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大きなお鍋と迷子のアリス

(四)

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「雪斗さんも、寝坊したこと反省してくださいよ。これで何度目ですか。絶対早起きするって、昨日約束したのに」
「それは、……ごめんなさい。あ、俺、お茶淹れるよ! 穂乃花さんも、寒かったでしょ」

 雪斗はいそいそと立ち上がって、襖のすき間に身を滑らせた。逃げる気だ。

 もうひとつくらいお小言を言おうかと思ったが、視界に黄金色の尻尾が掠めて穂乃花は口をつぐんだ。すぐどこかに行ってしまったから一瞬しか見えなかったけれど、いつも雪斗に添い寝している、あの狐だろう。

 今日の寝坊も狐のせいだった。雪斗は仕事の執筆が切羽詰まっているようで、ここ数日睡眠時間を削っていたから、寝られるときに寝てほしいと穂乃花も思っている。狐のおかげで熟睡できたなら、いいことだとは思うのだ。でも朝市、一緒に行きたかったし……。

 困ったなあ。

 ふと視線をずらせば、和真の膝に乗っている優も狐のいた場所を見ているのに気づく。……本当に困ったものだ。ため息をつくと、お盆を持った雪斗が「お待たせしました!」ともどってきた。早い。

「お待ちかねの、小倉サンドでーす!」

 朱里はすっかり気を取り直したようで、パンを取り出す。

「坂本ベーカリーの抹茶小倉サンドは、抹茶味の食パンに、小倉餡とホイップクリームがこれでもかと挟まれている、deliciousな一品ですよー! さ、どうぞ!」

 さすが和菓子屋の娘。坂本ベーカリーの回し者なのかと思うくらいに流暢に説明して、パンを全員に配っていく。彼女の言う通り、これでもかと挟まれている小倉餡とクリームのおかげで、ずっしりと手に重い。

「いただきまーす。……んんっ!」
「ね、おいしいでしょ!」

 穂乃花は一口かじって、感嘆の声をもらした。小倉餡は上品な甘さで、ホイップクリームとの相性も絶妙だ。これは、おいしい。めちゃくちゃに。

「これで穂乃花さんも坂本ベーカリーにメロメロ! 南風岡のローカル店、どうぞよろしく! うちの和菓子もごひいきに!」
「やっぱり最終的に集客なのね」
「あー、だから違いますって! 今のはちょっとしたjokeですぅ!」

 あまりのおいしさに朱里と漫談しながらもぺろりと平らげたが、横を見ればもう全員すでに食べ終わっていたのだった。

「あのふたり、縁側で将棋って、おじいちゃんみたいですよねー」

 つかの間の一服のあと、雪斗と和真は将棋の対局にもどった。穂乃花と朱里はお茶を片手に見守り、優はひとりで本を開く。千代の家には、雪斗の母が幼いころ読んでいたのだろう、年季の入った子ども向けの本が何冊もあるのだ。

「私、将棋はよく分からないなあ。一回雪斗さんに教えてもらったけど、さっぱり」
「ええ、穂乃花さんやったことあるんですか。あたしなんて、やる前から降参ですよ」

 雪斗がふっとこちらを見て笑った。

「穂乃花さんは将棋向いてなかったよね。まさかあそこまで下手とは――あ、ううん、なんでもないよ」

 睨みつけると、雪斗は情けなく眉を八の字にして視線をうろつかせる。

「あー、えっと、朱里さん! 教えてあげるから、やってみませんか?」

 いっそすがすがしいほどに話題を逸らしてくれた雪斗にむっとする。穂乃花は八つ当たり気味に「朱里さん行ってらっしゃい」と送り出した。もうこうなったら、朱里が苦しむところを高みの見物して憂さを晴らそう。そんな魂胆に気づいてか朱里が叫ぶ。

「穂乃花さんひどい! あたし馬鹿だから無理ですって」

 しかし結局、雪斗と和真から「おいで」と誘われて、朱里はいやいやながらも腰を上げた。

 相手の玉将を取った方が勝ち。自身の持ち駒は二十。玉将は縦横斜め隣接するすべてのマス目に動き、歩は一歩前だけに――。穂乃花もぼんやりと説明を聞いていたが、よくあんな小難しいゲームができるなと思う。さっぱり分からない。すぐに飽きてしまって高みの見物どころではなくなった。

 優は本の世界に浸って、大人たちのやりとりには興味がなさそう。

 穂乃花は、ふわあっとあくびをもらす。

「平和だなあ」

 秋の日差しが差し込む。人は太陽が出ていない時間に眠くなるという話、あれは嘘だろう。だってこんなに明るくても、うつらうつらとしてしまう。和真の説明が、だんだん子守唄に聞こえはじめた。

 ――ちょっとだけ……。

 穂乃花は心地よい誘いに目を閉じた。
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