととなりを示す。穂乃花は足取り軽く移動して、襖を開けた。温かいそよ風が、頬を撫でた。明るい光に思わず目を細める。白色の花弁が舞い込んだ。
大きなしだれ桜が一本、丘の上に立っていた。今がちょうど盛りらしい。野原の草を撫でていた風が、ふわりと花弁を舞い上げる。青空に桜が躍った。
――あ。
一瞬、木の下に人影が見えた気がした。けれど穂乃花の気のせいだったようだ。こんな美しい木なら桜の精も住み着いてしまいそうなものだが……。しばらくぼーっとしてから、穂乃花は襖を閉めた。
「きれいだね。夏に春の部屋か。冬は寒そうだから、勘弁かなあ。秋は今、見飽きてるし」
じゃあここは? と少女が示す襖を開けた。広がっていたのは湖だ。どこか山深くの、木々に包まれた静かな場所。
「今、なにか光った」
穂乃花は草地に踏み出し湖をのぞき込む。優しい緑の光が、ぼんやりと水中に見えた。目をこらすと、中学の教科書に載っているような微生物に似た隣人たちが、水の中でたゆたって発光しているのだ。ミカヅキモとか、ミジンコとか、ボルボックスとか……そんな微生物を思い出す。
「ボルボックスって、コロポックルに響きが似てるなって思ってたんだ。コロポックルって知ってる? アイヌの伝承にある小人のこと」
小学生のころ流行った農場を経営するゲームがあった。未開拓の土地を耕して野菜を育て、出荷する。ゲーム中盤からコロポックルに野菜作りを手伝ってもらえるから、ファンタジーなゲームだとクラスメイトたちは言っていたけれど、穂乃花には現実味のあるものだった。
「親指ちゃん、一緒に野菜作ってみない?」
言いながら、穂乃花はつん、と水面をつついた。隣人たちはおどろいたのか一瞬で水底に沈んだ。光が遠くなって、薄暗くなる。怖がらせた……、と親指少女が呆れた顔をするから、穂乃花は慌てた。
「悪気はないんだよ。ごめんねー、隣人さんたち!」
それでも隣人たちは水底から帰ってこなかった。静かになった水面には、穂乃花の姿が鏡のように映っている。見慣れない、白無垢姿だ。ふと寂しくなった。
「こういうのは、雪斗さんに最初に見てほしかったなあ」
呟いた自分の言葉がスポンジに水が染み込むように、胸を重くしていく。いつか、こんな格好で彼のとなりに並べるだろうか。水面を撫でれば、自分の姿が歪に揺らぐ。
「私、ふつうの人だったらよかったのになあ」
隣人が視えなければ、雪斗の母親にだって怖がられなかったのに。それだけじゃない。もっと気楽に生きられたはずだ。隣人なんて、視えなければよかった――。
親指少女がつんつんと穂乃花をつついた。心配そうな顔だ。
「……ごめん! なんでもないよ。気にしないで」
結婚、両親、写真――、寝込んでいる間、夢にぐるぐる現れた。身体が弱っているときは、心も弱るらしい。穂乃花にとっては、あまり考えたくないことが延々と頭から離れない。
穂乃花は周囲を見渡した。ここにいるのは、穂乃花と親指少女と、水底にたゆたう隣人だけ――、よし。ここなら、いいか。
「……私だって」
大きく息を吸いこみ、
「結婚したいわあああああああ!」
親指少女が目を丸めて、びくっと跳ねた。
「雪斗さんと、結婚したいに決まってる! 私、いたずらする隣人を怒っただけなのに! 怖がられることしてないのに!」
視えないものを怖がる雪斗の母の気持ちは、分からないでもない。うまくやり過ごせなかった自分も憎い。幼いころから、なにも成長できていないじゃないか。もやもやする思いを腹にためて、
「ああああ、もうーっ! ばかああああああ!」
声の限り叫ぶ。
肩で大きく息をした。
ちょっと、すっきりした。
「よし、親指ちゃん! 今のは雪斗さんに内緒ね! 次、いこ、次!」
にっと笑うと、どかどかと黒光りする廊下にもどって、穂乃花は次の襖を開けた。
交通費がかさむのが旅行の厄介なところだ。目的地に着くまでの時間も楽しくはあるけれど、出費は痛い。
親指少女が次もあるよ、ととなりを示す。穂乃花は足取り軽く移動して、襖を開けた。温かいそよ風が、頬を撫でた。明るい光に思わず目を細める。白色の花弁が舞い込んだ。
大きなしだれ桜が一本、丘の上に立っていた。今がちょうど盛りらしい。野原の草を撫でていた風が、ふわりと花弁を舞い上げる。青空に桜が躍った。
――あ。
一瞬、木の下に人影が見えた気がした。けれど穂乃花の気のせいだったようだ。こんな美しい木なら桜の精も住み着いてしまいそうなものだが……。しばらくぼーっとしてから、穂乃花は襖を閉めた。
「きれいだね。夏に春の部屋か。冬は寒そうだから、勘弁かなあ。秋は今、見飽きてるし」
じゃあここは? と少女が示す襖を開けた。広がっていたのは湖だ。どこか山深くの、木々に包まれた静かな場所。
「今、なにか光った」
穂乃花は草地に踏み出し湖をのぞき込む。優しい緑の光が、ぼんやりと水中に見えた。目をこらすと、中学の教科書に載っているような微生物に似た隣人たちが、水の中でたゆたって発光しているのだ。ミカヅキモとか、ミジンコとか、ボルボックスとか……そんな微生物を思い出す。
「ボルボックスって、コロポックルに響きが似てるなって思ってたんだ。コロポックルって知ってる? アイヌの伝承にある小人のこと」
小学生のころ流行った農場を経営するゲームがあった。未開拓の土地を耕して野菜を育て、出荷する。ゲーム中盤からコロポックルに野菜作りを手伝ってもらえるから、ファンタジーなゲームだとクラスメイトたちは言っていたけれど、穂乃花には現実味のあるものだった。
「親指ちゃん、一緒に野菜作ってみない?」
言いながら、穂乃花はつん、と水面をつついた。隣人たちはおどろいたのか一瞬で水底に沈んだ。光が遠くなって、薄暗くなる。怖がらせた……、と親指少女が呆れた顔をするから、穂乃花は慌てた。
「悪気はないんだよ。ごめんねー、隣人さんたち!」
それでも隣人たちは水底から帰ってこなかった。静かになった水面には、穂乃花の姿が鏡のように映っている。見慣れない、白無垢姿だ。ふと寂しくなった。
「こういうのは、雪斗さんに最初に見てほしかったなあ」
呟いた自分の言葉がスポンジに水が染み込むように、胸を重くしていく。いつか、こんな格好で彼のとなりに並べるだろうか。水面を撫でれば、自分の姿が歪に揺らぐ。
「私、ふつうの人だったらよかったのになあ」
隣人が視えなければ、雪斗の母親にだって怖がられなかったのに。それだけじゃない。もっと気楽に生きられたはずだ。隣人なんて、視えなければよかった――。
親指少女がつんつんと穂乃花をつついた。心配そうな顔だ。
「……ごめん! なんでもないよ。気にしないで」
結婚、両親、写真――、寝込んでいる間、夢にぐるぐる現れた。身体が弱っているときは、心も弱るらしい。穂乃花にとっては、あまり考えたくないことが延々と頭から離れない。
穂乃花は周囲を見渡した。ここにいるのは、穂乃花と親指少女と、水底にたゆたう隣人だけ――、よし。ここなら、いいか。
「……私だって」
大きく息を吸いこみ、
「結婚したいわあああああああ!」
親指少女が目を丸めて、びくっと跳ねた。
「雪斗さんと、結婚したいに決まってる! 私、いたずらする隣人を怒っただけなのに! 怖がられることしてないのに!」
視えないものを怖がる雪斗の母の気持ちは、分からないでもない。うまくやり過ごせなかった自分も憎い。幼いころから、なにも成長できていないじゃないか。もやもやする思いを腹にためて、
「ああああ、もうーっ! ばかああああああ!」
声の限り叫ぶ。
肩で大きく息をした。
ちょっと、すっきりした。
「よし、親指ちゃん! 今のは雪斗さんに内緒ね! 次、いこ、次!」
にっと笑うと、どかどかと黒光りする廊下にもどって、穂乃花は次の襖を開けた。
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